« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »

2007年4月30日 (月)

値切る(2)

東京の人が『値切らず』、大阪の人が『値切る』のは、基本的には『武士文化』と『商人文化』の違いかな、と梅爺は推測しました。武士は、『武士は食わねど、高楊枝』と言われるように、対面上、人にものを請うことを嫌い、見栄を張って『値切らず』、商人は、対面などより自分の『利』を優先して、『値切る』ということかなと思いました。江戸では、やせ我慢して、見栄を張ることが一種の『粋』として、庶民にも浸透したとも推測できます。大阪の商人に言わせれば、『そんな粋が、なんぼのものじゃ』ということなのでしょう。

梅爺が、値切らないのも、見栄っ張りのところがあります。先祖の誰かが、痩せ我慢の強い武士で、その血を引いているのかもしれません。

『おとさん』からいただいたコメントに、『アメリカ人は、議論のプロセスを楽しんでいるように見えるのに、(個人的な)買い物の時は、値切らないのは、不思議なくらいです』と書いておられます。

そう言われてみると、何故だろうと梅爺も不思議に思いました。梅爺が仕事で訪れたアメリカは、大方が大都会でしたが、売り手と買い手が、値段交渉をしている場面には、確かに出くわしたことがありません。アメリカも広いので、地域によっては、あるいは、ヒスパニック系住民やアジア系の住民が住む地域では、『値切る』風習があるのかどうか、梅爺は知りません。

梅爺の体験と価値基準だけで判断すると、アメリカの商品やサービスの価格は、『Reasonable(妥当)』です。ニューヨークのジャズ・ライブハウスでは、妥当な値段で、飲み物と一緒に、超一流のミュージシャンの生演奏を楽しむことができますし、かなり高級レストランの値段も、妥当です。日本のように、老舗であることや永い暖簾を理由に、目の玉が飛び出るような値段を請求されることは少ないように思います。

アメリカ人が『値切らない』のは、『Reasonableでないもの』は、社会的に結果的には制裁されるという常識が根付いているためかなと梅爺は想像しました。

先日、アメリカ系企業のアメリカ本社に、永く勤務しておられた方と会う機会があり、質問をしてみましたら、以下のようなご意見でした。

『価格を買い手によって変えるのは差別になるので、まずいのです。だから、30%OFFと値札に書いたら、買い手の貧富、人種などによらず、誰にでも30%値引きして売るのです』

アメリカは、個々の人の感情はともかくとして、『社会の立場』としては、差別があってはいけない社会なので、『値切らない』のだという話には、なるほどと思いました。

梅爺の推測より、こちらの方が、当たっていそうです。

| | コメント (2)

2007年4月29日 (日)

値切る(1)

4月20日のブログ、『立場(Position)』に関して、『おとさん』からコメントをいただきました。国によって、値段交渉をするような時に、自分が『落としどころ』と想定する価格から、どの程度離れたところから交渉を開始するかどうかが異なるというご指摘がありました。日本人は、『落としどころ』近辺から交渉を開始してしまうため、『折衝しろ』を自ら無くして、その結果『折衝下手』と見られてしまうのではないかということでした。

日本では、個人的な買い物の時に、東京の人は『値切らない』のに対して、関西では『値切る』のが常識と言われています。従って、日本人を一律に『値切り下手』とは言えません。土地によって、どうしてこのような風習の違いが起こるのかも、文化論として追求してみると、面白そうだと感じました。

梅爺は、小さな頃から『値切って買う』ことをあまりしない家庭環境で育ったこともあり、とても『値切り上手』とは言えません。中国や韓国へ仕事で出張した時に、『値切らず』に買い物をして、現地の人から、奇異な眼で見られた経験があります。

アメリカの、ロス・アンジェルスから、車で2時間ほど南へ走ると、国境を越えて、メキシコのティファナという町へ行くことができます。アメリカ出張の合間に、日本人駐在員に、何回か観光で連れて行っていただきました。国境を越えた途端に、紙コップを持った子どもや、赤ん坊を抱いた女の人が、お金を求めて観光客に寄ってくるという、日本人には少々物騒な町です。

駐在員の人から、『買い物をする時は、相手が10と言ったら、即座に1と切り返しなさい』と折衝テクニックを教わりました。怪しげな商店街へ入っていくと、あちこちから『シャチョウ、タナカサン、ヤスイヨ、ホトンドタダ』と日本語で呼び止められました。革の財布の値段を聞くと、店のおやじさんが、ある値段を言いましたので、教えられたとおりに、即座に1/10で切り返しました。おやじさんは、『ソレハナイヨ』というので、店を出ようとすると、『ワカッタ、ワカッタ。トモダチプライスニスルヨ』といって、6/10位に値段を下げました。それでも、買わずに店を出ようとすると、『マイッタ、マイッタ。コレサイゴ。ハラキリプライス』といって、4/10まで下げました。

潮時と思い、それで買って日本に帰り、その財布を使っていましたら、3ケ月くらい経ったところで、革の接着剤が剥がれて、バラバラになってしまいました。どうせ、ひやかしで買ったものなので、期待はしていませんでしたが、『安物買いの銭失い』を身をもって体験しました。

騙されましたが、梅爺は、怪しげな日本語を巧みに操るメキシコのおやじさんに今でも、何となく愛着を感じています。不思議な話です。

| | コメント (0)

2007年4月28日 (土)

著作権

森進一の『おふくろさん』事件で、『著作権』が問題になっていますが、これは著作権の問題と言うより、歌手と作詞家の間の、個人的な愛憎関係が根にある、あまり高尚な議論のようには思えません。

『独創的な作品を発表した作者の権利が守られるべき』という考え方は一理がありますが、あまりに『強い拘束』は、反って文化の発展を阻害するものではないかという批判もあります。ヒトの文明・文化の発展は、大半『模倣をベースにした改善、改良』によるものという、主張があるからです。

インターネットのCNETニュースを読んでいましたら、2008年の大統領選挙で行われる候補者のテレビ討議の様子を、ウェブのビデオ・コンテンツとして、誰もがダウンロードでき、再編集、再加工できるようにすべきだと、主張している人がいることを知りました。テレビ討論コンテンツは、政党やテレビ局が権利を所有すべきではなく、国民に本来所有権がある、というアメリカらしい『デベート』になっています。この人は、著作権に関して独自の『弱い拘束』を主張しており、それに共鳴する作者が、自分の作品を登録すると、誰もが再利用できるようになる運動を進めています。勿論、この場合でも『商用目的の再利用』や『悪意の利用』は登録時の条件によっては禁止することが可能なしくみになっています。

日本人は、農耕文化が根底にあるからか、『常識や決まりごとに逆らった言動をすることは得策ではない』と、『自己規制』する傾向が強いように思います。日本人は独創性に乏しいのではなく、上記の習性が、独創性が乏しいように見える遠因になっているのではないでしょうか。一方、アメリカでは、『思いついたら、言った方が得策』という考え方が強く、日本人から見ると、『オイオイ、そんなことまで言うのかよ』というような発言もあります。

日本では、『党首討論会の様子を、ライセンスフリーのコンテンツとして、ウェブに公開せよ』などという主張は、あまり言い出す人はいないのではないでしょうか。

これらは、日米の文化の差ですから、どちらが正しいということではありませんが、アメリカ人から『主張しないことは、主張がないこと』と日本人が受け止められるのは、不利なことです。

日本人は、日本社会での振る舞いと、国際社会での振舞いとを、使い分けなければならない、難しい時代になってきたように思います。それが可能になれば、内でも外でも、同じ振る舞いしかできないアメリカ人よりも、日本人の方が、国際的に『大人』になれるような気がします。

| | コメント (0)

2007年4月27日 (金)

ベンチャ・キャピタリストが地球を救う?

最近のCNETニュースに、次世代の電力生成エネルギに関する、アメリカの著名なベンチャ・キャピタリスト(Vinod Khosla : インド系アメリカ人、サンマイクロシステムズの創始者の一人)とドイツの国会議員(Herman Sheer :環境運動に熱心)の間の『ディベート』が掲載されていて、大変興味深く読みました。今回の記事は、ベンチャ・キャピタリストが『主張』をまとめて論文形式で発表したもの(かなりの長文、力作)で、公平を期すために、ドイツの国会議員にも反論の場を提供したいとCNETには記載されていましたので、もし『反論』が掲載されましたら、梅爺が続編として皆様に報告したいと思います。

争点は、地球温暖化の原因と目される炭酸ガスの40%をを占める電力プラントの状況を改善するための方策は何か、という人類には切実な課題です。

ドイツの国会議員が、多くの人が主張するように、『太陽電池発電』『風力発電』を推進すべきと述べているのに対して、ベンチャ・キャピタリストは、これらは、技術と経済を知らない人の『たわごと』と、色々な根拠を提示して切り捨てています。これらの根拠の正当性を検証できる能力・知識を梅爺は持ち合わせていませんが、梅爺が最も興味を持ったのは、ベンチャ・キャピタリストの以下の『主張(梅爺の意訳)』です。

『環境運動活動家の皮相な理解に基づく主張は、技術の発達を阻害することがある。彼らの善意では地球は救えない。地球を救うには、世界の1/3を占めるインドや中国の貧しい人が対価を支払うことができ、しかも民間ビジネスとして成り立つ方法を模索する必要がある。いずれの国家の税金も、投資対象額としては微々たるもので、これを注ぎ込んでも地球は救えない。地球を救えるのは、善意ではなく経済(民間ビジネス主体)である』

このベンチャ・キャピタリストが、地球救済の本命として考えている(投資をしている)方法は、『太陽熱利用発電』です。彼は、本来は『原子力発電』が最も有望と考えていますが、70年代に、反対気運が高まって、技術開発をやめてしまったために、今更、安全性技術の開発を再開しても手遅れと述べています。中国やアメリカが、現実の電力不足を補うために、コストが低いという理由で石炭発電プラントの建設をものすごい勢いで進めていることに関しては、地球温暖化を今より悪化させると警告しています。

『太陽熱利用発電』では、太陽が照っていない時のために、『熱蓄積』をする技術が必要になりますが、『蓄電』よりは、ずっとコストがかからないと述べています。モロッコの3%の面積で、『全欧州』の電力需要を満たせるとも書いてあります。彼は、集中発電方式を推しているために、送電線設備投資が必要になりますが、各家庭の屋根に『太陽電池パネル』を設置するよりトータルでは安いと試算しています。

