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2007年6月30日 (土)

武田教授の文藝春秋搭載文

早速、文藝春秋7月号を購入し、武田教授の「『不都合な真実』主犯は米国だ」を拝読しました。予想通りにアル・ゴアの著書・映画に関するもので、地球温暖化問題に、日本人が政府やメディアの報道に、過剰に反応しすぎていることを警告する内容でした。

北極、南極の氷が融けて、地球の海面水位が上がり、陸地の一部が海埋没してしまうということが、喧伝され、最も危機感を煽る要因になっていましたが、『陸地が無く海に浮かぶ北極の氷は、たとえ融けても海面水位には関係しない(アルキメデスの原理)、水蒸気が増えて、むしろ南極は雪や氷が増える可能性が高い、国連の公式文書にも水位が上がることを警告したものはない』と武田教授は書いておられます。

梅爺も、地球の一部は埋没すると思い込んでいましたので、理科系人間としては、洞察力を欠いた真に恥ずかしい話です。

北極の氷は、融けることより、砕けて海に氷のまま流れ出ることが問題で、メキシコ暖流が止まり、ヨーロッパ全域やアメリカ、中国、インドなどの一部が寒帯になることの被害の方が大きいが、日本への影響は無いとも書いてありました。

日本は、二酸化炭素の排出量レベルは、欧米に比べて格段に低く、もし欧米が日本並みのレベルを達成すれば、温暖化問題は解決してしまう、日本は既に優等生なのに、京都議定書で、他の先進国と同じ削減率を約束したのは政治的な誤り(約束が守れそうも無いので『排出権』を他国から買うことになる。これに税金が2兆円使われる)、日本人はもっと『頭を冷やせ』とも書いてありました。

日本への直接的な影響が無い(少ない)ということは朗報ですが、地球環境は一体で、農産物、海産物などの収穫のバランスが世界規模で崩れることや、オゾン層破壊の影響などは、日本へも及ぶと思われますので、頭を冷やした上で、日本への物理的、経済的な影響の度合いを予測し、政策的対応施策を練っておくことは、それでも必要ではないかと感じました。

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2007年6月29日 (金)

武田邦彦先生のホームページ

先日のブログで、梅爺もメンバーの『横浜フォーラム』主宰者で、『名前読み込み狂歌』の達人でもあるMさんから、文芸春秋の最新号(7月号)に、「『不都合な真実』主犯は米国だ」という一文を発表された中部大学総合工学研究所教授の武田邦彦氏は、Mさんとは同じ会社への同期入社の方で、ホームページに沢山の文章も発表されておられるから、読まれたらいかがですか、とメールを頂戴しました。

武田先生は、ご自分のホームページで、著作権についてはこだわらないので自由に参照してくださいと書かれてありましたので、それに甘えホームページURLをご紹介します。

http://takedanet.com/

文芸春秋の文章は、申し訳ないことに読んでいませんが、タイトルからして、前副大統領アル・ゴア氏の環境問題をあつかった著作、映画に関する内容、それも批判的な内容ではないかと推察しました。早速雑誌を購入し、読んでみて、もし間違っていましたら、訂正します。

ホームページを覗いてみて、沢山の魅力的な文章が掲載されていることを知りました。そして、あまりの面白さに、時間を忘れて読みふけってしまいました。

中に、「正統は『異端』である?」という一文があり、内容と主張に共鳴しました。武田氏が出版された『環境問題では何故ウソがまかりとおるのか?』という本のなかで、以下の三つのことを書いたら、『異端』視されるようになった顛末を書かれたものです。

1) 地球温暖化しても北極と南極の氷では海水面は上昇しない。
2) ダイオキシンは人間に対して毒性が低い。
3) ペットボトルのプラスチック・リサイクルは資源の節約はゴミの減量になっていない。

これらは、梅爺の今までの『常識』とは異なっていますので、新鮮な驚きですが、武田氏が、『奇をてらう』ことを言っているのではないことは、提示されている証拠や論証で納得できました。

当たり前のことを言うと、あるコミュニティのなかでは『異端』と言われることがあるという、古今東西人間の歴史が繰り返してきたことを、思い起こし、再認識することができました。

梅爺も、『屁理屈屋』『頑固』と周囲から言われますが、ひょっとすると、これは『異端』同様の現象かなと、自己弁護の気持ちが、頭をよぎりました。

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2007年6月28日 (木)

爺さん論争『仏教』編(4)

キリスト教の教えの基が『旧・新約聖書』であるように、仏教には沢山の経典が残されています。

キリスト教の場合、『旧・新約聖書』に書かれていることが、神やキリストの言葉や行いをどれだけ忠実に記述したものなのか、それとも後代の関係者が、『ある意図』をもって創作したしたものなのかは、いつの時代でも議論の対象になっています。新約聖書のキリスト伝を書いた4人の著者は、いずれもキリストと同時代の人ではなく、キリストと行動を共にして、その言動を書き留めたわけではありません。

『古事記』や『日本書紀』が、当時の為政者の『都合、思惑、意図』で書かれたものと推定する方が、自然ですから、これらが日本の歴史を正しく記述したものではないことは、容易に想像できます。同じような、意見が聖書にも向けられているという話です。

仏教の経典も、お釈迦様の言動を忠実に反映したものかどうか、梅爺は知りませんが、少なくとも、サンスクリットの原典を、中国に布教する時に、中国語に翻訳した、有名なインド系の坊さんがいたと話は聞いたことがあります。残念ながら名前は忘れました。

サンスクリットの表現は知りませんが、『色即是空』などと、中国の漢字文化をうまく利用し、『簡にして要』の翻訳をした能力に、梅爺は舌を巻きます。一文字で広大な概念を表現する中国の漢字文化も見事というほかありません。日本人の空海も、突然中国へ渡って、何の支障もなく中国語を話し、中国人が驚くような漢詩を作ったと伝えられています。辛うじて、英語の一部がようやく理解できる梅爺は、いつの時代にも、『異文化間の橋渡しができる、ものすごい言語能力の人物が存在する』ことに、畏敬の念を持ちます。

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2007年6月27日 (水)

爺さん論争『仏教』編(3)

仏教は、『宗教』なのだろうかと、爺さん論争のメンバーに、梅爺がメールを出しましたら、アメリカ在住で企業弁護士業を営む、Iさんから、広辞苑に、以下の定義があるぞと回答がありました。

「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事」

ウーン、難しいけれど『仏教』は『宗教』ではないとは、いえませんね。

それならば、『神』の定義はどうなっているのだろうと広辞苑を除いてみましたら、この言葉は、こういう場合に使われる、という事例が羅列してありました。へたに一義的な定義をすると、都合の悪いと思う宗教からクレームがつきますから、辞書編纂者も、困った果てに事例に止めたのでしょう。

解脱や悟りで、『こだわり』の支配から逃れようとした仏教の、最初の考え方の中に、『極楽往生』という考えがあったのかどうか、梅爺はしりませんが、あの世にまで行って、自分の居場所に『こだわり』を主張するのは、矛盾があるように感じます。

人間の死に対する恐怖や不安を利用し、『天国と地獄』『極楽と地獄』という概念を提示することで、『信ずるものは天国、極楽へいける』と大衆を導く手法は、多くの宗教に共通ですが、人間の脳の中に存在する概念が、外の世界にも本当に存在すると錯覚させる、巧妙な手法のように、梅爺は感じます。

梅爺も、自分の頭で想像できる、または教えられてきた植えつけられた『極楽』という概念が本当に存在すれば、是非その一員にしていただきたいと『願い』はしますが、本当に『極楽』はどこかに(自分の脳の中以外)存在すると思うのか、と問われたら、正直に『わかりません』と言うほかありません。