技術や経済のしくみに詳しいベンチャ・キャピタリストの主張は傾聴に値すると梅爺は考えます。感情的に『善意より経済』などと主張する人は嫌いと、排除する気にはなれません。

| | コメント (0)

2007年4月26日 (木)

KJ法(2)

『KJ法』は、カードや大きな模造紙を利用して、カードのグルーピング作業を、ああでもない、こうでもないと試行錯誤で進めます。これが結構やっかいな仕事なので、梅爺は、『KJ法』をパソコンのプログラムにして、ラップトップ・コンピュータの中だけでできるようにしたらどうかと昔考えました。その頃、梅爺が勤務していた会社では、現在と異なりパソコンの販売事業は、他のコンピュータの販売と同様に、当時梅爺が所属していた事業部門が担当しており(現在パソコンは、それだけで独立した事業管轄)、梅爺は商品企画や市場に対する技術支援の仕事をしていました。

梅爺の勤務していた会社のラップトップ・コンピュータ事業は、既に欧州市場、米国市場で大きな成功を収めていて、いよいよ日本市場への進出を考え始めていました。日本の会社が、日本市場を最後に攻めるというのは、一見不思議に思えるかもしれませんが、『企業顧客にまとめて買っていただく』ことが販売戦略でしたので、市場の成熟度で日本は、欧米に遅れをとっていたのが原因です。

携帯可能なラップトップ・コンピュータの特性を活かし、ワープロ機能や表計算機能に加えて、企業人の論理思考や発想を支援する道具として『KJ法』を企業への売り込みの『目玉機能』にしようと考えました。

情報技術者教育の専門学校を経営しているH氏と共同で、先ず川喜田先生の個人的な内諾を得て、プログラムの開発を開始しました。

万事うまく運ぶと考えていた時に、思わぬ障害にぶつかりました。『KJ法』という商標名称の権利を保有する財団法人の研究機関(川喜田先生の奥様が理事長)から、名称の使用料として、当方が想定していた額の10倍以上の額が提示されたことです。

プログラム開発に要する費用に加え、このコストを見込むと、事業は採算に合わないことが明白でしたので、何度も、折衝を繰り返しましたが、名称使用料の引き下げには、最後まで応じていただけませんでした。

やむなく、プログラム開発は途中で止め、この事業計画は断念することにしました。

財団法人側に、多額の一時的な資金を必要とする何らかの理由があったのかどうかは不明ですが、『もし、あの時商品化が進められていたら』、その後のラップトップ・コンピュータ販売事業の推移や、『KJ法』そのものの普及に、どんな影響があったのであろうかと、考えてしまいます。勿論、今となっては『神のみぞ知る』領域の話です。

このような、つらい経験をしましたが、『KJ法』そのものへの梅爺の評価は今でも変わっていないことは、昨日のブログに書いたとおりです。

| | コメント (0)

2007年4月25日 (水)

KJ法(1)

『KJ法』は、元京都大学の文化人類学者、川喜田二郎氏が考案された、思考内容を『混沌』から『秩序』へ導く方法論に名づけられた名称です。こういう論理思考が、あまり得意でない日本人が考え出したということで、世界に誇れるものではないでしょうか。

梅爺が若い頃には、会社で『グループ・ブレーンストーミング』を行う時などに、よく利用されました。従って、梅爺の年代の人たちには、馴染みのある手法ですが、最近でも活用されていて、若い人たちにも馴染みのあるものなのかどうか知りません。梅爺は、今でも大変優れた手法であると感じています。

考えたい課題を先ず明示し、それに関して思いつくことを文章にして複数のカードに書き出していきます。カードに書ける文字数は、日本語で40文字程度ですので、自分の考えを40文字以内の文章にまとめて表現すること自体が、脳に論理的な思考を求めることになります。

次に、複数のカードが『同類のことを言っている』かどうかを判別し、同類の内容をグループ化し、1枚のカード(文章)でそのグループ全体を表現します。更に今度は、それらのグループが更に上位概念のグループに集約できないかどうかを考え、同様にまた1枚のカードで、その上位概念を文章で表現します。このような作業を繰り返すことで、最初は、無秩序に見えた複数のカードが、ツリー状の論理構造として、見えてきます。そして、最上位のカードに書かれている内容が、考えたい課題の『本質』を示している可能性が高いということになります。思いもよらなかった内容が見えてくることに多くの場合興奮します。

『KJ法』は、『何が正しいか』を導き出す手法ではなく、自分が納得いく『論理』を獲得できる手法です。世の中の多くのことは、複雑な要因が絡み合っていますから、正しい解答を得ると言うより、自分が納得のいく論理を見出すことが現実的です。したがって『KJ法』では、それを試みる人(またはグループの)能力、知識、経験、感性によって、それぞれ異なった論理を見出すことになります。この一律ではないものが得られるという考え方が、梅爺は好きです。

最初の段階で、どうしてもどのグループにも含まれないカードは、最後まで『一匹狼』として残ります。よくよく考えてみると、そのカードが一番『本質』を言い当てていることを、後々気づくことがあります。少数派意見を、多数決の論理で切り捨てないところも梅爺好みです。

こう書いてしまうと、易しそうですが、『本質』を何故か、何故かと追い詰めていく『KJ法』を完遂させるのは大変苦しい作業で、それであるがゆえに、苦労して登頂した山のように、事後の達成感が大きいことが特徴です。

複雑に事象が絡む課題の『本質』を見つけたい時には、挑戦してみて損の無い手法であろうと思います。

| | コメント (0)

2007年4月24日 (火)

卒業式の国歌斉唱

梅爺が、41年間勤務して退社した会社の、同期入社者が、毎年懇親会を開催していて、今年も3月に行われたことは、前にも書きました。過去の幹事、現幹事が集まって、年2回『反省会』『準備会』という名の『飲み会』があり、昨夜は銀座で『反省会』が開かれ、梅爺も元幹事(3年間担当)として出席しました。出席者は8名でした。

お互いに、当然ながら同年輩で、気心が知れた仲間の上に、お酒の勢いもあって、『反省』はそこそこに、色々な話題が飛び交いました。

メンバの一人が、団地の自治会長を務めていて、苦労話を紹介されましたが、その中でも、『卒業式の国歌斉唱』の話題が印象的でした。自治会長は、来賓として地域の、小学校、中学校、高校の卒業式に招待され、式典の様子が、我々の時代とあまりにも違うことを知り、大いに慨嘆されていました。

小学校の卒業式で、自治会長が感じた昔との違いは、『両親そろって参列』する親が大半であるということのようでした。父親はもっぱら、カメラ、ビデオの撮影を担当するために出席しているように見えたとのことでした。そう言われてみると、梅爺のころは、精々母親一人が出席するか、どちらも来ないかが一般的でしたので、最近の親は昔より『子どもの教育に関心が高い』ように見えますが、実は、昔の親は、食べることに精一杯であり、単に時間がとれなかっただけで、昔の親が子どもに対して、愛情希薄であったり、教育への関心が低かったりしたわけではないと、梅爺は感じました。最近の傾向は、日本が豊かになった証拠なのでしょう。

問題は、中学校、高校の『国歌斉唱』で、中学校は、『斉唱』ではなく、音楽部の女生徒の『独唱』で済まし、高校にいたっては、式辞に『国歌斉唱』があったにも関わらず、結果的には、誰も歌わずに終わったということでした。何故、歌わなかったかの経緯は、先ず音楽の女の先生にピアノ伴奏を事前に頼んだら『断られ』、仕方が無いのでテープに伴奏を録音して、当日流そうとしたら、何者かによって、再生装置の電源コードが『切断されている』ことが、突如判明したからとのことでした。

教育委員会に対して、『国歌斉唱』を行おうと努力をしたが、不慮のトラブルで不可能になったという『言い訳』をするための、姑息な『工作』であろうというのが、昨日集まった60歳半ばの爺さんたちの共通見解でした。再生装置の電源コード確認などは、事前にチェックするだけで、分かるはずです。

『国旗』や『国歌』は、自分が宿命的に属しているコミュニティ(国家)の象徴であり、ヒトは、コミュニティとの関わり無しには、生きていけない上に、本能的にコミュニティへの愛着心を持っていると考える梅爺には、『国歌斉唱忌避』は、子ども染みた『わがまま』のように思えます。

反対する人たちは、どんな『国旗』『国歌』でもイヤなのか、現在のものの裏に、『天皇制』『軍国主義』『神道』の影を感じるからいイヤなのか(この人たちが、新しい国旗、国歌を制定しようと運動している話は聞いたことがありません)、梅爺は知りませんが、コミュニティとの関係や受ける恩恵を考えずに『自分だけで、自分らしく』生きていけると考えているなら『傲慢』ではないかと思います。『お陰さまで』という日本語の表現は、コミュニティや自然の恵みに対する感謝の気持ちを表したものであったはずです。

日本人であることの『アイデンテティ』がイヤなので、多くの人たちが、外国へ亡命しているという話も聞いたことがありません。居心地の良い環境として、ぬくぬくとそれを利用しながら、コミュニティに属することを嫌うという自分の行為に、『矛盾』を感じない人には、『単なるわがまま』以外の表現を思いつきません。

| | コメント (0)

2007年4月23日 (月)

ヒトを滅ぼしかねない要因

以前にも紹介した、東大名誉教授の尾本恵市先生(人類学)の講演録の中に、大変考えさせられるものがありました。

動物行動学者のコンラート・ローレンツが、1973年に出版した『文明化した人間の八つの大罪』で、ヒトを滅ぼしかねない要因として以下の項目を挙げられていることが紹介されていました。

(1)人口過剰
(2)自然破壊
(3)競争激化
(4)感性・情熱の萎縮
(5)遺伝的衰弱
(6)伝統破壊
(7)画一的教育
(8)軍拡・核兵器

30年前の提言とは思えないほどに、現在の課題と一致しています。米ソの冷戦の最中でしたので、『軍拡・核兵器』は、最も可能性の高い要因であったろうと思います(冷戦が終わった現在でも、この脅威は残っています)が、それ以上の深刻な問題として、『感性・情熱の萎縮』『遺伝的衰弱』『伝統破壊』『画一的教育』が挙げられているのは驚きです。言われてみると、成るほどと思いますが、自分では列挙できない要因です。

ヒトがヒトであるが故に、自ら生み出した要因が、直接的・間接的な引き鉄になって、精神的、遺伝的にポジティブさを失い、滅亡するという警告は、『自業自得』といえばそれまでですが、『ヒトという種の弱点』を鋭く指摘しているように思いました。この八つの要因は、独立したものではなく、相互に相関があるように見えます。