梅爺の乏しい理性では、その存在を得心する証拠や理由が見つからないからです。

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2007年6月26日 (火)

爺さん論争『仏教』編(2)

お釈迦様が、『こだわり』から解脱するために、俗世を離れて修行をされたように、仏教の原点には、『悟りには出家して修行することが必要』という、考え方があるように見えます。これは、『小乗仏教』として、今日まで受け継がれています。しかし、この考えでは、『悟りをひらける可能性を持つ人』は修行に耐えうる一部のエリートになってしまいます。出家する人も、『自己救済』が目的であって、『一般大衆の救済』が目的という意識があるようには見えません。カソリックにも修道院、尼僧院に入って、俗世を捨て、自分の全てを神に捧げるという考え方があり、宗教の本質は異なりますが、形式は類似しています。

しかし、そのうちに、極端なことを言えば、『南無阿弥陀仏』とさえ念仏を唱えれば、『極楽往生できる』というような、『一般大衆救済』を目的とする仏教の考え方が生まれてきます。出家しなくとも在家のままで救済されるというのですから、梅爺のように厳しい修行には耐えられなさそうな人間には、大変ありがたい大乗仏教の考え方です。元々、自己救済のために出家・修行した坊さんが、もう一つ大衆救済の指導者という役目も負うことになります。

自己救済だけの世界なら、個人的な哲学追及の世界とも言えますが、大衆救済ということになると、『宗教』の色彩を帯びてきます。

梅爺は、乏しい理性で『懐疑心』を振りかざす性格なので、念仏さえ唱えれば、悪事が許され、苦しみからも解放されて、極楽往生できますと言われても、『それは、どうもご親切に』と素直に受け止められません。

大衆救済を目指した時点で、宗教は折角、俗世の『こだわり』を排除した世界から、権力や富にまで『こだわる』俗世に、立ち戻ることになるという、矛盾があるように梅爺は感じます。権威や富の象徴ともいえるような、壮大な教会や寺院を見ると、一層そのように思えてしかたがありません。

梅爺も、手っ取り早く救済されたいとは願いますが、手っ取り早い方法があるという話には懐疑的です。『あなたも、今すぐ英会話の達人になれます』というような広告を見ても、疑うことにしています。

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2007年6月25日 (月)

爺さん論争『仏教』編(1)

梅爺は、大学時代に属していた男声合唱団の、OBで結成する『OB合唱団』に現在属していて、同じくその合唱団に属している大学時代の同期の何人かとメールで時折『爺さん論争』なる、勝手気ままな意見交換を楽しんでいます。このことは、前にもブログで紹介しました。梅爺と同期なのですから、全員、参加者は文字通り爺さん達です。

メンバーの一人が、今年奥様とミャンマー旅行をされ、多くの仏塔などの遺跡を見て回った割りに、『仏教』についての知識がたりないと自覚されて、その後、中村元氏の仏教に関する解説書を中心に、10数冊の本を読破され、感想を文章にまとめてメールで送ってくださいました。ズボラな梅爺には、とてもこのような集中力がありませんので、タダ感服するのみです。

梅爺は、前に、北陸旅行で訪れた永平寺などに関連して『六根清浄』に関する感想をブログに書いたことはありますが、正直なところ、仏教にはほとんど無知といえる状態ですので、他人の勉強した結果のおこぼれを頂戴するだけでも、大変得るものがありました。

いただいたレポートの中に、以下のような記述がありました。

仏教の教えは一言で言えば、「慈悲」だそうです。もともと「慈」と「悲」は意味が違う言葉で、慈というのは人々に利益と安楽とをもたらそうと望むこと、悲というのは人々から不利益と苦しみを除こうと欲することだそうです。その違いはともかく、慈悲とは、人の幸せを考えることでしょう。

その具体的な手段としては、生老病死の苦しみから解放されることを教えています。人が苦しむのは、こだわりがあるからで、こだわりを捨てれば、苦しみから解放されると教えます。キリスト教は「愛」を説きますが、仏教では愛は執着を生むとして、斥けます。

肉体的な苦痛はともかくとして、精神的な苦痛は、自分の中にある『こだわり』に起因すると言われると、そのような気もしますが、『こだわり』を生み出す脳の中の抽象概念処理や、論理・推論思考処理こそが、ヒトがヒトたる所以ともいえる、基本的な特徴なので、『こだわりを捨てる』ということは『ヒトがヒトであることから脱却する』ことを、意味するのではないかと、梅爺は頭を抱えてしまいます。『こだわり』から脱却できる方法があるかもしれないなどと、一縷の望みを持つより、ヒトはヒトである以上『こだわり』からは脱却できないので、覚悟して耐えなさいと、いっそ言われる方が、つらいことですが、スッキリするような気もします。

『ヒトはヒトから脱却しない限り、ヒトとしての平安を得られない』という、パラドックスのような難題に、お釈迦様は修行をもって挑戦されたのだと梅爺は理解しました。

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2007年6月24日 (日)

言葉とリズム(番外編その2)

前にも紹介した『横浜フォーラム』の主宰者のMさんからも、七五調ごついて、意見をいただきました。Mさんは、フォーラムで講演された講師の頭文字を使って、その人物を表現する『狂歌』を、永年創り続けてこられた方です。既に、それを含め、300人以上の『お名前読み込み狂歌』を発表されておられ、この道では家元の領域に達しておられます。Mさんの、ご意見の一部を、以下に転記します。

日本語は実に美しく味わい深い言葉です。そのため、古来、短歌(五七五七七)や俳句(五七五)、あるいはそれをもじった狂歌や川柳、更には都々逸(七七七五)などが人々に愛されてきました。いずれも、七つと五つの単位で日本語の美しさを見事に表現していますね。中国でも五言絶句や七言律詩がよく作られていますが、漢詩の世界でも七と五が注目されています。

なぜこのような韻律を踏んだものが愛され好まれるのでしょうか。私の独断と偏見によれば、それは短詩型の心地よい韻律の中に、思いを凝縮できるところにあるのではないかと思います。

「狂歌」は諧謔(ユーモア)の精神が大切ですが、この「お名前」付きのものは相手の方の美質をしっかりとキーワードに据えて、前後の言葉で補うことになります。一度しか会ったことのない方の特質をピタリ言い当てたときの快感は、たとえようもありません。

いい発想が湧くのは昔から「床上」「鞍上」「厠上」などと言いますが、私の場合も同じで、床の中、電車の中、トイレの中でヒントが閃くことが多くあります。人間観察と日本語研究に役立つ「狂歌作り」は、実は最高のボケ防止になると思っています。

明らかに、梅爺のブログよりは、ボケ防止になることは間違いがありません。人間観察力、日本語の語彙の多さ、表現能力、ユーモア、思いやりなどの資質がそろわないことには、『お名前読み込み狂歌』は成立しないのですから。Mさんをはじめ、梅爺の周辺に、沢山の多能多才な友人がいることが、梅爺の人生の誇りの一つです。

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2007年6月23日 (土)

言葉とリズム(番外編その1)

日本人は、何故七五調のリズムを、言葉を使って、『快適』と感じるのだろうかと、ブログに書きましたら、おとさんからは、それは潜在的に4拍子を指向しているからではないかとのコメントをいただきました。

歩行リズムなど、人間がどの民族であれ、自然と感じるリズムは、2拍子、4拍子と、偶数拍子であろうことは、容易に推測できます。

万葉集の頃の日本人は、今のような西洋音楽を知らなかったわけですから、現代流の作曲の意識は無かったでしょう。従って、ある拍子に合わせて和歌を作った目的は、鑑賞が、耳を主体に行われたのであろうと、梅爺は想像しました。年始のお歌会はじめの読み上げや、百人一首のカルタ会での読み手の、節をつけた読み上げからも、それが分かります。

つまり、文字を眼で読む鑑賞よりは、声を耳で聴く鑑賞が主体であり、それであるが故に『歌』と呼ばれたのでしょう。

それならば、何故、2拍子や4拍子に合わせて、文字数は、四や八でなかったのかというと、それは、読み上げのリズムの中に、『間(ま)』を作るために、無音の箇所を挿入したためと考えられます。あくまでも、想像ですが、なんとなく当たっているような気がしてきました。

5や7という奇数が、偶数より縁起の良い数であるという考え方が、中国から入り、日本の中に定着していたのかもしれません。

梅爺は、合唱をやってきたせいか、無意識に、文体にも、ある種のリズム感を出そうとしていることに、ブログを書いてみて気づきました。

英語には75調はありませんが、英語独特のリズム感で、相手の話が聴けたり、文章が読めるようになれば、一気に、対応レベルが上がるのではないかと思います。

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2007年6月22日 (金)

コモデティ(2)

2001年の9月の後半であったと記憶していますが、IBMの前のCEO、ルー・ガースナー氏が、梅爺が当時勤務していた会社の、会長、社長と会談するために、訪ねて来られました。あの『9月11日』の直後でしたので、前からの約束とはいえ、会談はキャンセルされるものと梅爺は予測していましたが、約束とおりに会談は実現しました。IBMはコーポレート・ジェットを保有しているため、セキュリティは自己責任で管理できたからでしょう。この時期、民間エアラインを利用する、多くの米国ビジネスマンの日本出張は、キャンセルになりました。

ガースナー氏との会談の席に、梅爺も同席しました。1993年に、瀕死の状態であったIBMの経営を引き受け、5年後には、業績を回復したガースナー氏は、当時米国を代表する経営者の一人でしたので、その発言を梅爺は注意深く拝聴しました。通常このようなトップ会談の時には、1ケ月位前から両社のトップの側近同士が打ち合わせを繰り返し、想定される話題に関しては『ブリーフィング』としてトップにメモが届けてあります。しかし、ガースナー氏は、ブリーフィングを無視し、突然『コモデティ』の話を始めました。

ガースナー氏の発言の要旨は、『IBMと言う会社の特徴を考えると、コモデティ・ビジネスは全く向いていない。IBMの優秀な人材は、Me-Only ビジネスには向いているが、Me-Tooビジネスには全く向いていない』という内容でした。当時、IBMは、そうは言いながら『PC』『ハードディスク』『メモリ半導体』『液晶パネル』などの『コモデティ』事業を展開している最中でしたので、梅爺は、ガースナー氏が、『近い将来これらの事業を切り離すことを考えている』と感じました。

梅爺が感じたとおりに、その後、IBMはこれらの事業を次々に売却することになりました。『儲からないから手を引く』のではなく、『会社の特性に合っていないから手を引く』という、アメリカの経営者らしいレトリック(言い回し)が、今でも梅爺の耳に残っています。

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2007年6月21日 (木)

コモデティ(1)

『コモデティ(Commodity)』は、一般には、日用必需品のことですが、IT業界の経営者は、この言葉に特に敏感です。商品が『コモデティ』になってしまうと、市場への参入業者が増えて、売価が下落し、『売っても儲からないか、売れば売るほど損をする』状態に、なりかねないからです。

ITの分野で、新商品は、斬新な技術や全く新しいコンセプトを引っさげて、華々しく市場へ登場します。市場には、『新しい技術大好き人間』や『新商品なら直ぐに飛びつく人間』がいて、ある程度の売れ行きを見せます。しかし、本当の大衆市場に受け容れられるためには、『Chasm』と呼ばれる『市場の谷間』を渡る必要があり、多くの商品はこの『Chasm』を渡りきれずに、市場から消えていくことになります。

商品そのものの魅力で『Chasm』を渡りきってしまう例は少なく(最近では携帯電話がこれに相当するでしょうか)、多くの場合経営者は、試行錯誤や努力で『Chasm』を渡ろうとします。

『PC(Personal Computer)』は、『Chasm』を渡り、大衆に受け容れられた商品ですが、事実的な標準化が進められて『コモデティ』になってしまいました。『PC』が『コモデティ』になると同時に、内部で使われる主要部品(半導体メモリ素子、ハードディスク、液晶パネルなど)も『コモデティ』になってしまいました。

『コモデティ』がひしめく市場は、『Red Ocean』と称されます。文字通り『血で血を洗う、激戦区』という意味です。これに対して、ライバルを寄せ付けずに一人勝ちする市場を『Blue Ocean』と呼びます。

経営者にとって、『Blue Ocean』は、好ましいに決まっていますが、ライバル無しに、高値で商品がドンドン売れ、儲かって仕方が無いというような、うまい話はそうあるものではありません。ある限定した市場(ニッチ市場)で、こじんまり成功で満足するか、少々血を流してでも、競争の道を選んで、大普及、市場席巻を狙うかと、経営者は選択を迫られます。

消費者にとっては、商品が『コモデティ』になって、安く、良質なものが手に入ることは、ハッピーなことですが、経営者にとって『コモデティ』は、必ずしもハッピーを意味しません。

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2007年6月20日 (水)

言葉とリズム(4)

日本語の単語を発音する時に、リズムやイントネーションの強い制約をあまり受けない(ように梅爺には思える)のは、何故なのかは、わかりません。この性質故に、日本で発達した歌の形式(民謡、演歌など)は、リズムよりもメロディに主眼が置かれるようになったと考えられますが、これも推測の域をでません。

そういう日本人も、ヒトの一種である以上、言葉とリズム感を組み合わせた時に『脳が快いと感じる』ことは、同じであったに違いありません。その証拠が、古来から伝わる7・5調の表現形式のような気がします。短歌や俳句は勿論のこと、以下の例のように、演歌の世界にも根付いています。

あなた変わりは(7)ないですか(5)
日ごと寒さが(7)つのります(5)
着てはもらえぬ(7)セーターを(5)
涙こらえて(7)編んでます(5)
女心の(7)未練でしょうか(7)
あなた恋しい(7)北の宿(5)

何故、5と7なのか、何故奇数なのか、他の数字の組み合わせでは『快適さ』の度合いが違うのか、と梅爺の疑問は膨らむ一方です。

ドングリころころ(8)ドングリコ(5)
お池にはまって(8)さぁ大変(5)
ドジョウが出てきて(8)こんにちわ(5)
坊ちゃん一緒に(8)遊びましょ(5)

この童謡をみると、8と5でリズムが構成されています。必ずしも5と7でなくても、同じパターンの繰り返しなら、『快適』と感ずるのでしょう。

でも、古来何故5と7の数に、日本人がこだわってきたのか、ご存知の方がおられましたら、是非ご教授いただきたいと思います。

そう言いながら、梅爺もブログの文章を書くときに、知らず知らずリズム感を出そうと、7・5調の影響を受けています。

梅爺は、典型的な日本人であることが分かります。

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2007年6月19日 (火)

言葉とリズム(3)

言葉には、音声情報のパターン認識を、快適で容易にするために、リズムの要素が生成の過程で付与されたのではないか、というのが梅爺の前回までの推測です。

もし、そうだとすれば、言葉の延長に、歌が生まれてくるのは必然のように思えます。歌は、情報伝達という『理』の世界よりも、脳が快適と思うものを伝えるという『情』の伝達に主眼が置かれたのではないでしょうか。始めは、打楽器のリズムに言葉を合わせる程度(お経や、呪文を唱えるような)であったものと思いますが、そのうちに、音の高低や、音の強弱も加えて、歌が出来上がっていったものと推測します。楽器は、歌の伴奏用に考案され、やがて歌が無い音楽形式としても発展していったのでしょう。