惑星が地球に、衝突して、ヒトが滅亡するというようなことなら、『いかんともしがたい』とあきらめられますが、自らが作り出した要因で滅亡するというのは、残念な話です。

個性的で、柔和な笑顔の人が減っていることを思うと『感性・情熱の萎縮』『画一的教育』が、現在の日本の大きな問題であることは感じますが、それが、ヒトを滅亡させる程、深刻な問題であるとは、感じていないのではないでしょうか。

ヒトが経済的な効率ばかりを追求したり、自分のエゴを抑制することができず、他人のことを配慮できなくなった時こそが、滅亡の危機なのだと、梅爺は理解しました。皆がそれに気づくまで待っていたら、手遅れのような気がしますし、そうかといって、カリスマのような指導者が現れるのを期待するのも、怖いので、正直、途方に暮れてしまいます。

| | コメント (0)

2007年4月22日 (日)

盗人の昼寝

久しぶりに、江戸いろはカルタに戻り、『ぬ』、『盗人の昼寝』の話です。

この解釈は、『盗人』と『昼寝』のどちらを『因果関係』の『因』にするかで、微妙な解釈の違いが生じます。

『盗人』を『因』にすると、『夜が稼ぎ時の盗人なので、昼は昼寝をすることになる』となり、あまり面白さがありません。

『昼寝』を『因』にすると、『昼寝をしておけば、夜泥棒家業ができる』となり、なにやら面白そうな解釈ができそうになってきます。梅爺はこちらの解釈を採りますが、他の解釈もあるのかもしれません。

『大の男が、昼日中から昼寝をしている』という、少し不自然ですが、何気なく見過ごしてしまいそうなことの裏に、実はこの男が『夜泥棒家業で精を出すための鋭気を養っている』のだという、目的が隠されている、一般的な教訓として敷衍すれば、『少々不自然だなと感じながら、それでも何気なく見過ごしてしまいがちな事柄の裏側に、とんでもない目的が隠されていることがなる』という解釈になります。

シャーロック・ホームズなら、昼寝をしている男を見ただけで、この男は泥棒かもしれないと推測できるのでしょう。

梅爺も若い頃は、会社の偉い人から、ビジネスや市場には、必ず『予兆』というものがあるのだから、『何かおかしい』と感ずるものがあったら、良く考えて直ぐ報告しなさい、と教えられました。簡単なことのようですが、人は周囲の環境を『当たり前のこと』として受け容れやすい習性を持っていますので、余程緊張していないと、『何かおかしい』ということを見過ごしてしまいます。有能な経営者は、この緊張感を保てる人なのでしょう。

健康も同じ事で、大病の『予兆』は必ずあるものだと言われます。そう言われても、些細なことに、ビクビクして神経質になってしまうのも、楽しい話ではありませんので、ついつい、見過ごして、後で後悔することになりますが、弱い人間としては、仕方がないようにも思います。

梅爺も、歳をとるにつれ、昼間電車に座って読書などしていると、睡魔に襲われる頻度が高くなりました。『あの爺さんは泥棒かもしれない』と鋭い人に疑われているのかもしれないと考えると、うかうか、うたた寝もできないことに気づきました。でも、睡魔には勝てませんので、参っています。

| | コメント (0)

2007年4月21日 (土)

説得(Persuasion)

アメリカで、小学校から『ディベート』の訓練をする目的が、立場が違う他人との接触無しには人は生きていけないので、そのための基礎訓練をし、更に、自分とは異なった立場が存在することを認める訓練をするためだとしたら、大変意義深いことのように思います。

もう一つの『ディベート』の目的は、『論理的な思考訓練』ではないかと梅爺は想像しています。人が心から『納得』するには、なるほどと思う論理が必要になるからです。梅爺が、アメリカの裁判シーンが登場する小説や映画を好んで観るのは、検事や弁護士が、プロの威信を賭けて、陪審員を説得するための、論理を丁々発止と展開するのが、堪らなく面白いからです。

ビジネスは、煎じ詰めれば、商品やサービスをお客様に購入していただけるかどうかにかかっていますので、何らかの形で、お客様に『ご納得』いただく方法が必要になります。広告は、商品やサービスの存在を消費者に知らしめると同時に、『買いたい』と思う気持ちを喚起する端的な手法です。

セールスマンがお客様に直接対応する場合は、『人対人』の『説得』がポイントになります。つまり、どのような論理や手法を用いて、お客様の気持ちの変化を起こさせるかが問題になります。

有能でないセールスマンは、ただ商品やサービスの良い面(特徴)を説明するにとどまりますが、有能なセールスマンは、その商品やサービスを顧客が購入した後に、どれだけ顧客の生活環境や精神環境が豊かで、快適なものに変わるかに重点をおいて説明します。どのように説明したら、顧客の琴線に触れることになるかを、顧客ごとに見抜けるかどうかがセールスマンの腕の見せ所になります。

梅爺は、情報システムを企業顧客へ売る仕事をしていましたので、いかに顧客企業の『琴線に触れる論理』を用いた提案ができるかどうかについて、毎日腐心をしていました。顧客ごとに、経営環境は異なり、経営者の考え方も異なりますので『琴線に触れる論理』を推測することは易しいことではありませんせした。顧客の立場を、どれだけ理解できるかが勝負でした。

勿論、全てがうまく事が運んだわけではありませんので、『他人(顧客)を説得し、納得いただいて、こちらが望むように行動していただく』ということが、どれだけ難しいかを痛感し続けることになりました。

経営者と社員の関係も同じで、賢い経営者は、物欲(報酬、地位)や威嚇だけで、社員をコントロールせずに、社員の立場を理解し、琴線に触れる論理を提示しようとします。人が自ら行動するのは、心から納得することが必要条件であり、物欲や威嚇でコントロールするだけでは長続きしないことを知っているからです。

| | コメント (0)

2007年4月20日 (金)

Position(立場)

昨日のブログ、『ディベート(Debate)』にも書きましたが、アメリカの会社とビジネス折衝する時には、先ず双方の会社のPositon(立場)を明確にすることから開始します。必要ならば、『Position Paper』という資料を作り、交換します。

これに基づいて、最初は、自分の『Position』の正当性や、何故そのような立場をとる必要があるかを説明します。つまり、ディベートの手練手管を駆使することになります。この時点で、双方の立場に大きな相違がなかったり、どちらかが相手の立場を認める譲歩をすれば、事は簡単ですが、多くの場合は、基本的な考え方で、話がかみ合わずに、平行線をたどることになります。

梅爺がアメリカの会社の『技術を導入する折衝』で経験した例では、相手はその技術の開発に要した総額の根拠を提示して、『梅爺の会社がその全額を支払うべきだ』と主張したのに対して、こちらは、その技術を利用した事業計画の規模や内容を示し、『事業が黒字になる前提では、技術導入費の限度はここまでだ』と主張しました。当然、双方の提示額には、大きな隔たりがあり、算出根拠の『立場』が異なるわけですから、話し合いは平行線になりました。

この段階で、物別れになることもありますが、多くの場合は、『それでは、お互いに、立場の違いを肯定した上で、違った角度から知恵を出し合って、合意点を見つけよう』ということになります。日本人や日本の会社は、この頭の切り替えに、うまく対応できないことが多いように感じました。

梅爺の例では、この段階で一度折衝を中断し、帰国して会社の幹部に折衝経緯を説明すると、『お前は、アメリカの会社の説得に失敗したのか』と詰問されることになりました。日本人は、折衝に成功することは、『相手に、こちらの立場を全面的に受け容れさせること』、つまり『参りました』と言わせることで、それが『説得』だと考えるからなのでしょう。現実には、『説得』できることは稀ですから、『説得』できない時に、次の方法を模索するというやり方の方が現実的であるように梅爺は感じます。

アメリカでは、立場の違いを肯定した上で、それでも双方を利する新しい現実策(知恵)を提示できる人が、『優秀なビジネスマン』ということになります。日本流に言えば『大人の解』が好まれます。

相手が『参りましたと言うまで、頑張る』などと、子ども染みたことを言っていたり、『立場』と『個人』を峻別できないでいたりすると、ビジネスの世界では、日本はなかなか大人の仲間入りが出来ないように思います。梅爺は自分の経験から、そのように感じています。

| | コメント (2)

2007年4月19日 (木)

ディベート(Debate)

人は、生まれ育った環境や経験で獲得した『自分の価値観』で周囲を観て色々なことを判断し、行動します。自分の価値観が絶対正しいと疑いを持たない人は、決断性に富んでいるという利点を有する反面、融通が利かないと他人から忌避され勝ちです。一方、自分の価値観が間違っているかもしれないといつも疑いを持っている人は、優柔不断のそしりを受ける一方、他人とは協調してやっていけるという利点を有しています。多くの人は、その中間で、あることには、譲れない価値観をもち、あることには、自信がないので、他人の価値観を受け容れることもある、ということではないでしょうか。

ディベート(Debate)は、日本語では『討論・議論』と訳されますが、梅爺がアメリカ人とビジネスをした時の経験では、『立場(Position)の違いを明確にして、自分の立場の正当性を論じ合う』という意味のように感じました。

この『立場(Position)』がまた厄介で、その人が属する環境(会社、国家など)の言い分ですから、必ずしもその人の個人的に意見と同じとは言えません。つまり、個人的には、白と考えながら、立場上は黒と言い張ることがあって、そういうことが、許されるという前提なのです。

日本人は、相手の主張を、その人の主張と考えますのので、『立場の主張』の概念がなかなか理解できません。

外交交渉や、ビジネス交渉は、『立場の主張』をベースとした論争であることを理解する必要があります。

アメリカでは、小学生のころから、ディベートの訓練をすると言われています。つまり、教室を半分に分けて、一方は『カラスは黒い』、もう一方は『カラスは白い』という『立場』にして、双方のグループが、自分の立場の正当性を議論する訓練をすることになります。当然、『カラスは白い』という立場に属した子どもも、個人的には『カラスは黒い』ことを知っているわけですが、立場上、ディベートでは『カラスは白い』と主張します。

こういう訓練を子どものうちから受けてきた人と、ビジネス折衝をしているのだということに、本当に気づくまで、梅爺は時間がかかりました。日本人は、ホンネとタテマエを使い分けるので、理解しがたいなどと、外国人に言われますが、それは『個人』的な主張表現に矛盾があるからで、アメリカでは個人の主張の中に矛盾があることは軽蔑されますが、『立場』と『個人』の主張は、『矛盾することがある』ことは是認されているように見えます。