言葉から歌が生まれたことの名残は、今でも沢山残っています。日本では、浄瑠璃、義太夫、浪花節などがあり、世界には、ポルトガルのファドなど、民族ごとに、『弾き語り』の歌文化があります。若者に受けている『ラップ』などは、歌の原型そのもののように思います。

梅爺の乏しい経験からすると、日本語は、言葉の中に、リズムやイントネーションを取り込む必要のある度合いが、英語や中国語に比べて低い言葉であるように思います。リズムや音の抑揚をわざと排して、センテンスを話しても、不自然ではありますが、日本人同士なら通じます。一方、英語では、一つでも単語のイントネーションを間違うと、殆ど通じません。

この日本語の特性のためか、日本人は、言葉とリズム、イントネーションが、一体で無ければならないと言う意識が薄く、そのような訓練も受けていません。従って、外国人が『横浜(よこはま)』を『ヨコーマ』と発音するのを聞くと、妙に感じます。外国語の中では、そのように発音することが『意味がある』と分かれば、なるほどと思います。

日本語が、何故このような資質で進化してきたのかは、梅爺の理解を超えています。日本人が、外国語の習得を苦手とする理由の一つが、この特殊性にあるのではないかと思います。

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2007年6月18日 (月)

言葉とリズム(2)

言葉は、文字が発明されて以来、『文字文化』との関連がより濃厚になっていますが、元々は、文字が存在しない環境で、声で情報を伝達する手段であったわけですから、言葉には、この時の特質が色濃く残っています。世界には、まだ『文盲』の人達が沢山いることからもわかるように、言葉は、文字を知らなくても使えます。文字は、言葉から生まれた媒体ですが、言葉のための必要条件ではありません。

『音声情報のパターン認識、抽象概念への変換』をヒトの脳が効率よく行うために、経験則的に『ある種の約束事』が存在したのだろうと、前回書きました。『単語の発音継続時間を短くする(単語は短くする)』と『センテンスの中に、随所に区切りの間(無音時間帯)を挿入する』の二つを紹介しました。

他にも考えられる約束事として、『センテンスの論理構造を分かりやすくするために、必要な箇所に専用単語(日本語では助詞)を配置する』や、『単語やセンテンスの発声の時間的流れの中に、リズムや、イントネーション(アクセント)をうまく取り込む』ことがあります。同音意義の単語を識別するために、イントネーションを利用したのであろうと推測できますが、リズムとの結びつけは何のためだったのでしょう。

ヒトの脳は、音声情報を聴取した時に、動物として本能的に、『快適なものか、不快なものか』に分別します。何を基準に分別するのかが、判明すれば、言葉や音楽とヒトとの関連がもっと、見えてくるでしょう。『リズム』、『周波数(上限、組み合わせ方)』『音質(波形)』『音圧(音の強さ)』が、快適かそうでないかを決めている要素であることは容易に想像できます。余談になりますが、多くの宗教で、単調な打楽器の繰り返し音を、信者を恍惚状態に導く手段として利用しています。また、モーツァルトの音楽が、『癒し(ヒーリング)』になると言われるのは、ヒトが音の組み合わせを快適と感ずる要因を、理屈ではなくモーツァルト自身が、会得していたからなのでしょう。『天才』と呼ばれる一つの理由です。

脳にとって快適であると言うことは、パターン認識にも障害が少ないと言う相関があるとすれば、ヒトは言葉に、快適なリズム感を付与しようとしたに違いありません。

言葉は、もともと音声情報であり、ヒトとヒトが、快適に情報交換するために言葉にとって『リズム』は、重要な要因であったのではないかというのが、梅爺の推測です。

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2007年6月17日 (日)

言葉とリズム(1)

文字で言葉が表記されるようになったのは、永いヒトの歴史の中では、ごく最近の話で、言葉は、元々ヒトの声を媒介にしたものとして、進化してきました。つまり、『音声情報のパターン認識』が原点であったと考えて良いのではないでしょうか。

送り手と受け手が、相互に誤認しないように、言葉の生成過程では、色々な試行錯誤が無意識に行われ、良好な結果のものが、今に受け継がれてきたのでしょう。

『音声情報のパターン認識』であるということは、情報は『時間軸』で変化するものですので、『音声情報』を『該当する抽象概念』に、ほぼリアルタイム変換するためには、『情報単位を区切る要素(約束事)』を、送り手が情報に埋め込み、受けてはそれを手がかりに、『音声情報を抽象概念へ効率よく変換』できるようにしたのではないかと推測できます。

脳の負担を軽減するにに、最も、簡単で有効な約束事は、単語が発音される継続時間を短くすることで、日本語の単語では、長い単語でも、2~3秒では発音し終わってしまうのではないでしょうか。勿論、早口の人とユッタリ話す人では、少々のバラツキガあります。落語の『寿限無』に出てくるような長い名前は、現実には存在しないことを皆が知っていますので、現実離れしたオカシサが、この落語の滑稽さの原点となっています。

次に思いつく約束事は、センテンスの中に、随所に『隙間(無音地帯)』を組み込んで、これを『パターン認識から概念への変換』のトリガーとして、利用しているのではないかということです。日本語の場合は、形容詞、副詞、接続詞、助詞の後に、話し手が『微妙な隙間(無音地帯)』を作って発音します。言ってみれば、これは聞き手への思いやりで、この隙間の作り方がうまい人の話は、聞いていて理解しやすいことになります。うまい役者や噺家は『間の取り方がうまい』と言われますが、『間』を、聞き手の認識を確固たるものにする(悲しさや、恐ろしさを増すなど)ことや、聞き手が、関連する心象を呼び起こす(自分の過去の同様な思い出が蘇るなど)ことに利用しているからでしょう。

長くなりましたので、続きは次回にします。

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2007年6月16日 (土)

無駄な時間

梅爺は、海辺のリゾート地で、毎日何もせず、ただ海をボンヤリ見つめて過ごすというようなことは、できそうもない気がします(やったことがないので想像です)が、そうかといって、人生は限りある時間であると深刻に考えて、寸刻も惜しんで、勉学や仕事だけに励むという性格でもありません。

人間はおかしなもので、忙しい時ほど、他のことがしたくなるという習性を持っているように思います。多分、無意識のうちに、ストレス解消の目的で、脳が自然にそのようなバランスを要求するのではないでしょうか。梅爺は、多忙であった若い時の方が、自由な時間が沢山ある現在より、寸暇を惜しんで(通勤電車の中などで)、読書をしたように思います。引退したら、沢山本が読めると、あこがれていたわけですから不思議な話です。

若い頃に、ひとに付き添って築地の癌センターを訪れた時に、見るからに末期の症状の患者さんが、ギリシャ語を独学で勉強しているのを見て、ビックリしたことを覚えています。その頃の梅爺は、今よりも更に生意気でしたので、理屈だけで、『今更この人はギリシャ語をマスターして、何になるのだろう』と思い、人は追い込まれた時に、不可解な行動をとったりするものだと、不思議に感じました。

しかし、梅爺も歳をとってみて、『あの患者さんにとって、その時、ギリシャ語の勉強をするというプロセス自体が価値のある時間の使い方で、ギリシャ語をマスターした後のことなどは、たいした問題ではない』ということが理解できるようになりました。

同様に、電車の中でいいオジサンが、スポーツ新聞や、漫画雑誌を読みふけっているのを見ても、あまり『嘆かわしい』とは感じなくなりました。その人にとっては、重要なストレス解消の手段かもしれませんので、爺さんがとやかくいう話ではないと思うようになりました。

そういう梅爺も、テレビのサッカー中継や野球中継には、熱中しているわけですから、真面目な方から見れば、『余生を無駄使いしている、自堕落爺さん』に見えるにちがいありません。

人は、一人ひとり、異なった価値観を持っていますから、その人が何を『無駄な時間』と考えるかも異なります。つい、自分の価値観を他人に強要したり、他人の価値観を糾弾したりしてしまいますが、本当は、自戒しなければいけないことなのでしょう。

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2007年6月15日 (金)

Tag Line

会社の価値は、煎じ詰めれば『株価*発行株式数』で単純に計算される『時価総額』ですと言われると、多くの真面目な経営者の方々は、心の底で、苦々しく感じておられることでしょう。

会社には、『永年お客様に利用いただいた信用』『有能な社員』『ブランド』など、会計上は計上されない、目に見えない『資産』があり、会社が難関を乗り切る時の推進力は、『時価総額』ではなく、『社員のアイデアと努力』であることの方が、多いからです。

『ブランド』については、3月1日のブログでも書きました。『時価総額』には直接反映はしませんが、企業の重要な『目に見えない資産』の一つです。会社のロゴマークは、ブランド戦略の一翼を担うものですが、このロゴの下に『会社のビジョンや姿勢を端的に表すメッセージ』をつけることがあります。このメッセージは、『Tag Line』と呼ばれます。

梅爺が、これまで、『これは秀逸だ』と感心をした『Tag line』は、以下の二つです。

NEC       :  C&C
Toyota    :  Drive Your Dreams

『NEC の C&C』は、今はもう使われていないかと思いますが、小林社長時代に、社長自らが発想されたと聞いています。インターネットが普及するずっと以前に、『来るべき情報化社会の主役は、コンピュータ(Computer)と通信(Communication)の融合で実現され、NECの主力事業分野は正しくこれです』と主張したのですから、その慧眼には畏れ入るほかありません。NECがそういうなら、うちは『E&E(東芝)』だ『I&I(富士フィルム)』だと、直ぐに真似をして追従した会社がありましたが、その会社の事業分野を言っているだけで、C&Cのような時代の志が示されていません。厳しい言い方をすれば、これに関しては、『会社の品格』の差が露呈してしまったことになります。

トヨタの『Drive Your Dreams』は、今も全世界で使用されているTag lineです。『トヨタは、あなたの夢を実現します』とも『トヨタの車であなたの夢を適えてください』ともとれる、見事な表現で、『D』で韻を踏んでいる英語の単語の選び方も秀逸としか言いようがありません。社内で、誰がこの案を進言し、経営者の誰がこれを認めたのか、梅爺は知りませんが、正しく『Good Job!』です。

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2007年6月14日 (木)

IT doesn't matter(3)

個人のPC、インターネット利用環境で、『ユーテリィティ・コンピューティング』の可能性が見えてきたことを前回書きました。利用頻度の少ない『Exel』や『PowerPoint』を、高額で購入するよりも、同種の機能をインターネット環境で利用し、使った分のお金(多分小額)を払うほうが、合理的のように思えます。Googleが何故Microsoftを脅かす存在にのし上がってきたのかもご理解いただけたでしょう。

それでは、企業情報システムの環境でも、ニコラス・カー氏が主張するように『ユーティティ・コンピューティング』は主流になるのでしょうか。企業の場合は、コストもさることながら、経営内容を守るための機密保護が重要な要素になりますので、『ユーティリティ・コンピューティング』が今すぐ採用されるとは言えません。

それに、複雑な企業システムの機能要素が、『部品』として提供されるには、まだ時間を要するでしょう。

しかし、機密保護の問題が許容範囲になって、機能も『部品』として提供されるようになれば、企業はコストの原理から、『ユーティリティ・コンピューティング』に移行する可能性は高いと、梅爺は考えます。

こうなると、企業情報処理提供の市場環境は、基本的に『ハードウェアを売る会社』と、企業に『情報処理機能を電力のように売る会社』に2種類に分かれることになり、環境は一変してしまいます。これを好ましいと思う人は、ニコラス・カー氏を支持し、好ましくないと思う人たちは、支持しないように、梅爺には見えます。

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2007年6月13日 (水)

IT doesn't matter(2)

ニコラス・カーの論文『IT doesn't matter』の背景には、今後、情報処理能力は、電力と同じように、必要な分だけ、必要な機能が、必要な時に供給されるようになるという、『ユーティリティ・コンピューティング』の思想があります。

確かに、最近の個人的なPCやインターネット利用環境を見てみると、殆どの人が、『既成のパッケージ・ソフト』を購入して、その機能を利用しているか、インターネットで供給される機能をそのまま利用しているかで、『自分のやりたいことを、自分でプログラミングして利用』している人は、少なくなりました。

初期のPCの普及期には、梅爺(当時は梅オジサン)も我が家の小学生だった息子も、自分で遊びたいゲームを、『Basic』というプログラム言語で作成し、楽しんでいました。息子は、自作のストーリィでゲームを作り、専門雑誌に投稿などしていましたが、梅オジサンは、既に頭が固く、ゲーム・ストーリィの発想は浮かびませんでしたので、オセロ・ゲームや一人遊びのトランプゲームなどを作っていました。当時のPCは、現在のPCからは想像もできないくらいスピードも遅く、機能や容量も制約されていましたから、『なだめすかして』利用することを強いられました。そのことが、かえってPCを知り、愛着をもつ結果になったのかもしれません。

最近では、Microsoft Officeの『Word』『Exel』『PowerPoint』が一通り利用でき、あとはメールとインターネット検索利用ができれば、『PCが立派に使える人』の分類に属します。

これらの機能は、全て誰か他人が作ったプログラム機能を、利用しているわけですから、この考えを更に進めて、『ネットワークで全ての機能をオンラインで供給するユーティリティ・コンピューティング』実現可能性が見えてきます。

Google がこの戦略を打ち出したために、今まで、無敵でやってきたMicrosoft が大いに慌て、対抗心をむき出しにしています。PCで文章を作成したい時には、『Word』を利用するのではなく、インターネットで対応プログラムを呼び出して使い、使った分だけお金を払うという考え方です。ドル箱のMicrosoft Officeが売れなくなるかもしれませんので、Microsoftが慌てるのも当然です。現在のビジネスでは、ライバルは最初想像もしていなかった分野から、『土俵を変えて』登場する典型的な事例です。

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2007年6月12日 (火)

IT doesn't matter(1)

『IT doesn't matter』は、2003年にハーバード・ビジネス・レポートに掲載された、ニコラス・カーという人の論文で、当時大きな話題になりました。

文字通り訳せば『ITはたいしたものではない』ですが、当然英語の常用句『It doesn't matter. (それはたいした問題ではない)』の表現をうまく利用したエスプリのきいたタイトルです。

ITほど現代社会に影響を及ぼしているものものは無いといっても過言ではありませんから、『ITはたいしたものではない』はずはありません。著者もそれは勿論理解して論旨を展開しています。

この論文は、アメリカの企業の情報システムの規模が大きくなり、開発投資に膨大な予算をCIO(情報システム責任者)から要求されて、苦々しく思っていたCEOには、救いのメッセージのように受け止められました。

アメリカのCEOは、『企業の戦略と情報システムの結合は必須のこと』と経営コンサルタントやコンピュータ会社の人から、ステレオタイプに吹き込まれてきましたので、肥大化する情報処理コストは、必要と認めながらも、『金食い虫』を苦々しく思っていたからです。

ニコラス・カーは、企業の中で情報処理の対象となるものを、『戦略的なもの』と『それほど戦略的でないもの』とに分けて論ずるべきだと述べています。企業の情報システムを、全て『戦略的』と考えないで、『それほど戦略的でないもの』に対しては、自分で開発などを行わずに、市販のパッケージ・ソフトウェアを採用するなど、『手抜き』をしても、『あまり問題ではない』と主張しました。自制のプログラムは、落ち着くまでに時間がかかり、金と時間がかかる元凶ですから、この主張には一理があります。