この文化の違いを理解しないと、日本人は、フラストレーションが溜まることになります。

タフ・ネゴシエータ(Tough Negotiator)は、『したたかな折衝能力の持ち主』と訳すと、日本人は、『コワモテのおじさん』『横車を押す人』を連想しますが、アメリカには、柔和な人でも、タフ・ネゴシエータは沢山いることを経験しました。つまり、ディベートの達人が沢山いるということです。

梅爺は、日本人の中では、理屈っぽい方ですが、アメリカ人から見ると、決してタフ・ネゴシエータではなかったであろうと思います。残念なことです。

| | コメント (0)

2007年4月18日 (水)

ケルビーニのレクイエム

昨夜は、約40年近く、モーツァルトの宗教曲を中心に、歌い続けてきた東京のアマチュア混声グループ『アマデウス合唱団』のチャリティ・コンサート(純益が全て聖ヨハネ会の福祉活動に寄贈される)を聴きに、『めぐろパーシモンホール』に出かけ、指揮者(岩村力氏)や演奏される方々の真摯な気持ちと、暖かい心が伝わってくる演奏に、心満たされて夜遅く帰宅しました。『アマデウス合唱団』には、梅爺の大学時代のコーラス同期生が2名と、現在梅爺が所属しているOB男声合唱団から、何人かの仲間が参加しています。

コンサートのメインは、『アマデウス合唱団』と小構成のオーケストラ『アンサンブル・ストロフィナーレ』による、モーツァルトの『荘厳ミサハ長調(KV337)』と、ケルビーニの『死者のためのミサ(レクイェム)ハ短調』でしたが、最初のステージは、『目黒星美学園聖歌隊(小学生の男の子、女の子、中学生の女の子であろうと見受けました)』による聖歌3曲で、皆背筋を伸ばし、緊張しながらも、全身で歌う様子(譜面は持たずに、内2曲はラテン語)を拝見して、梅爺は嬉しくなり、感動しました。歳をとると、何にでも感動するようになるものです。

この子達の将来にも、幾多の人生の試練が待ち受けているものと思いますが、幼い頃に経験した音楽やその歌詞の意味を、大人になってから、自分でより深く理解するようになり、試練に耐える糧に代えることができるのだろうと確信しながら清らかな歌声を楽しみました。暗いニュースが多い中で、別世界の時間を味わうことができました。

『アマデウス合唱団』は、本当に音楽や宗教曲を愛する人たちの集団であると感じました。普段合唱指揮をされる岩村輝志子氏や、昨夜ステージで指揮をされた岩村力氏の、お人柄や情熱もあるものと拝察しましたが、アマチュア合唱団が、このようなレベルを永年維持し続けることは、大変なことだろうと、梅爺(現在アマチュア合唱団に所属しているが故に)は感銘をうけました。一つの合唱団だけで、四苦八苦している梅爺とは異なり、かけもちで複数の合唱団で活躍される仲間には、頭が下がります。ソプラノとアルトを舞台の両側に配するという、混声としては変わった配置で、どのような音響になるのか興味がありましたが、違和感はありませんでした。

モーツァルトとケルビーニという、ある意味で対象的な作曲家の宗教曲を同時に聴くのも、面白い体験でした。どんなジャンルの音楽でも、苦も無くこなしてしまうモーツァルトの音楽と、究極的には深い信仰をベースに宗教曲に傾注していったケルビーニの音楽の違いが、浅学の梅爺にも、分かるような気がしました。

ケルビーニ(モーツァルトとベートーベンの間に活躍した作曲家)は、生涯2つのレクィエムを作曲していますが、昨夜の演奏は最初に作った混声用のもので、その後、晩年に作曲したもう一つのレクィエムは、レクィエムとしては珍しい男声コーラス用のものです。実は、梅爺はこの男声コーラス用の曲を大学時代に歌ったことがあります(日本初演)。同じケルビーニのレクィエムを比較するという意味でも、昨夜は貴重な体験でした。

大学時代に歌ったケルビーニのレクィエムで、梅爺はすっかりコーラスの虜になりました。草葉の陰で、ケルビーニは、日本人の不信心な爺さんに、そんな影響を与えたのかと、苦笑しているに違いありません。

| | コメント (0)

2007年4月17日 (火)

ネオテニー仮説

4月5日のブログ『横浜フォーラム』で紹介した、東大名誉教授の尾本恵市先生の講演録に、梅爺には大変興味深い話が掲載されていました。

それは、人類学者のアシュレイ・モンターギュが提唱した『ネオテニー仮説』というもので、『愛への欲求、好奇心、遊び心といった子供にみられる精神的特徴が、大人にまで持ち越されるのがヒトの特徴』という内容でした。

そう言われてみると、確かに、ヒトの赤ん坊は、他の動物にくらべて生まれた直後は、自分では何も出来ない無防備な存在ですし、成人に達するまでも永い時間がかかるのは、何故だろうと思い当たります。

この秘密の鍵は、ヒトの脳容量の大きさにあるらしく、母胎内での生育を待っていると、出産ができなくなるために、『早産』を余儀なくされたという話のようです。

尾本教授は、『ヒトの行動上の特徴を考える上で最も重要なのは、子ども期だと思います。具体的には、離乳をして永久歯がはえだすまでの3歳から7歳までの期間です。この乳歯しかない時期には、大人と同じものは食べられませんから親の庇護のもとに置かれます。そこで、複雑な抽象言語を使いこなす学習期間が与えられるのではないでしょうか。ヒトはネオテニー化することで、そのようなゆとりを手に入れたのではないかと思うのです』と述べておられます。

また、『自然淘汰による進化を考えれば、子ども期が永いことは集団にとって負担となる不利な特徴のように見えますが、実は、これこそヒトの脳および言語の発達をもたらし、結果としてヒトという種を繁栄させることにつながったのではないかと思います』とも述べておられます。

一見不利な条件を、有利な条件に転じてしまう、という話は、個人、会社、国家にとっても、深い教訓を含んだ話です。

アイルランドという小国は、民族がストイックな気風で、修道院発祥の地として、ローマ帝国が崩壊した時に殆ど失われたキリスト教の旧いドキュメントの写本を、現在に継承したことで有名ですが、最近までは、これといった天然資源ももたない、ヨーロッパの中では『田舎国』と考えられていました。

しかし、アイルランド政府は、高い教育レベルの人材を低賃金で提供できることを利用し、更に外国との間の通信費が安い高速通信網を整備して、一躍、世界屈指の『IT国家』にアイルランドを変えてしまいました。世界の大企業のソフトウェア開発センターやコール・センター(消費者から電話で問い合わせを受けるセンター)は、アイルランドに設置されていて、従業員は各国語で対応を行っています。国家が、弱点を長所に変えた最近の事例です。アイルランドは、今やギネスビールだけの国ではありません。

話を元へ戻したいと思います。大人になりきれない成人は『子どもじみている』と批判の対象になりますが、一方、『子どもの心を残している大人』は、大人の社会で、大変魅力的なヒトとして受け容れられることにもなります。

ヒトの脳の活動は、『Intellectual Intelligence 』と『Emotional Intelligence』の二つに大別できますが、前頭葉が大活躍する『Emotional Intelligence』は、主として幼児期に形成されるのではないかと梅爺は想像しています。

従来知能テストでヒトの能力を推し量ってきましたが、実はヒトがヒトらしい所以は『Emotional Intelligence』にあるのではないかと、考えています。

この話を始めると永くなりますので、後日、別途紹介したいと思います。

| | コメント (0)

2007年4月16日 (月)

検索エンジン

インターネットは、たった10年位の間に、大げさに言えば、世界の人たちの生活様式や、文化レベルを大きく変えてしまいました。歴史の証人として、その変化を目の当たりに見ることができたことを、私たちは幸運と思うべきかもしれません。

最大の変化は、情報提供の媒体(メディア)として、インターネットが、主役に躍り出たことです。本(辞書、百科事典も含め)、雑誌、新聞、テレビ、ラジオ、レコード、CD、映画、DVDなどの、従来のメディアは、インターネットと対抗して生き残るのか、共存して生き残るのかの選択を迫られています。共存以外に生き残り策はなさそうであることが、次第に明らかになってきましたので、近い将来、同じ業界でも、知恵で乗り切る事業主と、無策で廃業に追い込まれ事業主の差が明確になることでしょう。

インターネットは、利用者から見ると、『情報の宝庫』であり、また見知らぬ人へ自分の情報を発信できる手段でもあります。個人ホームページやブログは、正しく後者です。梅爺は、梅婆から『自己顕示もほどほどにしないと、ひと様に迷惑ですよ』とたしなめられています。確かに、梅爺も人並みの自己顕示欲の保有者であることは認めますが、ブログを書いてみて、分かってきたことは、普段頭の中で、ぼんやり考えていることを、文字で表現することは、思ったより『易しくない』ということでした。自分で書いた文章を自分で読んでみても、『思っていることが適切に表現できていない』と思うことの方が多いのですから、梅爺がブログでひと様に『誤解』をばら撒いているという指摘は、正しいかもしれません。でも、梅爺の『脳の活性化』には役立っていそうなので、勝手ながら当分続けてみようと考えています。

インターネットが、『情報の宝庫』であることは、皆様も実感されておられることでしょう。検索エンジンにキーワードを打ち込めば、読みきれないほどの情報を即座に入手できます。『梅爺閑話』というような言葉を入力しただけで、梅爺のブログサイトの関連情報が表示されますので、驚くほかありません。政治やビジネスの公用語になりつつある、英語でキーワード検索すれば、更に膨大な資料が入手できます。『ダ・ヴィンチ・コード』という小説がベストセラーになった途端に、この中の『話題、用語』に関する資料をインターネットで集め、ちゃっかり資料集として出版した人がいるくらい便利な手段です。

この検索エンジンは、大変高度なソフトウェアで、大手のGoogleなどは、世界の優秀な数理学者を集め、多額なお金をかけて開発を継続しています。そのような、高価な機能が、『タダ』で利用できるのは、勿論、裏側に『広告事業』と絡んだビジネス戦略が隠されているからです。つまり、『あるキーワードに興味のある人ならば、興味を持つであろう商品広告を、その人だけに届けて、広告の効果効率を上げよう』という狙いです。収入は、広告主の支払いで賄われます。インターネットを利用して、広告は、『マス(大衆)』から『個人』へ対象を切り替えようとしています。

裏側の思惑は、ともかくとして、『検索エンジン』は便利なので、梅爺は、せっせと利用しています。

| | コメント (0)

2007年4月15日 (日)

エデンの東

梅爺が選ぶ映画ベスト5の第1位は、1995年のアメリカ映画『エデンの東』です。梅爺の評価では、第2位以下を大きく引き離して、堂々1位です。

スタインベックの、父子の心の離反と和解を描いた原作、それに、その内容を見事に表現したタイトル、『波止場』や『欲望という名の電車』などを手がけてきた社会派監督エリア・カザンの円熟した演出、影を帯びた青年を好演したジェームス・ディーン、ロナード・ローゼンマンの哀愁漂う音楽、と梅爺には何一つ不満はありません。

北カリフォルニアの港町モントレーと、その近郊の田園地帯サリナスが舞台で、梅爺も何度か観光や、生意気にもゴルフ(ペブルビーチなど有名コースが点在)でこの地帯を訪れたことがありますが、いつもその度に、頭の中に、あの音楽が自然に蘇りました。

聖書を読むことを日課とするような謹厳な農家を営む父と、二人の息子、父の意に従順に従い、愛される長男と、父の愛を得ようと試みることが全て裏目にでて、次第にぐれていく次男(ジェームス・ディーン)、夫の自分中心の謹厳さに耐えかね、刃傷沙汰の末、息子たちが幼い頃に家出し、今ではモントレーで酒場兼売春宿を営む母(子供たちは、理想的な母親であったが死んだと父親から聞かされて育つ)と、人間模様を描くための、万全な設定がなされています。

母親の秘密を知った次男は、それでも母に会いたくて、酒場を何度も訪れ、最初は用心棒に追い返されますが、ついに『理想的な母親』ではない母と対面することになります。

父が、企てた冷凍キャベツを東部に汽車で送る事業は、失敗し、次男が母親から借りた金を投資した事業は大成功します。次男は、この儲けた金を父の誕生日に、父が失敗した事業の穴埋めにと、贈ろうとしますが、父親は『得体の知れない金』は受け取れないと突き返します。

自制心を失った次男は、父と長男に、母と会ったことを告げ、父親は『身勝手な女だった』と言い、長男は酒を飲んで自暴自棄になり軍隊に入営してしまいます。

しかし、父親が病気で倒れ、見舞いに訪れた次男の耳に、父親は『生意気な看護婦が我慢ならない。お前に看病して欲しい』と涙を流しながら、弱々しく囁きます。それを聴いた次男は、椅子を父親のベッドの側に置いて、じっと座り込みます。嬉しさがにじみ出たその姿を、ジェームス・ディーンは無言で見事に表現していて、このラストシーンが、梅爺は大好きです。

人は生きていくために、自分を認め、愛してくれる人を必要としているという、単純ながら最も大切なテーマ、そして、自分の価値観で、知らず知らずに他人を傷つけてしまうという、逃れ難い宿命について、深く考えさせられる珠玉の映画であろうと思います。

| | コメント (0)

2007年4月14日 (土)

12人の怒れる男

梅爺の選ぶ映画ベスト5の2位は、シドニー・ルメット監督のアメリカ映画『12人の怒れる男』です。梅爺の嗜好が偏っていて、2位は少し高評価過ぎるかもしれません。

この映画が風変わりなのは、裁判所の陪審員表決室内の午後5時から6時半頃までの出来事を中心に、実況中継のような手法で、撮影した作品であることです。主役の建築家を演ずるヘンリー・フォンダを含む12人の陪審員は全て白人男性で、有色人種や女性を含んでいないのは、当時のアメリカの司法制度の事情をを反映しているのではないかと思いました。

多分、原作が舞台劇の脚本ではないかと思いますが、わざわざ映画の持つ表現可能性を極度に制約して、12人の陪審員の緊迫した討論だけで、観る人の緊張感を最後までひっぱり続ける技量に感心しました。この陪審員表決討論の前に行われたであろう裁判の様子や、父親殺しの疑いをかけられた被告の少年、殺人を目撃したと主張する証人などは、一切登場しませんし、事件の回想シーンなども一切ありません。こうした足かせ、手かせの中で、映画を作ろうというへそ曲がりな精神が、第一に梅爺好みです。

俳優の台詞と表情、仕草だけが、陪審員同士のコミュニケーションと、映画を観ている人の想像をかきたてる媒体手段として利用されています。

簡単に『有罪』の表決にいたると殆どの陪審員が考えていた中で、一人の男(ヘンリー・フォンダ)が、『少年が死刑になるかどうかが、この表決にかかっているのだから、裁判の証言内容に本当に疑念が無いかどうか、もう一度検討してみよう』と言い出し、渋々議論を開始するところから映画が始まります。

そのうちに、次々に証言の矛盾が明らかになり、最初は圧倒的に『有罪』が優勢だった状況が、一人また一人と『無罪』側に転向し始めます。この段階で映画を観ている人は、最後は『無罪』の表決にいたるのであろうと予感しますが、頑固に『有罪』を主張する陪審員がどうして『無罪』に最後は転向するのかに興味が移り、結局最後まで、緊張して観続けることになります。最初に観る人に犯人が提示される『コロンボ刑事』映画で、どうやってコロンボ刑事が犯人を追い詰めるかを興味深く観るのと同じ心理になります。

議論のプロセスで、陪審員一人ひとりの生い立ち、人間性、倫理観、教養のレベルなどが、観ている人に明らかになり、自分が好きなタイプの人に加担したくなる心理にもなります。言葉と表情が、人間のコミュニケーションの原点であることが、良くわかります。

直感では、『犯人らしい』と感じても、裁判で提示された内容に、一つでも疑念があれば『無罪』、つまり『疑わしきは罰せず』であるという、『法の正義』の厳しさを示した映画で、こういう映画を面白いと感ずる梅爺のような人は、かなり理屈っぽい人種かもしれません。台詞中心で、場面転換も少ないこういう映画は退屈という方も多いのでしょう。そのためか、封切当初は、アメリカでは殆ど話題にならず、評価されなかったと聞いています。

| | コメント (0)

2007年4月13日 (金)

チャップリンの独裁者

梅爺が選ぶ映画ベスト5の第3位は、『チャップリンの独裁者』です。他にも『キッド』『街の灯』『モダンタイムズ』と数ある候補がある中から、敢えてこれを選びました。

チャーリー・チャップリンが、映画史に残る天才であることは、オリジナル脚本、監督、音楽、そして当然主演と、一人でこなしてしまえる才能の持ち主が、他に現れないことからも分かります。当初のドタバタ喜劇の頃に、既に自分の貧相な体格を逆手に取ったあの『チャップリン・スタイル』が、観客に無意識な優越感と、安心して笑える雰囲気を提供することを鋭く見抜いていたわけですから、感嘆のほかありません。『観客の反応まで計算して、自分の意のままに映画を作る』ことが出来た、真の職人と言えるのではないでしょうか。

言葉も喋れない赤ん坊が、最初に自分から『笑った』時に、周囲の大人に与える感動の大きさを思い浮かべただけで、『ヒトが笑う』ということが、コミュニケーションの手段として重要であることがわかります。『悪意を含んだ笑い』という、複雑な表現もありますが、一般に『善意の笑い(笑顔)』『屈託の無い笑い(笑顔)』は、周囲を和ませる効力があります。

チャップリンは、本当に伝えたいメッセージを『笑い』という媒体にくるんで、提示した方が、直接的なメッセージより、より深く観客にアピールすることを、知り尽くしていたのでしょう。機械優先の社会(モダンタイムズ)、戦争とそれに伴う自由の束縛された社会(独裁者)を、『笑い』で批判するという、秀逸な手法を用いています。イギリスの貧困な家庭に育ったチャップリンはは、弱者が直接強者や権力に立ち向かうよりも、もっと効果的に、強者や権力を批判する方法があることを、直感的に気づき、身につけていったのではないかと思います。

『独裁者』は、ユダヤ人の床屋(弱者)と、独裁者ヒンケル(権力者)が外見上似ていることを利用した(チャップリンの一人二役)、ストーリィ展開になっています。チャップリンならではの名演技で、梅爺が好きな場面は、ヒンケルがデタラメドイツ語でヒットラー風に演説する場面、ヒンケルが地球儀の風船で世界制覇を夢見ながら一人で戯れる場面、床屋がハンガリアダンスの曲に合わせて髭剃りをする場面、二人の独裁者(ヒットラーとムッソリーニのパロディ)が床屋の椅子の高さを競う場面などです。

映画の最後で、床屋がヒンケルと間違えられて、演説をしなければならない状況に追い込まれ、この場面だけは『笑い』を排除して、極めて『まともな演説』をしています。人生には『笑い』でカモフラージュしてはいけないこともあるという、チャップリンの主張なのでしょう。

『深刻なこと』や『悲しいこと』の直ぐ側に『笑い』があり、『笑い』は人を和ませる特効薬であることを知り尽くしていたチャップリンに、私たちが『笑いや笑顔の乏しい偉い人』よりも、ずっと親近感を感ずるのは、どうしてなのだろうと、あらためて考えてしまいます。『笑い』はヒトや、ヒトの脳を解き明かす鍵なのかもしれません。

| | コメント (0)

2007年4月12日 (木)

禁じられた遊び

梅爺が選ぶ映画ベスト5の第4位は、ルネ・クレマン監督のフランス映画『禁じられた遊び』です。1952年の公開ですから、梅爺は小学校の高学年の頃、学校の映画鑑賞の日に映画館へ皆で出向いたような記憶があります。勿論、小学生の梅爺には、この映画の素晴らしさが理解できたわけではありません。映画は、観る年齢で評価が変わります。

何といってもこの映画の圧巻は、主役のポーレット役の女の子(ブリジッド・フォッセイ)の迫真の演技です。人形のようなかわいらしさも相俟って、観る人に感動を与えます。ルネ・クレマンがどのような演技指導をしたのか、知りたくなるほど映画史に残る名子役です。

都会(多分パリ)の裕福な一家(親子3人、愛犬)が、戦火を逃れて田舎へ疎開しようとする途中、逃げる愛犬を追いかけて、ドイツ軍飛行機の機銃掃射の中に飛び出した女の子を庇おうとして両親も飛び出し、悲惨なことに両親と犬が死んで、女の子だけが残されるという最初のシーンから、孤児院へ引き取られることになり、大好きなミッシェル(女の子を一時世話をした農家の男の子)と引き裂かれることになった女の子が、ミッシェルを求めて、名前を叫びながら雑踏の中に消えていく最後のシーンまで、無駄なカットが一つもない素晴らしい構成でストーリィが進行します。