この論文をみて、CEO達は『やっぱり、そうか。情報システムにこんなに金をかけるのは、何かおかしいと思っていた』とわが意を得、企業にコンピュータシステムを売り込んでいる会社の経営幹部は、売り上げが減少してはたまらないと、猛然と反対意見を述べました。いずれも、梅爺から見ると、本当に論文を精読している人は少なく、『扇情的なタイトル』だけで反応しているように思えました。

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2007年6月11日 (月)

言語翻訳(4)

言語翻訳で、『概念理解の相違または欠如』がもたらす難しさを、前回まで書いてきました。『お疲れ様』とか『ご苦労様』と言って、相手の『労を厭わぬ努力を称える』日本と、『Good Job!』『Well Done!』などと、良くやったことを褒めるアメリカとの違いは、日本がプロセスを重視しているのに対して、アメリカは結果を重視しているように見えます。この推測が当たっているかどうかは別にして、言語には、そのコミュニティの伝統的で基本的な考え方、価値観が現れるのは確かでしょう。

最近、『もったいない』という、日本語の概念の素晴らしさに、世界中の人が気づき、『mottainai』が、世界中で使われるようになってきました。日本人には、当たり前に思える『もったいない』という概念が、外国では斬新な概念であることに、日本人は、今まで知らなかったという、少し恥ずかしい話でもあります。

言語翻訳で、もう一つ難しいことは、言語が『理』の目的だけではなく、『情』の世界も反映する媒体であるために、言語の持つ意味だけではなく、その『美的価値』まで、他の言語へ正しく翻訳できるかどうかという問題です。

『文学』や『音楽の歌詞』は、翻訳された時点で、オリジナルの作品が持つ『芸術性』を失ってしまうのではないかという危惧です。梅爺の所属していた大学時代の男声合唱団も、現在所属しているそのOB合唱団も、『原則歌詞は原語で歌う』方針を貫いています。歌う側には大変な負担で、梅爺は、次の演奏会のために、現在難しいフランス語の発音に悩まされています。

『古池や蛙飛び込む水の音』という俳句の持つ、575の語列がかもし出すリズム感、ワビやサビを感じさせる心象の世界を、英語で表現できるとは思えません。英訳を読んで、『この俳句の素晴らしさが分かった』などというアメリカ人がいたら、頭の中を覗いてみたくなります。きっと『違うんだなぁー』と叫びたくなるでしょう。

『情』の表現に絡む、言語翻訳は、不可能に近いというのが、梅爺の実感です。言語翻訳を甘く見てはいけません。

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2007年6月10日 (日)

言語翻訳(3)

梅爺が、辛うじて理解できる外国語は、『英語』だけです。従って、日本語のコミュニティと、まあまあ比較できるのは、英語コミュニティ(厳密には米語コミュニティ)ということになります。

日本では、日常的に多用される表現なのに、それを英語に翻訳しようとすると意外に難しいものに、『宜しくお願いします』、『頑張ります』それに『お疲れ様です』などがあります。

『宜しくお願いします』は、初めて会った相手に『宜しくお見知りおき下さるよう、お願いします』と、さりげなく自分を売り込んだり、少し目上の相手に『宜しくご指導、お引き立てのほどをお願いいたします』と、へりくだって頼む時の挨拶言葉ですが、最近は、誰も彼もが、ところかまわず、『ヨロシク、オネガイシマース』と言って、あまり深い意味の無い挨拶に変貌してしまいました。『頑張ります』は、本当は頑張らない時でも、そう言っておけば、一応無難ですし、『お疲れ様です』に到っては、この表現で『労を惜しまず対応されたのはお見事です』と、相手を賞賛しているとは、英語圏の人には、理解しろといっても無理な話です。

梅爺は、決して日本語の表現がおかしいと言うつもりはありません。日本人が、時間をかけて築き上げてきた、独特の価値観、表現方法があることは、当然なことですが、外国や外国人と対応する時には、その価値観や表現方法は理解されないかもしれないと、チェックするだけの配慮が必要であろうと考えています。

国際社会の中で、生きていかなければならない、日本、日本人は、最低限の外国語素養が要求されますが、それ以上に、ある概念やその表現形式が、普遍的なものなのか、日本固有のものなのかを、常に判断しながら行動することを求められます。海外旅行ツアパックに参加している傍若無人な日本人オバサングループを見ていると、未だ道は程遠いと感じます。

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2007年6月 9日 (土)

言語翻訳(2)

相互に異なった言語を有する二つのコミュニティが、交流するためには、言語翻訳が必要になります。交流できるレベルが、少々粗野であっても、意図が大体伝わればそれでよい、というような場合は、翻訳には、それほどの注意を払う必要はありませんが、ビジネスや外交での発言は、一つの言葉の使い方で、大損をしたり、国益を失ったりしますから、細心の注意が必要になります。

『遺憾に思う』『善処する』『検討する』などは、外国語に翻訳する場合、特に難しいと良くいわれます。日本人は、意向を伝えたつもりでも、誤解だけが残ることがあるからでしょう。外交上のプロトコルでは、『こういう意味では、この表現を使う』というような、マニュアルが、外務省内部には受け継がれているのではないでしょうか。

あるコミュニティでは、必要であった『抽象概念』が、他のコミュニティでは必要とされず、該当する言葉が存在しない場合も多いのではないでしょうか。

日本人が、『英会話』を習う時に、日本語センテンスとそれを構成する日本語の単語を思い浮かべて、まずその単語に該当する英語の単語を探そうとします。言語間に一対一の単語対応があると錯覚するためで、この煩雑なプロセスで、挫折してしまいがちです。例えば『留学』『留学する』という日本語に対応する一語の英単語はありませんし、『ゴマをスル』という常套句も、勿論逐語的に訳しても、英語文化では理解されません。

自分の知っている英語(単語、文法など)だけで、『自分が言いたいことをなんとか言う』ことが、話し方の第一歩です。しかし、『会話』である以上、相手の言っていることも理解する必要がありますので、最終的には、結局語彙の数、イデオムの数を増やしていく必要に迫られます。外国語もマスターする簡単な方法などありません。

自分のコミュニティで、常識と考えられている概念は、外国でもそうだろうと思い込むことが、異言語や異文化を学ぶ時の、最大の障害になります。

『人類皆な兄弟、世界は一つ』と言われると、梅爺はへそ曲がりなので『でも、考え方はバラバラ』と付け加えたくなります。

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2007年6月 8日 (金)

言語翻訳(1)

ヒトは、脳に組み込まれた基本機能で、コミュニティ単位で『言語』を作り出してきました。発音や利用文字、文法体系などは異なりますが、脳の基本機能で創りだされたことの共通性は、『言語』間に存在します。

『目』『耳』『鼻』といった、はっきりした具象物の『名前』は、勿論言語によって表現が異なりますが、『翻訳』で、単純相互変換することで、大きな支障は生じません。

問題は、感性や宗教観が関与するかもしれない、『抽象概念』を言葉で表した、『動詞』『名詞』『形容詞』『副詞』などは、あるコミュニティで形成された共通理解が、他のコミュニティでも同様に通用するとは限らないことです。

梅爺が、前にブログに書いた『信ずる』『祈る』などという日本語も、英語の『Believe』『Pray』と、厳密な意味で、一対一対応するものとは思えません。『信ずる』『祈る』を機械的に『Believe』『Pray』と変換できることで、英語がマスターできたとは言えませんし、ましてや英語文化を理解したことにはなりません。

『確信』という言葉を和英辞典で引いただけで、『confidence』『conviction』『assurance』『trust』『faith』『belief』『certainty』と沢山の表現に遭遇します。英語圏の人達は、これらの言葉が日本語の『確信』に対応しているかどうかはどうでもよいことで、それぞれ別の言葉として使い分けているわけです。

ヒトの抽象概念パターン化能力の、コミュニティごとの差異を研究することで、ヒトそのものやヒトの脳が少し分かってくるかもしれません。梅爺も若ければ、是非挑戦してみたい研究分野です。

このことを考えると、機械による異言語間の自動翻訳は、厳密には、そう簡単に、実現できるとは思えません。

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2007年6月 7日 (木)

優越感(2)

横浜フォーラムで、和田氏の『西欧の優越』に関するお話を聴いていて、一般的な意味での『優越感』とはなんだろうと思いました。

人は、自分に関して、他人より『勝っているもの』や『勝っていると自分が思うもの』を、懸命に探し出し、『優越』を感じて、何となく安心します。自分に都合の良い比較項目を勝手に選ぶわけですから、『背が少し高い』とか『年収が少し多い』とか、何でも『優越感』の材料にできます。

『優越感』と対を成す言葉は『劣等感』で、他人が自分より優れていることを感じた時に、『劣等感』を持ち、不安になったり、精神的に落ち込んだりします。『優越感』と『劣等感』は、誰もが本能的に持っているものですが、それを表に出しては『はしたない』と思う知性や理性の高い人は、一喜一憂しないように心がけているのではないでしょうか。

人には、『自愛の心』という本能があって、自分に不利な状況を出来るだけ認めたくないという気持ちが働くのではないかというのが、梅爺の仮説です。『劣等感』を持った時に、それを打ち消そうと、なんとか『優越感』の材料を探して、ホッとしようとするのではないかと思います。多くの『優越感』の裏には『劣等感』が潜んでいるように思います。特に、『劣等感』を意識しない場合も、『自愛の心』がポジティブに作用して、『優越感』で、更なる快適な状況を求めようとするのではないかと思います。

『上を見ればきりがない、下を見てもきりがない』と、よく言われますが、自分が一番下にいるという客観的な状況は『自愛の心』が、受け容れないために、人は、自分より下の何かを無理にでも考え出したり、創り出したりして、心の平静を保とうとするのではないでしょうか。

『優越感』も『劣等感』も、まかり間違うと、人生を狂わす要因になり得るものだと、少し恐ろしくなりました。

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2007年6月 6日 (水)

優越感(1)

前にも紹介した、『横浜フォーラム』(4月5日のブログ)の5月例会では、元東芝の役員をされた和田孝三氏が講師で、『近代における西欧の優越という現象はどうして生じたか』とタイトルで約2時間お話くださいました。

和田氏は、東芝在職中に、ドイツのボン大学へ法律の勉強で留学され、その後もドイツ、イギリスに仕事で延べ10年間駐在された、東芝きっての『欧州通』の方で、退職後『西欧の優越』という著作を出版されました。上記の講演は、この本のエッセンスで、和田氏の現地経験と、膨大な読書量に裏づけされた『独自の視点』に溢れ、梅爺は大いに啓発され、『好奇心』も満たされました。残念なことに『西欧の優越』という本は、私家出版で、一般には販売されていません。和田氏は、出版元から、『こんな難しい内容の本は売れない』と言われて私家出版にされたと、おっしゃっておられましたが、少なくとも梅爺は『面白い』と感じたのですから、市販出版されれば、必ずある層の読者を魅了することは間違いありません。私家出版では、惜しいような気がしました。

現在の西欧人が、世界の他の地域の人たちに対して示す『優越感』の基となった精神的要素を、和田氏は以下の三つと分析されています。

(1) 合理主義の精神 (理詰めに探求し、その結果を法則として行動基準にする)
(2) Rule of Law (統治者、被統治者ともに法の支配下にあり遵守の義務を負うという考え方)
(3) ファウスト的情熱 (あくなき認識欲、知識欲、権力欲、所有欲)

これらの精神的な背景を持つ西欧が、『資本主義の興起』と『近代科学の発展』で『優越』を獲得するようになったと和田氏は論旨を展開されました。近代科学の基は、ギリシャやイスラム世界からの移入であって、西欧に発したものではないこと、資本主義の大本の『金』を稼ぐために、西欧(主としてイギリス)が、展開した非人道的な行為や、あこぎな権謀術数の歴史的事例を沢山紹介いただきました。

『面の皮の厚い西欧人』にくらべ、日本人はなんと『ナイーブ』なのだろうと、梅爺はあらためて感じました。

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2007年6月 5日 (火)

祈る

前に、『信ずる』という人の行為について、ブログに書きましたが、類似した行為として『祈る』があります。『祈る』には、以下の三つの場合があるように思います。

(1) (神に)あることを適えて欲しいと願い事をする

(2) (神に)感謝の意を伝える

(3) (亡くなった人の霊に)哀悼の意を表明する

今回の話題は(1)の『願い事』を対象とします。『信ずる』が、自分の理性では判断できないことで、なおかつ『こうあって欲しい』と強く願うことがある場合に、理屈抜きに、『そうに違いない』と自分を思い込ませ、納得させようとする行為であるのに似て、『祈る』は、自分が強く願う事態が、自分の力だけでは到底実現できないと感じた時に、それを適えることができる万能の神に、『適えて欲しい』と訴える行為であると考えられます。

『信ずる』は、何とか自分で解決しようとするのに対して、『祈る』は、外部の存在(一般的には神)に解決を頼るという、『方法論の違い』ではないかと思います。

『祈る』は『信ずる』同様、ヒトの脳に生まれながらにして組み込まれたものではなく、後天的に、見出した対応能力で、代々、教育などで受け継がれてきたものではないかと梅爺は推測しています。理由は、『好奇心』のようにはじめから脳に組み込まれているように見える対応能力と異なって、『祈る』『信ずる』という行為は、物心が付き始めた頃の幼児には、見受けられないからです。勝手な推測で、間違っているかもしれません。

『苦しいときの神頼み』といわれるように、人は、自分の力では解決できそうも無い窮状に陥った時に、『祈る』しか対応が見つからないことがよくあります。梅爺も、今までの人生でそういう心境になったことが何度かあります。特に信仰心が厚いわけではないのに、真に勝手で、それに不思議な話です。

『信ずる』も『祈る』も、自分の脳の中の『願い事』に対応する方法ですが、『信じて裏切られた』といって、他人を恨んだり、『これほど祈ったのに適えられなかった』といって、神を恨んだりします。人は、本質的に自分を庇う気持ちが強いのかもしれません。

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2007年6月 4日 (月)

老いては子に従う

江戸いろはカルタの『を』、『老いては子に従う』の話です。

66歳の梅爺は、この教えに、全く異論がありませんが、現代同様に、江戸時代にも、『若い奴には、まだまだ負けぬ』と踏ん張り、『最近の若い奴らときたら』と嘆く年寄りが多かったものと見受けられます。

年寄りが、自分の価値観で、世の中を取り仕切っていきたくなる気持ちは分かりますが、今までのしきたりを変えていこうとする若者の活力が、社会を進展させる原動力ですから、年寄りは『ここは、ぐっと我慢して自重する』必要があるのではないでしょうか。

江戸時代のように、外部情報が比較的に少ない環境でさえも、『ジェネレーション・ギャップ』があったのですから、現代のように、色々な情報が豊富な時代では、若者が、その刺激を受けて、『変化』を求める度合いが強まるのは、当然のように思います。そういう若者も、歳をとれば、次の世代から『頑迷固陋』な年寄りとして、煙たがられるようになるのは、目に見えています。