この映画は、反戦映画であることは、間違いありませんが、周囲の『死』に対して、大人と子供の対応の違いを描き、大人から見ると『非常識』に見える子供の対応をとおして、実は大人の『常識』の基盤(習慣的な既成概念)の脆さを、ルネ・クレマンは、客観的に、時にユーモラスに表現しているのではないかと感じました。

『死者は、穴に埋められ、その上に十字架を立てて、皆がお祈りをする』という大人の『形式』を見た、子供たち(ポーレットとミッシェル)が、それこそが『死』の意味と純真に理解して、動物の死骸を集めて、『お墓つくりごっこ(禁じられた遊び)』に熱中し、必要な十字架を、教会や墓、霊柩車からまで盗んでくることになります。『死』を表面的にしか受け止められない幼い子供の行動を描くことで、一方、『形式的』にしか『死』に対応できなくなった大人の、ある意味で滑稽な側面を、ルネ・クレマンは、どちらに加担することもなく、愛情を持って人間を描いています。

幼い二人の恋心を、大人の恋愛と対比して描いているようにも思いました。

大人は、自分が子供であったことを忘れて、大人の視点で子供とつきあってしまい勝ちですが、ルネ・クレマンは、子供の心が理解でき、しかも、習慣や形式にとらわれて生きている大人も蔑視せずに、むしろ愛情を込めて描いていますので、その人柄を容易に想像することができます。

ナルシス・イエペスのギターだけの音楽も、見事で、梅爺は好きです。

| | コメント (0)

2007年4月11日 (水)

初恋が来た道

梅爺が、選んだ映画ベスト5の、第五位が、チャン・イーモー監督の『初恋が来た道』です。5本の中で、これだけが最近の作品(2000年、中国)で、映画館ではなく、我が家のテレビ(ハイビジョン放映)で観ました。

チャン・イーモーは、現代中国が世界に誇る映画監督の一人で、往時の黒澤明監督を髣髴とさせる映画作りの才人です。黒澤明が、『生きる』というような現代を舞台にしたシリアスな映画から、『七人の侍』『蜘蛛の巣城』のような時代物の映画まで、ジャンルを問わずに色々な映画を撮ったのと同じように、チャン・イーモーは、現代の中国僻村を舞台とした『初恋が来た道』のような叙情あふれる文芸映画から、ハリウッド資本と結託した『HERO』『LOVERS』といった、時代物大スペクタクル活劇映画まで、全く毛色の違う映画を撮り、いずれも、優れたレベルの映画に仕上げています。

最近(2005年)では、日本の高倉健を主役に抜擢した『単騎、千里を走る』が公開され、梅爺と梅婆は、近所のシネマ・コンプレックスまで観に出かけました。

チャン・イーモーは、テレビで観たインタビュー番組で、『どのジャンルの映画も好き。でも文芸作品を撮っている時が一番楽しい』というようなコメントをしていたように記憶しています。人間が興味の対象で、人間を描くことが好きなのでしょう。彼の代表的な文芸作品が、いずれも中国僻村の小学校を舞台とした『初恋が来た道』と『あの子を探して』で、中国政府が『わざわざ中国の貧しさを宣伝するような内容は好ましくない』とコメントしたというような話も聴いたことがあります。『好ましくない』どころか、美しい自然と、純朴な人たちが、世界中の観る人に与える感動は、むしろ『中国に親近感を持つ』結果になることは間違いありませんので、政府のエライサンの価値観は、いただけません。

『HERO』や『LOVERS』の、本場ハリウッドも舌を巻く武闘シーンの特殊撮影が有名ですが、チャン・イーモーの映画の一つの特徴は、映像美(色彩、衣装、構図、所作)にあります。それと、文芸映画では、主役以外は、殆ど役者を使わずに、現地の素人で済ませてしまっていることです。これが、何ともいえない素朴な味を出しています。『単騎、千里を走る』では、高倉健、『初恋が来た道』では、チャン・ツィイー(女優)だけが、プロの役者ではないでしょうか。チャン・ツィイーは、この映画で衝撃的な名演デビュー(一途に恋心を抱く少女役)を果たし、その後、あっという間に世界の大女優になりました。

映画を知り尽くした職人が作った、映像美、人間描写に優れた映画として、梅爺は5位にランクしました。

| | コメント (0)

2007年4月10日 (火)

梅爺が選ぶ映画ベスト5

梅爺は、熱狂的な映画ファンとはいえませんが、今までの人生で、それなりに多くの映画を観てきました。テレビの無い時代は、映画が娯楽の王様でしたが、お金がないために、そう度々は映画館へ行けませんでしたから、逆に、小さい頃観た映画の印象は、今でも強く残っています。

特に、日本に最初に紹介された『総天然色映画』の『小鹿物語』や、最初のシネマスコープ映画『聖衣』は、ビックリしたことを覚えています。

サラリーマン引退後、時間の余裕ができたために、テレビで放映される映画を、録画装置に録画して貯め込み、気ままに観る機会が増えました。お正月などには、名画が沢山再放送されますが、普段は深夜に、いわゆるB級映画が流されますので、結果的にB級映画も沢山観る結果になりました。B級映画の大半は、確かにB級なのですが、時折、『期待に反して(?)』面白いものも混じっているので、ついつい観ることになってしまいます。特に、時折放映される、インド映画、イラン映画などは、慣れ親しんでいるアメリカ映画や、日本映画と、テンポや背景文化が異なって、新鮮に感じられました。

皆さんも、好きな映画を5本挙げてごらん、と言われると、意外にお悩みになるのではないかと思いますが、梅爺も、簡単ではないことが分かりました。それでも、思い切って選んでみたのが以下です。

(1) エデンの東(エリア・カザン監督)
(2) 12人の怒れる男(シドニー・ルメット監督)
(3) チャップリンの独裁者(チャーリィ・チャップリン監督)
(4) 禁じられた遊び(ルネ・クレマン監督)
(5) 初恋が来た道(チャン・イーモー監督)

日本映画が含まれていないのは、特に偏見があるわけではありません。1本選ぶとしたら、『東京物語(小津安二郎監督)』で、上記の5本と比べて特に見劣りするとは考えているわけではありません。

お金をふんだんに使った、大スペクタクル映画も、嫌いではありませんが、上記のような『人間を描いた映画』になってしまうのは、歳のせいかもしれません。こういう風に、人間を描ける監督は、きっと素晴らしい方なのだろうと想像してしまいます。

5本を選んだ理由は、長くなりますので、次回に書きます。

 

| | コメント (0)

2007年4月 9日 (月)

ヒトの言語能力(3)

民主主義や、『人は法の下に平等』などという思想は、ヒトの20万年に及ぶ歴史の中で、永い試行錯誤の末に、『ごく最近』獲得した後天的なルールですが、ヒトの言語の中に仕組まれたルール(文法)は、ヒトの発生と同時に脳の中に先天的にプログラムされていたように思えるのは驚異的なことです。

つまり、文法の基本的な論理構造は、先天的に最初からヒトの中に既に存在していたもので、各言語が持つ文法は『後から見つけ出し、体系化した』ものに過ぎないということです。同じルールでも、民主主義のルールとは、決定的に生い立ちが異なります。学校で、文法を習って、良く理解できなかった人も、日常生活では、その文法に従って『会話をしている』という、ブラックユーモアのような話です。

『主語(S)』『目的語(O)』『動詞(V)』に関して、日本語はSOVの語順ですが、英語はSVOで、異なっています。しかし、それは語順だけの話で、基本要素は同じです。多分、語順は、後天的に取り決めたルールなのでしょう。『美しい(美しく、美しさ)』『楽しい(楽しく、楽しさ)』などという抽象概念を、形容詞、副詞、名詞で表現し、論理構造に組み入れているのも、各言語共通です。更に『彼が落選したことが、私を驚かせた』などと『彼が落選した』という句を、一つの概念(この場合は主語の概念)として論理解釈してしまいますので、これにより複雑に入り組んだ文章も、論理構造ルールに従って理解してしまうということになります。世界のどの言語も、このような機能を共通して保有しています。

言語学者のチョムスキーが、表面的には異なって見える色々な言語の大本に、『Universal Language』という基本構造が存在すると主張したのは、『なるほど』と肯けます。

抽象的な概念を、言葉の論理構造の中で使い、これで相互の意思疎通ができる、という能力は、地球上の生物の中では、ヒトだけが持つ特筆すべき特徴であることがわかります。幼児が、少ない語彙を利用して、独創的なストーリィを創り出せるようになるのも、このためなのでしょう。

このヒトの能力が、ヒトの世界に『宗教』『文学』『法律』などをもたらしたのであろうと思います。抽象概念の論理的な把握が無ければ、科学の進展は無かったでしょう。

それにしても、何故先行した人類種には無かったこの先天的能力が、突然変異として、ヒトだけに授けられたのか、偶然なのか、何か必然的な利用があったのか、梅爺には、謎中の謎です。

仮に、ヒトがヒトの脳のしくみを解明したとしたら、その時、何が待ち受けているのでしょうか。幻滅でしょうか、更なる希望でしょうか。

| | コメント (0)

2007年4月 8日 (日)

ヒトの言語能力(2)

ヒトが脳で高度で知的な情報処理するプロセスは以下のようなものであろうと推測できます。『痛い』とか『怖い』とか、他の動物と同じように、本能的な反応をする場合は、もっと原始的な脳中枢での処理がなされるのであろうと思います。つまり、これに関しては、他の動物と同じなのでしょう。脳に詳しい方々には、以下のようなことは常識かもしれませんので恐縮です。

(1) 外部からの刺激を、パターンとして認識する。但し、興味の度合いに応じて認識し、興味の無いものは、認識対象にしない(全てを処理していたら脳はパンクする。これにより、例えば雑音の多い環境でも、ある人の声だけを聞き分けられる。好奇心の強い人ほど脳を駆使している)。

(2) 認識したものを、ある概念に変更し、既に脳に蓄積されている類似概念(グループ)との関係を検索して、『理解』する。また新しく取得した概念は、類似概念グループに組み入れ記憶する。

赤ん坊のように、まっさらな脳に、どのように最初の概念グループが形成されていくのかについては、梅爺の理解を超えています。多分ヒトの脳には、最初からそれを可能にするプログラムが埋め込まれているとしか考えられません。