年寄りがいるからこそ、自分達がが存在すると若者が認識し、老い先が短くなり、身体的にも弱者になってしまった年寄りを、労わり、敬うのは当然だと、若者自身が考えるのは、大変結構なことですが、年寄りのほうから、『敬え』と迫る話ではないように感じます。年寄りの言うことを従順に聴く若者だけがいるという社会は、むしろ異常です。

映画監督、岡本喜八氏の、亡くなる前の1年の闘病生活を、奥様の日記を基にドキュメンタリー風ドラマにした番組を観ていましたら、奥様が、ご自分の好きな言葉として、ケストナーの以下の言葉を書き出して、冷蔵庫に貼ってある場面がありました。

『人生を愛し、死に立ち向かえ。そして、その時がきたら、横にどけ』

梅爺のうろ覚えなので、表現は一部違っているかもしれませんが、主旨はこのとおりであったと思います。梅爺も、『あの爺さん、なかなか横にどこうとしない』と言われないように、気をつけます。

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2007年6月 3日 (日)

ハリウッドの商業主義

ハリウッドのメジャー・スタジオの子会社で、ホームビデオ・DVDの販売を担当する会社の極東支配人をしている知人に、ビジネス・プランの概要の話をうかがったことがあります。予想はしていましたが、一本の映画を元に終身でどのように興行収益を確保するかの事前計画は、綿密を極めていることが分かりました。

劇場公開、ホームビデオ・DVDの販売、有料ケーブルテレビでの放映、一般無料テレビでの放映(放映権利料金徴収)の順序で収入計画を立て、その間に、関連書籍、関連ビデオ・ゲーム、キャラクター・グッズの販売が、タイミングよく挿入されます。勿論、これらの計画を実現するための広告・広報戦略も最初から、組まれています。文字通り、『クロス・メディア戦略』で、利用できるものは全て利用し、しゃぶり尽くすといった感じです。最初の劇場公開で、その映画がヒットするかどうかは決まりますが、劇場公開での収入は、全収入の中で、必ずしもトップの割合ではなかったように記憶しています。

経営幹部による計画審査をパスするために、ハリウッド映画は、どうしてもヒットする確率が高い『アクションもの』『大スペクタルもの』『手の込んだアニメーションもの』などに成りがちです。

映画は、文化資産の一つでもありますので、観る人に感動を与える良心的な名画を私達は期待しますが、上記のような商業主義が優先する環境では、余程著名なプロデューサーや監督が、強い信念で臨まない限り、ハリウッド・メジャースタジオからは、名画は生まれないことが分かります。

アメリカには、『サンダンス映画祭』という、マイナー・スタジオや新人監督の作品を発表する場があり、ここで話題になった作品の配給権を、メジャー・スタジオが買い上げることもあります。メジャー・スタジオとしては、リスクを負わずに、まずまずの興行成績を上げることが出来ますし、新人監督としてはメジャーへの登竜門にもなるという、しくみです。

マイナー・スタジオの作品は、前衛的であったり、良心的であったりする特徴があり、『名画』が生まれる確率は、商業主義に支配されるメジャー・スタジオ作品より高いように思います。

ただ、商業主義を批判するだけでなく、商業主義だけに頼ることの行き過ぎを是正するしくみを考え出して、バランスをとろうとするアメリカ社会の活力は、たいしたものだと梅爺は感じます。

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2007年6月 2日 (土)

信ずる(2)

『信ずる』は、自分の頭の中で、こうであろうと思うことや、こうであって欲しいと思うことを、理屈抜きで、受け容れる行為ですから、あくまでも、その人の頭の中の世界でのみ、意味のある話です。

ところが、人は、自分の頭の中でのみ意味のあるはずの『信ずること』が、自分の外の事象としても、『そうである』『そうあらねばならない』と勘違いをすることがあり、問題が生じます。

宗教で、『信ずれば、救われる』というのも、『信ずる』ことで、悩み事が軽減したり、消滅するように感ずるとういう、これまた、頭の中の精神的な事象を対象とした話の場合は、その人が『救われた』と感じさえすれば、それでよいのですが、怪しげな宗教は、『信ずれば、金持ちになれる』『信ずれば、ガンが治る』などと、頭の中の事象ではなく、現実の事象が起こるように、言う場合があり、結果として『信じたのに、金持ちになれなかった』『信じたのに、ガンは治らなかった』という問題を起こしがちです。

『信ずる』行為は、自分が責任を持つ自発的な行為であって、『誰かに言われて信じた』『信じろと強制された』と、他人に責任を転嫁しようとする場合は『信じた』ことになりません。

自分が責任を持つ行為で、しかも自分の頭の中の事象が対象であって、外の客観的な事象とは、関係が無い行為であることだと、理解している人は、大人物です。

多くの場合、人は、自分の頭の中だけの事象と、外の客観的な事象とを混同し、外の事象が、信じた内容と異なる結果に終わった場合、『信じたのに、裏切られた』と、外部環境や他人を恨むことになります。

本来、そのような場合は、『自分が信じたことが間違っていた』と、いうべきなのですが、そのように言える人は少なく、『裏切られた』と他人のせいにする人の方が多いように思います。

人間社会の悲劇の多くは、『勝手に信じておいて、裏切られたと逆恨みする』ことで生ずるのではないでしょうか。

『判断が困難なので、やむなく信ずることで対応する』と、『願っていたように外の事象は展開せずに、誰かを恨みたくなる』ということを繰り返すのですから、ヒト(梅爺も含め)は真に厄介な生き物だと思い到りました。

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2007年6月 1日 (金)

信ずる(1)

ヒトは、自分にとって不明なこと、不思議に思うことに遭遇すると、何故なのかを知りたくなる性質(欲求)を、生まれながらにして持っているのではないか、という話を前回まで書きました。そのような場合、外部に既に存在している知識(百科事典など)を吸収することで満足したり、外部に解答らしきものが存在しないと感じた時は、自分の頭の中で、賢明に自分なりの論理仮説を構築して、なんとか自分の納得させようとします。

しかし、どうしても納得材料や自分を納得させる論理が見つからない場合、欲求不満のまま、あきらめざるを得ないことになりますが、真実や因果関係が理解できなくても、自分が、結果や回答が本当はこうあって欲しいと強く感じていて、あきらめきれないようなことに関しては、『信ずる』という行為に出て、理屈抜きに、『こうあって欲しい内容』を受け容れようとします。

『あの人の無罪を信じています』とか、スポーツ選手が試合の前に『勝つと信じています』とかいうのが、これに該当します。

『信ずる』は、自分の思考の限界を超えていると、ヒトが感じた時の、対応方法の一つで、ひどい言い方をしてしまえば、『思考を回避し、断念した結果』であるとも言えます。

自分の周囲に、自分では理解できない恐ろしいものが存在すると感じた時に、それを『恐れる』という習性は、ヒトばかりではなく、他の動物も生まれながらに保有する本能であろうと思います。ヒトは暗闇を『怖い』と感じますし、我が家の犬は、雷がなると怯えて犬小屋に逃避します。

自分では、詳細にわたって理解することができないけれども、この世を支配する絶対的な『何者か』が存在するらしいと感じたときに、それをヒトは『神』という概念でとらえ、当然理解できない対象ですから、『信ずる』という方法で受け容れたのではないかと思います。理解できない無力な自分の、絶対なるものへ対応姿勢は、『恐れる』ではなく『畏れる』という概念で表現することになったのでしょう。

『知りたい』や『恐れる』は、ヒトの脳に組み込まれた本能ですが、『信ずる』は、本能ではなく、後天的に獲得したヒトの知恵で、親から子へ、先生から生徒へ、僧侶から信者へ受け継がれてきたものではないかというのが、梅爺の仮説です。地球上のどこかに、『信ずる』という言葉や概念を持たない未開の人種が発見されれば、この『仮説』は真実味を帯びてきますが、望むべきもありません。

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