幼児期の言語学習には、両親、特に母親の影響が強いことは当然ですが、幼児は、母親の『真似』をして言語を学んでいくだけではないところが驚異的です。幼児は、母親の話を、不思議なことに論理構造を持った文脈として理解するようになります。勿論、母親は文法を教えたりしませんし、幼時も文法を自分では意識などしていません。

我が家の犬は、『お座り』『待て』『お手』という命令には、繰り返し訓練で対応できますが、『向こうへ行ってお座り』『あの人へお手』などの文脈は理解できません。一方、孫は、『これを、向こうにいる人に、持って行ってちょうだい』というな、複雑な文脈を理解できます。

チンパンジーが、簡単な論理構造を理解するかどうかは、学者間でも議論が分かれているようです。論理を理解しているのではなく、『繰り返し訓練』で、パターンとして認識しているに過ぎない(チンパンジーは論理構造を理解できない)という主張があり、梅爺にはどちらが正しいのか判断がつきません。

ヒトの脳の、この高度な処理能力は、他の動物に比べて傑出したものであり、これがヒトを地球上で特別な存在にしていますが、他の部分は、他の動物に勝っているとは限りません。しかし、だからと言って『ヒトは動物に過ぎない』と自嘲気味に言う必要はありませんし、一方、『ヒトは崇高なもの』と得意げに言う必要もないように思います。

ヒトが地球や自然とどう付き合うかは、ヒトの問題ですが、地球や自然がヒトのためだけに存在すると、尊大に考えないことが大切なのではないでしょうか。

| | コメント (0)

2007年4月 7日 (土)

ヒトの言語能力(1)

私たちは、地球上に存在する『ヒト』という、生物の一種ですが、昨日のブログで、東大名誉教授の尾本恵市氏のお説を紹介したように、『文法(論理構造)を持つ言語を保有する』と『シンボルを用いた精神活動する』という、他の生物種と異なった特徴を持っています。

確かに、『鳴き声』の種類で、相互に意思伝達する程度の動物は、ヒト以外にもいますが、文法のある言語で、会話をする犬や、神に祈りを捧げる猫は見たことがありません。

二つのヒトの『特徴』は、脳の中の『パターン認識、認識したものを必要に応じて抽象概念に代えて類似概念と共にグループとして記憶、異なった概念グループ間の相関関係を把握して(創り出して)記憶』という、同じ機能を基盤としているのではないかと、梅爺は考えました。

尾本氏は、お孫さんが、限定した語彙を組み合わせて、独創的にどんどん『ストーリィ』を創り出していくことに、感嘆されておられますが、梅爺も3歳の孫のパターン処理能力、言語能力には驚かされます。

梅爺の孫は、『車が大好き』で、1歳半の頃には、おもちゃの車の車種名を片言で言い始めました。例えば、おもちゃの『ビートル(フォルクスワーゲン)』を覚えると、街中で本物のビートルを見つけた時や、雑誌の写真でビートルを見ても、それが『ビートル』であることが判るのです。一見当たり前のようなことですが、これと同じ判断をコンピュータにやらせようとしたら、どのくらい大変かが判っていますので、驚きました。

同じく、色の概念も、最初は『白いビートル』『赤いサンダーバード』などとおもちゃの車で覚えた言葉を、そのうちに、『白いミルク』『赤いイチゴ』などと違う物との組み合わせで、正しく表現できるようになります。丸、三角、四角などという、抽象的な形態概念も、難なく理解するようになります。

このようなことから、人間の脳の基本機能は、『パターン認識(五感全てに対応)』で、認識結果を『抽象概念』に代えて、処理・記憶しているのは、間違いないように思います。

しかし、実際のコンピュータに比べて、極度に情報伝達速度で劣る脳が、何故、迅速に、このような複雑な処理が出来るのかは、未だ全貌が分かっていません。多分、想像を絶する『超並列処理』が行われているのであろうことは、推量できますが、そのプログラムは、どのように脳の中に仕組まれたのかなど、謎は深まるばかりです。

ヒトは、ヒトに関する研究を深めるべきという、尾本氏のご主張は、まことにごもっともと言うほかありません。

| | コメント (0)

2007年4月 6日 (金)

ヒトと人類

昨日のブログに書いた『横浜フォーラム』の3月の例会は、東大名誉教授の尾本恵市(人類学者)氏が、講演されるということで、楽しみにしていたのですが、生憎はずせない仕事とぶつかり、欠席しました。尾本氏の御実弟が横浜フォーラムのメンバーで、この方も、薬学の大家で、現在慶応大学の講師をされておられます。

主宰者のMさんが、ご親切に、当日尾本氏が参考に使われた、いくつかの過去の講演録を梅爺に郵送くださいました。尾本氏が、当日どのようなお話をされたかの詳細は、聴いていないので分からないのですが、送っていただいた資料を読むだけでも、梅爺は大変勉強になりました。

梅爺は、学校で、『ヒトはサルから進化した』というダーウィンの学説を習い、『そういうことなのか』と、当時は、あまり疑念を抱いていませんでしたが、その後、『外見はともかく、ヒトとサルでは、あまりに違うことが多すぎる』のは、どうしてなのだろうと不思議に思うようになりました。

その後、『The Language Instinct - How the Mind Create Language(Steven Pnker)』という、ヒトが何故、優れた言語能力を持つようになったかを書いた本を読んだときに、この謎が少し分かったような気がしていたのですが、今回尾本氏の講演録を読んで、『そういうことか』とあらためて納得できました。

つまり、私たちが属するヒトと、サルの間には、サルでもない、ヒトでもない多くの生物学上の『種』が、存在したのですが、殆ど、それらの種は、『絶滅』してしまったという単純なことを、再確認しました。皆様には、『常識』なのかもしれませんので、お恥ずかしい次第です。

『ジャワ原人』や『ネアンデルタール人』は、『人類の祖先』と、習ったことは、『ウソ』ではありませんが、生物学的な『種』で論ずると、ヒトと、『ジャワ原人』『ネアンデルタール人』は、全く別種であるということです。

『進化のメカニズム』を良く理解しないで、『人類の先祖』という表現から、自分たちと同類と考えていたことが、誤解のもとでした。

尾本氏は、『ヒト』と『人類』という言葉は、厳密には分けて使わないと、誤解が生ずると言っておられます。ヒトの歴史は20万年ですが、人類の歴史は500万年に及びます。梅爺も、今までブログの中で『将来人類が絶滅する危機』などと表現してきましたが、尾本氏の区分に従えば『人類は今まで、何度も絶滅してきた』ことになります。

しかし、ここで新たに『何故ヒト以前の人類は絶滅したのか』『何故20万年前に、突然ヒトが現れたのか』という疑問が生じます。これらは、学術的にも現在解明されていないので、尾本氏は、『人類学』より『ヒト学』を深めてその謎に迫る必要があると、言っておられます。

サルや他の人類と異なって、ヒトだけが保有する特徴として、尾本氏は『コミュニケーションと概念的思考の手段として、文法を持つ言語を保有すること』『シンボルを用いた精神活動を行うこと(歌、踊り、身体装飾、芸術、宗教)』を挙げておられます。

石器や土器を使う、火を使うというのは、ヒト以前の人類も保有していた能力との事ですので、ヒトの特徴は、煎じ詰めれば『脳』にあると言えます。

今後ヒトが、どれだけヒトの脳を解明できるかが、あらゆる分野に影響を与えますが、学者の中には、『ヒトはヒトの脳を解明できる能力を持たない(ダイクストラ)』と言う人も居ますので、梅爺の興味は尽きません。

| | コメント (0)

2007年4月 5日 (木)

横浜フォーラム

梅爺の、大学時代の男声合唱団の仲間の一人であるMさんが、大手化学会社にお勤めのころから始められた『横浜フォーラム』という、私的な懇親会があり、梅爺も前の会社の現役時代から、メンバーの一人に加えていただいています。最初は、化学業界各社の知り合いの方々で始められたようですが、今では、金融、自動車、電機、商社など畑で、活躍された方々も加わり、文字通り『業際的』な集まりになっています。メンバーは、平均して梅爺の年代の方々ですので、多くは、現役を引退されておられますが、中には、今もバリバリ働いておられる方もいらっしゃいます。

『横浜』という名称は、始められたころの名残で、今は、毎月1回、東京都心で夕刻、約2時間半、食べながら、飲みながら、講演を聴いたり、議論をするという、梅爺には、えてして狭くなりがちな視野を広げていただける、ありがたい会合です。平均20人前後の方々が、出席されます。

毎回、原則として『講師』の方のお話を拝聴し、その後、皆で議論すると言う形式で進められます。『講師』は、外部からお招きする場合と、メンバーの一人が務める場合があり、梅爺も過去に2回ほど、『IT関連の話』をしました。

とにかく、好奇心旺盛で、活発なメンバーが多いため、講師がお話している最中でも、質問が飛び出すことも稀ではありません。話題が、化学業界の話になると、梅爺が苦手の、亀の甲羅の化学式などが登場するために、梅爺はその時だけは、借りてきた猫のようにおとなしくならざるをえません。

こういう、素晴らしい会合を企画、継続することは、並大抵な努力ではなく、Mさんには、毎回会場の手配、講師の手配などでお骨折りいただき、頭がさがります。その上、毎回会の最後に、Mさんは、講師の名前の頭文字を読み込んだ、短歌をご披露され、これがまた、講師のお人柄や業績を見事に表現しているものなので、その才能にも感服してしまいます。

人は、歳をとると、つい出不精になり、他人と会うことも億劫になって、自分の世界に引きこもりがちになりますが、Mさんのお陰で、梅爺は、自分とは全く異なった分野を歩かれてこられた方々のお話をうかがうことで、毎月、新しい窓から違った世界を覗みるような体験ができ、感謝の他ありません。

| | コメント (0)

2007年4月 4日 (水)

律義者の子沢山

江戸いろはカルタの『り』、『律義者の子沢山』の話です。

『律義者』は、義理堅く真面目な人、正直な人のことで、広辞苑には、『律義者は家庭生活が真面目で品行が正しいから子供が多い』とあります。この説明は、中間の因果関係が略されていますので、『雨が降れば桶屋が儲かる』と同様に、論理の飛躍がありますが、その中間の論理は大抵の人には凡その見当がつきますので、『ウフフ』と笑うことになります。

江戸時代、『律義者』という言葉には、正当な解釈の他に、『ばか正直』『要領の悪い奴』という、裏の意味が含まれていたのかどうか梅爺は、勉強不足で知りません。

植木等が演じた『無責任男』のモットーは、『人生で大切なのは、タイミングにC調に無責任』ですから、『律義者』は、『こつこつやる奴ぁ、ごくろうさん』と切り捨てられています。梅爺のように、60年以上生きてきた者には、『こつこつやる人』が人生の勝利者であることは、体験的に分かっていますので、作詞家の青島幸男氏も、先刻それを承知の上で、裏返しのユーモアで、このように表現したのであろうと、またこの歌を聴いている人も、そのくらいのことは分かっているのだろうと考えていました。

しかし、最近のニュースには、本気で『人生で大切なのは、タイミングとC調と無責任』だと思い込んでいるのではないかと思われるような人が登場しますので、少し自信がぐらついています。

現在の日本社会が抱える問題の一つが『少子化』ですので、いろはカルタが正しいとすれば、日本人の多くが『律義者』でなくなったことになります。

若い世代が、将来に夢が持てないからとか、経済的に余裕がないからとか、理由が述べられています。それもあるかもしれませんが、『自分中心の価値観』になりすぎているためではないかと、梅爺は考えています。どういうわけか、『自分中心の価値観』が強い人からは、他人を魅了する笑顔が期待できないとも感じています。

子供が、何者にも、どんな苦労にも代えがたいほど親の心を豊かにしてくれるものとは受け止めずに、出産で苦しい思いをするのはイヤ、子育てで、自分の時間が拘束されるのはイヤ、という『自分にとってイヤ』という価値観が重視されているのではないかと思います。

論理の飛躍がありますが、梅爺は、幼児期の感情教育が不足していることが、このような価値観の原因になっているのではないかと思います。少子化の根本対策は、幼児期に知識教育より感情教育を先行させることだというのが、梅爺の持論です。他人を魅了する笑顔の人が増えれば、日本の人口は増えると考えています。

| | コメント (0)

2007年4月 3日 (火)

あだ花ビジネス

米国のインターネット動画配信サイト『YouTube』が、素人ビデオを含む動画配信で人気を博すと同時に、『海賊版』流通の温床ともなっているため、メディア産業大手のViacomから、著作権侵害で訴えられている話は、3月17日、18日のブログで紹介しました。

『海賊版』の横行で困るのは、ハリウッドのメジャー・スタジオや大手TV局ばかりではなく、実は、インターネットの『あだ花ビジネス』とも言える『アダルト・ビデオ配信サイト』も深刻な脅威に晒されています。

謹厳実直な皆様には、眉を顰めるようなお話で恐縮ですが、インターネットの普及初期に、多くの人たちが『どうしたら儲かるビジネスができるか』と思案している時に、あざ笑うように着実な『ビジネスモデル』を確立したのがこの業界で、今でも米国では、年間1~2兆円の潜在市場規模があると言われています。

インターネットの場合ばかりではなく、ビデオテープの技術方式の勝敗を決した(VHS方式がベータ方式に勝利)のも、DVDが本格普及開始できたのも、影でこの業界が『貢献』しているという話は、業界では『常識』となっていますので、『犯罪の影に女あり』と同様、『新メディア普及の影に、あだ花ビジネス』ありということになります。

人間の基本的な欲望の一つに根ざす、このビジネスは、最初の『職業』と言われる娼婦から始まって、合法、非合法を問わず、根絶されたことがありません。基本的には、法との間で『いたちごっこ』を繰り返していますが、『公序良俗に反する』という、判定基準は、社会や時代によって異なりますからこの『いたちごっこ』は、人間が存続する限り、続くことになるのでしょう。

CNETニュースに、『あだ花ビジネスの経営者の一人が、海賊版に奇策で応じようとしている』と記事があり、現在、画像処理技術の会社に関係している梅爺は、早速読んでみました。

こういうビジネスの経営者は、『アブナイ世界のおじさん』かと思っていましたら、この人は、英国、フランスの有名大学を卒業し、最後はアメリカの大学で、エリート銀行マンを目指し、経済博士号を取得しようと勉学していた時に、『もっと手っ取り早く成功する手段』として、このビジネスに転身した人であることが分かり、驚きました。品性はともかく、頭脳レベルは高いというのは、最近日本で問題になった事件の主役と似ています。

この経営者が、『海賊版』に対抗する奇策として、思いついたのは高精細動画による『ライブ中継』でした。現在のインターネット環境で、高精細動画をライブで流すのは、簡単ではありません。この会社には、CTO(最高技術責任者)まで居て、実現のために各種ハイテクの裏技を駆使しているとの事なので、畏れ入りました。

梅爺の関係する会社の画像処理技術は、高精細な動画を、簡単に、安価に制作でき、情報量も小さいために、コンピュータや通信の環境に大きな負担をかけない画期的なものですので、この業界が注目することは避けられません。

勿論、この業界に寄与することを主目的に開発しているわけではありませんが、今までの歴史と同様、この業界が先導役となって、ビジネスの普及、成功が早まることはありえると考えています。真面目な梅爺は、『痛しかゆし』の心境です。

| | コメント (0)

2007年4月 2日 (月)

Virtual Reality

IT(情報処理技術)の世界で、『Virtual(仮想の)』という言葉が、よく使われます。『Virtual Memory』は、コンピュータに実際実装されているメモリ容量以上に、外部記憶装置を利用して、あたかもメモリが存在しているかのように見せる技術のことですし、『Virtual Computor』は、ある方式のコンピュータの中に、あたかも別の方式のコンピュータが存在する(変身する、または共存する)ように見せる技術のことです。

いずれも、有限なシステム資源を、より有効に、便利に、経済的に利用しようという発想で考え出された技術ですが、『Virtual』なものは、『Real』なものに比べて、一般的に性能が劣ることを覚悟しなければなりません。

一方、ITが、社会生活の中で、『Virtual』なものを『Real』なもので代替することを可能にし始めたために、生活だけではなく、文化や法律などにまで影響を与えていることは、『ITの本質』の一つとして、以前のブログで紹介したとおりです。

満員電車に揺られて通勤しなくても、自宅で勤務ができる、日本に居ながら外国の大学の講義を受講できる、暗い夜道の塾通いをしなくても子供が自宅で学習できる、田舎に住みながら都会の大病院の名医の診断を受けることができる、など可能性は、どんどん広がりますが、良い面ばかりではなく、これによって新たな『不具合、不都合』も発生しますので、会社の勤務規定、教育や医事に関する法律などの、見直しが必要になります。例えば、遠隔診断で『誤診』が生じた場合、責任が人(医師)にあるのかIT技術にあるのかなどなどの法的な問題につながります。

これらの例は、『遠隔の場所など異なった所に存在する、実態対象を、技術で身近なもののようにしてしまう』もので、電話で話す、大リーグの野球中継をテレビで観る、などもこれに該当します。私たちは、『便利な世の中になったものだ』と感心はしますが、特に違和感は覚えません。

ところが、『どこにも存在しないものを、あたかも身近に存在するもののようにしてしまう』ことが、技術で実現できるようになると、話はややこしくなってきます。ITの世界では、この技術を『Virtual Reality(仮想現実)』と称しています。

ITの力を借りなくても、人は、夢を見る、映画を観る、小説を読むなどで、仮想の世界を体験してきました。しかし、ITを利用した『Virtual Reality』は、人間の五感(今のところ、視覚と聴覚)に直接訴えるものですので、『より生々しい現実感』を体験できることになります。

日本には、昔から『夢か現(うつつ)か』という言葉がありますが、よほど人間がしっかり自覚していないと、『何が現実なのか』が分からなくなってしまいます。『Virtual Reality』が、娯楽の世界だけではなく、政治、教育、医療などの世界にまで応用されるようになると、『便利な世の中になったものだ』だけでは済まされないことになりかねません。

それでなくても、歳をとって『夢か現か』を、時折混同することのある梅爺にとっては、まことに頭の痛い話です。

| | コメント (0)

2007年4月 1日 (日)

少年期のキリスト(2)

人間は、五感で感ずるものは、それが『存在すること』を『信ずる』ことができますが、直接体験できないことや抽象的なことは、自分の理性で納得しないと『信じない』という、固有の習性を持っています。

信仰の道を歩む人と言えども、『聖書』や『経典』に書いてあるからというだけで、無条件に『信ずる』ことができる人は少なく、自分の理性が発する『疑念』との葛藤があるのではないかと、疑念にいつも苛まれる梅爺は、想像しています。

『Christ The Lord Out Of Egypt』の著者Anne Riceは、本の巻末にある『あとがき』で、自分の葛藤の歴史を正直に表現していて、好感がもてます。歴史小説作家の彼女は、一方において、自分が実体験していない過去を、理性でとらえよう、理性で納得できないことは排除しようと、人並み以上の探索努力をするわけですから、信仰に関して『自分の理性などというものは、神の前では取るに足らないもので、それを理由に神に疑念を抱くことは、畏れ多い』という心境に到るまでには、大変な葛藤はあったものと思います。

自分のちっぽけな理性では、不都合に見えることも、例えば、戦争で多くの人が死ぬことや、自分の息子がゲイになる(彼女の息子がゲイであることを告白しています)ことも、全てそこには『神の意図』が存在するのだと、受け容れられるようになったと書いてあります。キリストやキリスト教へ、批判的な論文の多くは、感情的に、はじめからキリストやキリスト教が『嫌い』という前提で書かれたものなので、彼女の『理性』で読んでみても、彼女の信仰を覆すような説得力のあるものは、見当たらないと、言い切っています。

禅僧が、雑念を捨てて、全てを受け容れるという心境と同じなのであろうと、梅爺は思いました。梅爺は、自分の理性が『取るに足らないレベルのもの』であることは、認めますが、残念なことに、その『取るに足らない理性』で理屈にこだわる性分からなかなか脱却できずにいます。従って、深い信仰を獲得した方々には、ただただ敬服するしかありません。

この著者には、笑われそうですが、梅爺の疑問は、『何故、歴史の中で、1世紀に、キリスト教が始まる必要があったのだろう』『何故、ユダヤである必要があったのだろう』『何故、神は人間のかたちをして現れる必要があったのだろう』『何故、神は人間に原罪(神へ背く言動)を課したのだろう』と、切がありません。

原罪の塊のような梅爺ですが、この小説の、少年キリストや彼を取り巻く家族や一族の人たちの、細やかな心理描写には、感情移入することができました。著者の、人間に対する理解が深いからなのでしょう。

| | コメント (0)

« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »