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2007年3月31日 (土)

少年期のキリスト(1)

新約聖書の記述は、成人後のキリストの伝道活動が主体で、幼児期、少年期に、キリストがどのような生活を送っていたのかについては、いくつかの『奇跡』を行った(粘土で作った雀を本物の雀に変えた、死者を蘇らせたなど)逸話しか記述されていないために、殆ど分かっていません。

キリストが、いつの時点から、自分が『ただの人間』ではないことを、自覚するようになったのか、それは、どういう経緯であったのか、家族(父ヨセフ、母マリア、腹違いの兄)は、どのようにキリストに接していたのか、などは、梅爺のような、俗人にとっても、興味の対象でした。

昨年のクリスマス・シーズンに、アメリカのアトランタ郊外に住む息子夫婦を訪ねた折に、偶然立ち寄った本屋で、『Christ The Lord Out Of Egypt(Anne Rice)』と言う本を購入し、最近読み終わりました。

特別の予備知識があったわけではなく、『少年期(7-8歳)のキリストが、避難先のエジプトから約束の地ユダヤへ帰還する』ことを題材とした小説であることを、裏表紙の宣伝文句で知り、に興味をひかれたというのが、購入動機です。

著者(Anne Rice)は、梅爺と同年輩か少し年上の米国人女性であることが分かりました。巻末に著者のあとがきや、インタビューが載っていて、彼女のキリスト教との関わりが、興味深いものであることを知りました。

彼女は、アイルランド系の米国人で、高校を卒業するまでは、家族環境から、何の疑念もなく、教会(カソリック)へ通っていましたが、大学に入ってからは、友達や後に結婚する相手(筋金入りの無神論者)の影響を受けて、キリスト教との関係を絶ってしまいました。

しかし、彼女は1998年に、再びカソリック信者となりました。万物が神の支配下にあること、『愛(キリストへの愛、神の愛)』が人を高める根源であることを、永い精神遍歴の末に、信ずるようになったと述べています。

彼女は、1974年から、史実を背景とした小説を書き始めましたが、どの小説でも、時代背景、歴史考証を重んずる姿勢を貫いてきました。従って、この小説を書くに当たっても、梅爺には気が遠くなるような、資料を彼女は読破しています。勿論、キリストやキリスト教を肯定する資料・論文から、否定する資料・論文までが含まれています。

キリストが生まれた時に、『真のユダヤの王』がベツレヘムで生まれたとの情報がヘロデ王の耳に入り、ヘロデ王は、ベツレヘムの2歳以下の男児を全て虐殺したとされていますが、キリスト一家および一族は、難を逃れて、エジプトのアレキサンドリア(ローマ帝国支配の大都市)に移り住みました。

キリストが、7歳の時に、ヘロデ王が亡くなり、キリスト一家および一族は、ユダヤ人にとって約束の地である、ユダヤ(一族の故郷ナザレ村)へ帰還することになります。

この小説は、この期間(キリスト7-8歳)を題材としています。著者は、聖書の書かれている内容を、曲げたり、変えたりせずに、一族が全て、ユダヤの神ヤーウェを深く信仰する信心深い人たちとして描いています。

この小説では、少年キリストは、自分の中にある種の超能力があることに徐々に気づき、自分の出生の秘密を知ろうとするのですが、父ヨセフも、母マリアも、『お前が大人になった時に話す』と言って、質問することさえも禁止します。しかし、色々な事件や、他の登場人物との関係の中で、キリストは8歳の時に、ついに『真実』を知り、そこでこの小説は終わっています。

勿論、本当はどうであったかは、分かりませんが、綿密な時代背景の描写から、『こうであったかもしれない』と読者を納得させるだけのものがあるために、あらゆる宗派のキリスト教信者から、この本は『歓迎』されています。

キリストおよびキリスト教に対して、毀誉褒貶、諸説が横行する中で、更に新説を期待する読者は、物足りないかもしれませんが、梅爺は、当時のアレキサンドリア、エルサレム、ナザレで展開される話を身近に感じ、『まともなもの』をよんだという読後の満足感がありました。

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2007年3月30日 (金)

不確実性の時代

ガルブレイスの『不確実性の時代』は、情報社会や21世紀を予言したものではなく、『不確実』の持つ意味や、結果的に人間が選択、対応した結果が、社会に従来よりも大きな影響を与える時代になったと言っているのであろうと梅爺は考えています。

人間は、原始社会から、いつの時代も不確実性が支配する環境の中で、自分の意思や、社会の規範(コード)に従い、白か黒を選択、行動してきたわけですが、その結果が及ぼす影響が小さかったり、ある程度狭い範囲に止まっていたりしたために、地球規模の問題にはならなかったと言えるのではないでしょうか。

しかし、現代では、中国の公害が、日本に酸性雨を降らせ、中国の株の暴落が、即座に日本の株も暴落させますので、不確実なものへの対応影響力が、中国だけに止まらず、地球規模になりました。つまり、人類にとって『不確実性』の持つ意味が、大きくなったということなのでしょう。

このことは、梅爺が2月に、3回に分けて書いた『パラドックス』の中で、21世紀は、パラドックスが顕著になると言ったことと同じです。

『あいつはデジタル人間だ』といって、相手の単純性を非難したり、『自分はアナログ人間だ』といって、自分の思慮深さを自慢したりしますが、人間は誰も『思考はアナログ、決断はデジタル』でないと、社会生活は送れないという、一種のパラドックスを背負って生きています。

複雑に連動する社会の舵取りに必要な、複雑なしくみの詳細を全て理解している個人が一人もいない、というのも、現代のパラドックスですが、だからと言って、存在しない『スーパーマン』を求めたり、でっちあげたりするのは、もっと危険です。

不確実な環境を肯定するからこそ、社会や組織のリーダーには、『洞察力』『実践力(行動力)』『人徳』という、岡崎嘉平太氏に関するブログで、書いた3つの要素が求められます。しかし、この3つの要素を持った人でさえも、神様ではありませんので、時に過ちを犯します。周囲がその過ちを許容するかどうかは、『人徳』にかかっていると梅爺は考えています。

都知事選挙で、選挙民が各候補の掲げるマニフェストを、詳細に比較検討したり、東京オリンピックの開催の是非を考えたりすることも、重要であろうとは思いますが、それよりも、どの候補が、最も『洞察力』『実践力(行動力)』『人徳』をバランスよく備えているかを、見極めることが大切なのではないでしょうか。

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2007年3月29日 (木)

日本一の無責任男

植木等氏の訃報が報じられました。文字どおり彼を主人公にした『無責任』な歌や映画が流行したのは、梅爺が大学を卒業する前後のことであったように記憶しています。当時、無けなしの小遣いをはたいて、友達と一緒に映画を観にいき、笑い転げていました。

『金の無い奴ぁ、俺んところへ来い、俺も無いけど心配すんな。・・・その内何とかなるだろう』

破天荒なナンセンスは、人間の『遊び心』の一つであろうと思いますので、梅爺は『ふざけるにも程がある』と、眉をしかめたりはしません。これが『人生の真実』であるなどとは、考えないから滑稽なのでしょう。

政治家としての青島幸男氏の才覚はともあれ、上記のような歌の作詞家としての才能は群を抜いています。その時代の人たちが『求めているもの』を感じ取る才能は非凡です。

本当に『金の無い奴』が、この歌で救われたのではなく、梅爺のように『少しはお金がある奴』が、先ず、自分の安全を確認した上で、笑い転げたわけですから、青島氏の計算、術中にはまったわけです。

『無責任』とは対極に、宝塚歌劇団のモットーのように、『潔く、正しく、美しく』などと、まともなことをまともに言われると、梅爺は『So What?(それがどうした?)』と、言いたくなる悪い癖があります。本当に『潔く、正しく、美しい』人には、畏敬の念を持ちますが、人生の面白さは、それ以外にもあると、感ずるからなのでしょう。

クラシック以外は、音楽と認めないなどと言われても、同様に『So What?』と言いたくなります。梅爺は、クラシックも、ジャズも、民謡も、時に演歌でさえも、その時の気分次第で楽しんでいます。本も、ジャンルを固定せずに、面白そうなものは手当たり次第読んでいます。これで、人生の時間を浪費しているとはあまり考えず、『思わぬ出会い』に刺激を受けることの方をより楽しんでいます。

植木等氏が、お寺のご子息出身であることも、人生の面白い取り合わせだと思います。勿論、植木氏も青島氏も、娯楽市場で、ある『役目』を演じられただけで、ご本人達が『無責任』な方達だったとは思いません。

梅爺も、出しゃばっては行けない所へ、出しゃばって、後で『お呼び出ない』ことに気づくことがありますので、植木氏のギャグ『お呼びでない』は、他人事ではありません。

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2007年3月28日 (水)

塵も積もりて山となる

今回は、江戸いろはカルタの話題に戻り、『ち』の『塵も積もりて山となる』です。1月のブログ初回を、『犬も歩けば棒にあたる』で始めてしまった手前、これは最後の『ん』、『京の夢、大阪の夢』まで書き続けなければならないという、変な義務感にとらわれるようになりました。でも、途中で話題が次々に逸れて(脱線して)しまい、未だ『ち』ですから、この分で行くと、いつ、『ん』に辿り着けるのか、自分でも予測がつきません。

江戸いろはカルタは、江戸庶民の市井の知恵の塊で、処世訓というより、人間や世間を、笑い飛ばしている、上質なユーモアが、堪らなく梅爺は好きです。

しかし、『塵も積もりて山となる』は、ひねったユーモアがあまりない、江戸いろはカルタの中では、『最もまともなもの』、つまり『面白くないもの』のように感じます。同じ時代の、『尾張版』『上方版』いろはカルタの『ち』は、『地獄の沙汰も金次第』ですから、当時の日本人の中にも、『塵も積もりて山となる』では、つまらないと感じた人たちがいたのでしょう。梅爺も、軍配は『地獄の沙汰も金次第』に挙げます。

『小さなように見えることでも、繰り返していくと、大きな良い成果(時に、取り返しが付かない悪い事態)につながる』というまともな解釈以外に、別の解釈はなかなか思いつきませんが、敢えて、へそ曲がりに解釈すれば、『人には、結果の価値や恐ろしさを知らぬまま(あるいは、見て見ぬ振りをして)、色々なことを、習慣や惰性で繰り返す、浅はかなところがある』ということでしょうか。

梅爺は、今や、社会のマイノリティになった喫煙者の一人ですから、『一本吸うごとに、寿命を縮めているのが分からぬのか、この阿呆者』と言われているようにも感じます。

梅爺の今までの人生の中で、偉い人が『塵も積もりて山となる』と同じような意味で、『継続は力なり』と、得意そうに訓示を垂れる場面に何度か遭遇しましたが、へそ曲がりな梅爺は、あまり感動を覚えませんでした。というのも、そういう演説をする人に限って、あまり『継続していることがある』ようには見えなかったからです。

『そういうお前は、力になるようにと何か継続したことがあるのか?』と問われると、梅爺は答えに窮します。

『梅爺の熱中は10年周期』と、梅婆によく言われます。そう言われてみると、青梅マラソン参加は40歳から50歳まで、ゴルフは50歳から60歳までと確かに符合します。一つのことに10年熱中できるのは、永いと言えるのか、短いと言えるのか、知りませんが、『三日坊主』よりは良いだろうと、反論しています。

ブログは、継続することで『ボケ防止』になると勝手に思い込んでいるのですが、とても10年継続できるとは思えません。

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2007年3月27日 (火)

岡崎嘉平太(4)

岡崎嘉平太氏の自著『私の記録』を拝読すると、岡崎氏の『先を読む洞察力』が際立っていたことがよく分かります。日本が反共産主義のアメリカに同調し、台湾寄りの政策を掲げていた時に、『アメリカは巨大な中国市場への進出のために、中国と必ず友好関係を結ぶ日が来る。その時になって本来隣国で有利な日本が慌てても、後の祭りになる』と喝破しています。

多くの人は、将来は現状の延長にあると、考えますが、その時『将来は、現状の延長ではなりたたない』と主張することは、大変勇気が要ることで、普通は『たわごと』として、退けられるか、無視されます。

そのような四面楚歌の中で、粘り強く、一つ一つ障害を排除していくには、並外れた行動力が必要になりますが、行動力だけでは周囲は動きませんので、最後はその人の『人徳』が決め手になります。岡崎氏は、周囲が畏敬する『人徳』をお持ちであったのでしょう。『信は縦糸、愛は横糸、織り成せ人の世を美しく』を信条とされたと、お聞きするだけで、梅爺のような凡人にも、岡崎氏がどのような方であったのかが想像できます。一緒に仕事をされた方々は、同僚も、下の人も、『側にいるだけで、暖かさを感じた』のではないでしょうか。

『洞察力』『実行力』『人徳』を併せ持つ人物は稀有で、先日のNHKの放送をご覧になった多くの方が、『今、日本に岡崎嘉平太が欲しい』とおっしゃるのは、良く理解できます。

終戦の直前と直後、中国で、時に金融畑の民間人として、時に日本政府に請われて官僚として、難題に対応された様子が『私の記録』に沢山記載されています。80歳近辺になって、30年前のことを記述するのは、記憶が怪しくて難しいなどとおっしゃりながら、実は、簡潔で説得力に富む文章を綴られています。そして、お人柄を表すユーモアも含まれています。梅爺には、仮に80歳まで生きていたとしても、とてもこのような真似はできそうにありません。

難問を解決するために、岡崎氏が提示した解決策の多くは、一見『中国を利する』ように見えるものが多く、日本政府、日本軍部と、心ならずも対立することになり、文字通り命の危険を感ずる事態にも遭遇するのですが、『明るく、豪胆』に対応されておられます。結果は、いずれも岡崎氏の案が『実は日本のためになる』ものであることが、後日判明しています。戦後、中国政府が『経済戦犯』として岡崎氏をリストに挙げたということをお聞きになって、『中国の牢屋に入ったら、時間をもてあますだろうから、できるだけ難しい本を持っていって勉強しよう』と『資本論』を身支度の荷物に加え、いつ拘留されても良いように、玄関においておいたと書いておられます。更に、拘留されなかったので、『資本論』を勉強する機会を逸した、とも書いておられます。

この豪快さ、このユーモアだけでも、並みの『人徳』のお方ではないことが分かります。『洞察力』『行動力』『人徳』の3点セットを勉強されたい方は、『私の記録』をお読みになることをお薦めします。

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2007年3月26日 (月)

岡崎嘉平太(3)

3月19日に放送された、岡崎嘉平太氏の日中国交回復への並々ならぬ努力に関するNHKのドキュメンタリー番組『ラストメッセージ』を観て感動し、偶然にも昨年無くなった畏友Wさんの奥様が、故岡崎嘉平太氏のご令嬢である縁もあって、3月20日と21日の2回に分けて、梅爺は拙文をブログに掲載しました。インターネットで検索してみると、梅爺の他にも沢山の方々が、番組を視聴した後の感動をブログに書いておられることが分かり、反響の大きさを再認識しました。

梅爺のブログに対し、早速、Wさんの奥様から、懇切なメールの返信を頂戴し、更に、参考にと電子ブックで読める岡崎嘉平太氏の著書『私の記録・・飛雪、春の到るを迎う』のご紹介をいただきました。奥様は『読んで私にメールを書かねばならぬなどのお気遣いはなさいませんように』とおっしゃってくださいましたが、梅爺は、自分の衝動に駆られてこのブログを書いています。

NHKの番組をご覧になって、多くの方々が感動されている要因は、以下の三つにあるように思います。

(1) 日中国交回復の基盤を作られた事実

(2) そのための、並々ならぬ努力のプロセス

(3) 日本の将来のために、何が必要かを洞察する能力

これらの要素は、勿論連繋していますが、人によってどの部分に感銘を受けるかの度合いが異なってきます。梅爺が最も圧倒されたのは、(3)です。

梅爺は、自分が関連してきた『IT業界』で、ビジョナリという、先見性、洞察力に富んだ人が、経営陣に加わることの重要性を、たびたびブログで書いてきましたが、岡崎嘉平太氏は、当時そういう言葉が無かったにせよ、正しくビジョナリのお一人であると思いました。

ビジョナリは、混沌に見える現状の本質を、眼から鱗が落ちるような、短い言葉で表現し、その本質から、次になすべきことを発想します。

『信は縦糸、愛は横糸、織り成せ人の世を美しく』は、波乱万丈の人生を歩まれた岡崎氏の、処世の本質を集約した言葉です。岡崎氏がビジョナリであることが、この言葉だけからもわかります。岡崎氏の『私の記録』を読むと、日中国交回復は、沢山の業績のひとつに過ぎないことが分かりますが、何よりも一貫した物事の観かた、そして苦境の中でも、物事をポジティブにとらえる度量に圧倒されます。

81歳の時に書かれた序文の中で、岡崎氏は、昔のことを書こうとすると、本当は、岡崎氏すら知らない多くの方々の努力の結集のおかげなのに、自分ひとりの手柄話になりがちで、気が進まないと書いておられます。また、物事は必ず2面性があって、自分がある面を主張することで、もう一つの面に重きを置く人たちに不快感をあたえることになり、『筆を持つ手が震える』と書いておられます。

これだけで、梅爺は、感動し、一度もお会いしたことがない岡崎氏ではありますが、先生の前でかしこまる生徒の気持ちになりました。

『私の記録』に関しては、いずれまた書こうと思います。

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2007年3月25日 (日)

男は火星人、女は金星人(4)

本がベストセラーになる要因の一つが、タイトルで、この本の場合は、ギリシャ神話のMars(軍神)とVenus(女神)を、男女の象徴の掛け言葉として使用しているところがシャレています。米国の新聞や雑誌の見出しでは、日本のスポーツ新聞のような、読者の低俗性に媚びるようなダジャレではなく、このようなシャレた表現がよく使われ、編集者や記者が、自らのの教養を競って主張するところがあり、ジャーナリズムの文化の差を感じます。

『男は火星人、女は金星人』の中では、ある行為に対する男女の価値観の違いが指摘されています。例えば、夫が妻に高価なダイヤモンドを買って、プレゼントした場合、夫は、その価格の度合いが、『愛の証の高さ』に比例すると考え、高価なものであればあるほど、これで、当分夫婦仲は安泰(例えば1万点くらいの得点を稼いだ)と思い込み勝ちですが、妻の価値観では、これは、なんと、ただの1点に過ぎないというのです。つまり、夫が妻に代わってゴミ出しをするのも1点、食後に皿洗いを手伝うのも1点で、夫婦間の行為の『価値』としては、ダイヤモンドは、特別のものではないと書いてあります。

宝石や高価なブランド装飾品に、うっとり見とれている女性を見ていると、俄かには信じがたい話ですが、『夫婦間の行為の価値』と言う点では、そういうことになると言われると、ガックリしてしまいます。

賢い夫は、別にお金を使わず、毎日『I love You』や『Hug & Kiss』を繰り返し、ゴミだしや皿洗いを手伝って、着々と得点を重ねているのに対し、仕事やゴルフで家に居つかない、夫は、後ろめたさを償うために、高価なプレゼントを買って、実は、ほとんど得点を稼いでいない愚を犯しているということになります。

この本には、何が『1点』かという、具体的な行為のリストが親切にもついていました。『心の中で感謝している』などという抽象的なことでは、どうも得点にはならないようです。米国と日本の事情の違いがあるにせよ、梅爺は、日常的にほとんど得点していないことが分かりました。

妻の評価システムの恐ろしいところは、夫の心無い行為や言葉で、今までせっかく貯めてきた得点が、一挙にゼロに戻ることや、最悪の場合、マイナス評価にもなることもあり得るということでした。

この本の内容が正しいとすれば、梅爺は、明らかに『落第生』の夫なので、ため息をつきながら読んだことを思い出しました。

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2007年3月24日 (土)

男は火星人、女は金星人(3)

前回は、男女のトラブル対応の違いについて書きました。男が問題を自分一人で解決しようとする背景には『自尊心』があります。この男の自尊心は中々厄介で、これが傷つけられると、臍が曲がってしまいがちです。

どうでも良いようなことでも、男が自分で決めたことを、他人から批判されると、ムッとしてしまいます。梅爺が運転して、梅婆とスーパーマーケットへ買い物へ行った時に、梅爺が駐車場のスペースに車を止めると、梅婆が『どうして、もっと入り口に近いところへとめないの?』と言うことがあり、『歩いてたった10mか20mの違いだろう』と、こんな些細なことでも、梅爺は、むきになって反論することが、確かにあります。

『男は火星人、女は金星人』の著者は、妻は、夫の決めたことが、我慢できる程度のことであったら、夫婦円満のために『黙っていなさい』と言っています。そして、どうしても頼みたいことがあったら、『Would you do it?』『Could you do it?』(こうしていただけますか?)と言いなさい、間違っても『Should you do it?』(こうすべきではないの?)などと言ってはいけませんとも言っています。梅爺は、学校でwould 、could、 should の一般的な用法は習いましたが、こんな実用的な差異があるのかと、大変勉強になりました。

男女の機微を見事に表現できる作家は、男であれ、女であれ、『男は火星人、女は金星人』の内容のようなことは、読まなくても直感的に理解できているのでしょう。梅爺は、田辺聖子さんのユーモアに富んだエッセイは好きです。『しょうもない男』も田辺聖子さんの筆にかかると『愛すべき男』になったりしますので、『男はこういうもの』ということを直感的に理解されておられるに違いありません。

梅爺は、『負けず嫌い』『強情』なところがあって、そのために、人生で得をしたこと、損をしたことがありますが、夜、床にはいってから、『今日は、やり過ぎた、言い過ぎた』と反省することも多いので、『ただただツッパル爺さん』よりましかな、と時折自己弁護しています。

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2007年3月23日 (金)

男は火星人、女は金星人(2)

当然のことながら、上記のタイトルの本は、相互に存在を認め合っている夫婦(男女)を対象としたものです。最初から自分勝手に裏切り行為をすることを当然と考えているようなケースは、除外されます。結果的に、『裏切られた』『愛情を感じない』と、どちらかが訴えてくるケースでも、存在を認め合っていた夫婦(男女)が、そのように変貌してしまうのは、『相手が異星人』であることを知らない故の悲劇(相手の心が離れていく、本当の原因は自分が作っているとは考えていない)だと言うわけです。

火星人が、金星人に火星人のように考えるように求めたり、逆に、金星人が、火星人に金星人のように考えるように求めても、うまくはいかないので、むしろ相手が自分とは違う異星人だと認めてしまった方が、うまくいきますよ、とこの本は繰り返し説いています。

男女の差異が顕著に現れるケースは、『個人的にトラブル(夫婦間のトラブルではない)に遭遇した場合』であると書かれています。夫(火星人)は、トラブルを自分一人で解決しようとする習性があるため、食事の後、そそくさと書斎に引きこもったりします。この時、妻(金星人)は、心配して書斎まで追いかけ、『どうしたの、何があったの、顔色が悪いわね』と詰問しがちですが、それは逆効果で、やってはいけないと書かれています。夫と妻は、ゴムひもで結ばれているようなものなので、妻が追いかけると、ゴムひもが弛んで、一層夫は離れていくことになると言うわけです。むしろ、夫が何かに悩んでいるように見える場合は、妻は放っておき、女友達とお茶でも飲んでいなさい、そうすれば、ゴムひもが延びきって、必ず夫は妻の下へ戻ってきますと書いてあります。つまり、自尊心が強い火星人が自分から『ヘルプ(助けて)』と言わない内は、冷たいようですが助けてはいけないということです。

一方、妻(金星人)は、自分が個人的なトラブルに遭遇すると、『自分が如何に困った状況にあるか』を周囲の人に、伝えようとする習性があります。これは、別に『具体的な解決策』を必ずしも求めているわけではないというところが厄介です。夫が疲れて外から帰ってきた時、妻がその日あった隣人とのトラブルなどを、くどくどと話すことがあり、夫は、つい面倒になって、『そんなに嫌なら、付き合わないようにしたらどうだ』などと、『論理的な解決策』を提示しがちですが、それはやってはいけないと書いてあります。妻は、『それは大変だったね』と状況を認めてもらうだけで、悩みが半減するというのです。英語の『ウフン』『アハン』という相槌の表現は、こういう時のためにあるので、夫は、ただ『ウフン』『アハン』と言っていればよいというわけです。

確かに、梅爺も、梅婆には関係なく、言ってみても仕方が無いと思う悩み事は、自分だけで解決しようとしますし、梅婆が、梅爺には関心がないことを、くどくど説明している時には、『ウフン』『アハン』さえも言わずに、上の空で聞き流していて、『ちゃんと聞いているの?』と、梅婆から叱られることがよくありますから、なるほど、そう言われてみるとそうだなと、納得しました。

こういう異星人であることで生ずる齟齬を、『愛情の欠如』と勘違いして、問題がこじれていくケースが多いというのが、著者の主張であることを理解しました。

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2007年3月22日 (木)

男は火星人、女は金星人(1)

10年以上前の話になりますが、梅爺はアメリカのコンピュータ会社の社長と食事ををしながら雑談をしている時に、『今、アメリカで「男は火星人、女は金星人(Mens Are From Mars, Women are From Venus)」という本がベストセラーになっていて、これが滅法面白いから、あなたに送ってあげるよ』と言われました。どうも内容は、『男女は本質的に異星人同士のようなもので、相手を理解することが困難』というようなことを説いた本であるらしいことが分かりました。その社長は、当時離婚をして、かなり若い女性と再婚したばかりでしたので、本人には切実な問題であったのでしょう。

約束とおり送られてきた本は、John Grayという、離婚カウンセラーが、2千件ほどの離婚事例に接して得た体験を書いたもので、想像とおりに、『男女は相手が異星人であることを認識しなさい』という内容でした。

梅爺が、当時日本のお客様との雑談の中で、この本の概要の話をすると、仕事やゴルフの話よりも、必ずと言ってよいほど、『場が盛り上がる』ことに気づきました。結婚している人たちは、何かしら『思い当たること』があったのでしょう。

勿論、血液型と性格の関係同様、男女が相互に異星人であるというような科学的根拠はありませんが、『言われてみると、なるほど』と思うことが多く、ベストセラーになるのも無理からぬと、感じました。

本の中に、『夫が妻にしては(言っては)いけないこと、妻が夫にしては(言っては)いけないこと』というチェックリストがあり、梅爺と梅婆が試しにチェックしてみましたら、双方とも、『してはいけない(言ってはいけない)』ことの大半を『している(言っている)』ことが判明し、苦笑いしてしまいました。この本の著者からみれば、こんな梅爺、梅婆が一緒に生活していることは、『奇跡』に近いと思うに違いありません。

この本によると、トラブルに遭遇した時に、男女の対応が基本的に異なることを知るべきだと言うのが第一点で、第2点は、行為の評価基準が異なることを知るべきだということでした。

これらのポイントの概要を説明したいのですが、長くなりますので、次回に回します。ここまで読んで、既に『胸騒ぎがする』方は、是非次回以降をお読みになることをお勧めします。

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2007年3月21日 (水)

岡崎嘉平太(2)

歴史の中で、丁度良いタイミングで、二人の偉人が出会い、大きな歴史を作り出す事例は、江戸城無血開城の西郷隆盛と勝海舟の関係など、沢山事例があります。NHKのドキュメンタリー番組を観ていて、中国の周恩来首相と日本の岡崎嘉平太氏の出会いは、正しくそれに当たると思いました。

最初の出会いの時に、周恩来は、眼光鋭く、『自分は、日本を恨む気持ちがあるが、千年以上に及ぶ両国の良好な関係を考えて、最近の数十年の不幸な関係にこだわらないように努力している』とのべ、『岡崎さんはどう思われますか』と質問をしました。岡崎嘉平太氏は、咄嗟に中国の故事『刎頚の友』を例に挙げ、これに応えました。この短い時間の中で、二人は、相手の表情、信条、教養などを全て推し量り、相手が信頼できる人間であることを、感じ取りました。

その後、民間人でありながら、日中国交回復の土台作りに、文字どおり命がけで(右翼からの脅迫を受けながら)奔走する岡崎嘉平太氏を、周恩来首相は、中国側から支え続けました。そして、田中首相が訪中し、歴史的な調印式が行われる運びになったのですが、その日本訪中団のメンバに岡崎氏の名前が無いことに気づいた、周恩来は、調印式の二日前に岡崎氏を北京に招き、宴席を設けて、個人的に岡崎氏の功績を称えました。この時の言葉が『水を飲むときには、井戸を掘った人に感謝する』という、あの言葉でした。

岡崎氏は、生涯100回中国を訪問し、『知ると言うことも大切だが、好きになることがもっと重要』と述べておられます。また周恩来首相の訃報に接した時には、食事がのどを通らないほどに、悲しまれたということです。国と人種を越えた心の交流には、感動せざるを得ません。

梅爺は、自分のような凡人にも、人との出会いの中で、何回もこのような交流が可能な機会があったのにもかかわらず、自分の矮小な心が、それを自ら閉ざしてきたのではないかと感じ、『大器』の素質を持っておられる方を羨ましく思いました。

岡崎嘉平太氏が、よく色紙に書かれた言葉が、『信は縦糸、愛は横糸、織り成せ人の世を美しく』であることを、知りました。梅爺は、この歳になって、『信』とか『愛』という言葉の、重みを少し理解できるようになった気がします。安倍総理がどのように考えておられるかは知りませんが、岡崎氏は、とうの昔から『美しい日本』の基盤が何であるか、理解しておられたように思います。

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2007年3月20日 (火)

岡崎嘉平太(1)

梅爺の大学時代の男声合唱団同期生の2人が、悲しいことに昨年鬼籍に入られました。その内の一人がWさんです。Wさんは、優れた航空エンジニアとして、F重工に勤務され、子会社の社長退任目前の4月に、勤務移動中の東京駅で倒れられ、そのまま帰らぬ人となりました。梅爺は、その前日の夜、都内の合唱練習でWさんと一緒でした。帰り際に双方笑顔で屈託無く『じゃぁね』と別れたばかりでしたので、呆然としました。退任後の夢を、あれこれお聞きしていましたので、神様は、なんと過酷なことを強いるのだろうと恨めしく思いました。

Wさんの奥様のご要請もあり、通夜や葬儀で、我々合唱の仲間がWさんの好まれた歌を歌って、最後のお別れをしました。祭壇に『岡崎嘉平太記念館』からのお花が飾られていましたので、奥様に関係を訊ねましたら、少しはにかまれて、お嬢さんを指差し『孫です』と答えられました。つまり、奥様は岡崎嘉平太氏のお嬢さんであることが分かりました。

Wさんご夫婦も含め、我々合唱同期生は、夫婦同伴で、数年来国内外の旅行を一緒に楽しんできた仲でしたが、その間Wさんも奥様も、そのお人柄からか、一度も岡崎嘉平太氏との関係については言及されたことがありませんでした。

葬儀の最後に、親族を代表されて、奥様がご挨拶をされました。悲しみの中にも関わらず、Wさんが倒れられた後の様子、ご自分の心境を、過不足なく、しっかりとお話になられました。その後、私たちへのお礼のメールを下さり、その見事な文章を読んで、私たちは再び感動すると同時に、奥様のファンになりました。

岡崎嘉平太氏が、日銀出身の財界人で、いくつかの会社を再建されたり、全日空の社長を務められたことは、梅爺も承知していましたが、昨日、NHKのスペシャル・ドキュメンタリー番組で、日中国交回復に民間人として、命を賭して努力された様子が放送され、梅爺は吸い込まれるようにそれを観ました。そして、Wさんの奥様の素晴らしいお人柄は、お父さん譲りなのだと、あらためて得心しました。

梅爺は、大変不勉強なことに、岡崎嘉平太氏の、周恩来首相との深い個人的な信頼関係が、日中国交回復の本当の推進力であったことを、初めて知りました。偉大な二人の人物が、テレパシーのようなもので、相手を見抜き、相互に深く尊敬し、信頼を深め、その信頼に応えるために、偉大な行動を起こすという話に、梅爺は圧倒されました。この話は、次回に書きます。

Wさんの奥様とのご縁がなければ、この放送も見落としていたかもしれません。パウロ・コエーリョが、人生では、自分の周囲の事象に、敏感でありなさいという言っていることの、意味が少し分かりました。

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2007年3月19日 (月)

日米刑事裁判の違い

合唱仲間の『爺さん論争』で、早速ホリエモン裁判判決が話題になっています。米国在住で弁護士を営んでいる仲間の一人から、日米刑事裁判の違いについて、詳しく解説するメールが届きました。

梅爺は、米国の刑事裁判シーンが現れる小説や映画は、弁護士と検事の丁々発止のやり取りが、大好きで、読んだり、観たりしてきましたが、なるほどそういうことかと、初めていくつかのことを知りました。

現状で、陪審員制度の有無は、誰でも知っていることですが、以下は、今回梅爺が始めて理解したことです。

(1) 米国では、検事側、弁護側に双方とも強制捜査権があるが、日本では、検事側にしかない。

(2) 米国では、検事側が集めた『証拠』の全てに、弁護側が眼を通す権利があるが、日本では、検事側が提示した『証拠(当然検事側に有利な証拠)』しか見ることができない。

(3) 米国では、証人の『記憶能力が確かか』『偽証していないか』が、重要な争点になるが、日本では、あまり争点にならない。

米国の友人が、例として挙げているのは、O.Jシンプソンの裁判で、白人警官が、重要な証言をし、証言の中で『自分は人種差別など、絶対にしたことが無い』と言ったのに対し、弁護側が、同じ警官が以前黒人を『ニガー』と呼んでいるのが映っているビデオを提出したために、警官は『嘘つき』ということになり、従って証言全ての信憑性が疑われて、これがO.Jシンプソン無罪の決め手になったというものでした。

日本人は、『お上は正義』と考え、検察の捜査の手が入ったことを知ると、その時点で、被告は『怪しい奴』という予断を抱きがち(他の国もそうでしょうが、日本では特に)ですから、それに加えて、上記のようなハンデを持つ弁護側は、大変不利なことになります。大体『弁護する』という言葉も、日本では『悪い奴をかばう』ととられることがあるように思います。

明治維新以降の日本政府が、『お上有利』にするために、このような裁判制度を作ったのかどうか知りませんが、『冤罪』が生じやすいのではないかと、気になります。

証人が『嘘つき』かどうかを争う、米国の方法も、興味深いものです。と言うのも、人間は誰でも、多かれ少なかれ『嘘つき』の要素がありますから、日常の『嘘』を収集されて、提示されれば、殆どの証言の信憑性は疑われることになるのではないかと思ったからです。

皆さんは、自分は『嘘つきではない』という、自信がおありですか。

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2007年3月18日 (日)

旧い法律で今を裁く

法律は、作成した時点での社会的な合意であり、自然科学の法則と異なって、絶対的なものではありませんので、時代や環境の変化と共に、『修正』すべきことがあると思います。憲法は、法律というより、その国家、民族の『信条』でもありますので、簡単に書き換えることには慎重であるべきですが、それでも、時代に即さない事態は発生しますので、『何が何でも改憲反対』というのではなく、『どのような表現に変えるのか』という内容で、議論すべきであろうと考えています。

旧い法律で、今を裁くことの不都合は、色々報道されています(幼稚園児の列にわき見運転で突っ込み、4人の幼児が無くなった事件の犯人に対する求刑が、法律では最高の懲役5年になったことを、裁判官自身が求刑文のなかで不合理と示唆しているなど)が、法律が改正されない限り、『悪法も法』で適用されてしまう社会矛盾が存在することになります。この矛盾解消に迅速に対応できるかどうかは、その社会の成熟度と知恵が鍵を握るのではないでしょうか。

昨日、ブログで書いた、米国のアマチュア・ビデオ配信サイト『YouTube』を、大手のコンテンツ会社Viacom(TV局やハリウッドのパラマウントなどを配下に置く会社)が、『著作権侵害』で訴えました。

アマチュアは、自分が観たテレビ番組や、映画のコピーを『YouTube』にアップロードするために、海賊版が、インターネットで無料配信されてしまい、著作権が侵害されているという訴状内容です。

これを裁く法律は、米国で10年前の1997年に制定された『Digital Millennium Copyright Act(DMCA)』という法律で、この法律では、違法なコンテンツが掲載されたら、それに警告して掲載削除すれば、サービスプロバイダは免責されることになっています。

情報社会の10年は、従来の10年とは比較できないほどの変化が内包されています。1997年当時、世界のインターネットは1900万人程度でしたが、今では11億人を超えています。当時、技術的な制約もあり、現在のように、アマチュアが自分のビデオをインターネットで公開するなどという状況は、予測されていませんでした。

『YouTube』は、ビデオ公開する人たちに、『警告』を出して、見つかり次第違法コンテンツは削除し、更に10分以上の長いビデオは掲載されないようにするなど、サービスプロバイダとしての義務は果たしている、と主張していますが、現実に対象となるコンテンツが膨大な数なので、『海賊版』の全てが削除できているわけではありません。訴えたViacom側は、当然YouTubeが、義務を果たしていないという主張で、対立しています。

米国の裁判所が、旧い法律で、今をどう裁くのか、関係者が注目しています。多くの善良な、投稿者や視聴者が楽しんでいる『YouTube』が、裁判に負けて多大な罰金でビジネスが成り立たなくなる事態も考えられるからです。

人類の歴史の中で、10年前を法律的に見て『旧い』と言わなければならないような時代は、以前には存在しませんでした。これも『IT』が人類社会にもたらしたインパクトの一つです。

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2007年3月17日 (土)

動画配信

梅爺が現在関わっている会社の主な仕事が、画像処理に関する技術(複数の静止画像から擬似動画を作る、動画像を現在の標準技術以上にデジタル圧縮する)なので、『動画配信(放送、インターネット、携帯電話)』の市場動向については、情報を見落とさないように気をつけています。

2月5日のブログ『静止画と動画』で書いたように、人間が眼と耳と脳で普段処理している映像は、立体音響つきのカラー動画像なので、この解像度に近い質であればあるほど、『自然に近いもの』と感ずる習性をもっています。技術やコストの制約から、モノクロ、静止画、モノラルなどという表現で妥協してきましたが、技術の進化で、立体音響つきの高解像度カラー動画が、当たり前のものとして利用できる環境が整いつつあります。

まだ、少々高価ではありますが、ハイビジョンTV、ハイビジョン画像撮影可能なデジタル・ハンディ・ビデオカメラ、ハイビジョン再生可能なPCなどが誰でも入手可能な状態になりました。

従来は、一部の嗜好家を除いて、多くの人たちは、高画質な動画映像はTVや映画の世界のプロが制作した『コンテンツ』を、受身で観るものと考えていましたが、上記の技術、市場環境の変化で、誰でも高画質な動画コンテンツを自分で制作できることになりました。

こうして誕生した数多くの『アマチュア・動画クリエーター』は、当然自分の作品(コンテンツ)を『公開』したいと思うようになります。これをビジネス・チャンスととらえた、米国のインターネット・ビデオ配信サイト『YouTube』が破竹の勢いで成長し、これを検索ポータルで有名な『Google』が買収して、『YouTube』は更に著名になりました。現在、毎日65万人もの人が『自分の動画作品』を、『YouTube』にアップロードしているとも言われています。

こうなると、中にはアマチュアが作った作品でも、プロの作品を凌駕するものが現れますので、視聴者は、TVよりもインターネットで動画を視聴する時間が増えて、米国のTV業界およびプロのクリエータは、試練の時を迎えています。梅爺は、こういう環境でアマチュアとプロが研鑽しながら、動画文化のレベルを向上させていくことは、好ましいことと考えていますし、本物のプロは、この中でもプロとして生き残っていくであろうと考えています。

動画配信に必要な速い通信回線環境は、日本では整っていますが、動画は、文字や静止画に比べると、多大な情報量で構成されますので、動画配信サービスを行おうとすると、裏側のサーバには、膨大な記憶装置の設置が必要になり、ビジネスとしてこの投資が見合うものかどうかが問題になります。米国の『Google』は、広告との連動で、この課題を克服しようとしています。

近い将来、日本でも、『ビデオ・ブログ』『ビデオ・個人ホームページ』が、当たり前になると思います。最初は、玉石混交のコンテンツが氾濫して、一部は社会的な顰蹙を買うようなことも予想されますが、そのうちに、規律が確立し、新しい『映像文化』の時代が到来するものと梅爺は予測しています。

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2007年3月16日 (金)

経営と予測(2)

情報処理の分野で、『偉大な技術予測』の例では、40年前にインテルのゴードン・ムーアが、半導体の技術進化を予測したいわゆる『ムーアの法則』があります。ご承知のように、『18ケ月で、半導体の素子間距離が半分になる(集積密度が4倍になる)』という法則ですが、ムーア自身の当初の予測は『12ケ月で』で、その後『24ケ月で』に修正しています。現状の『18ケ月で』は、その後の実態に合わせて、別の人(カルテックのミード教授)が更に修正したものですが、『ムーアの法則』の名前は変わっていません。激変する半導体技術分野で、40年色あせない『法則』は、驚くべきものです。

『ムーアの法則』が成り立たなくなるのはいつか、について過去にも様々な『予測』がなされましたが、新しい問題解決の技術が出現して、現状ではまだ成り立っています。2010年ごろに、頭打ちになるという予測が現状では有力のようですが、また新技術が出現して、先に延びるかもしれません。

『技術』は事業成功の必要条件ですが、良い技術を保有することで、事業の成功が保証されるわけではないところが、経営の難しいところです。
『技術』も含め市場に影響を与える多様な要素の絡み合いを、洞察する能力が問われることになりますが、現実的な対応策は、『顧客が求めているものを自ら感じ取る能力』を研ぎすますという、よく言われている方法以外に思いつきません。

他人の言葉や、他人の予測は、あくまでも参考にしかすぎませんが、そうかと言って、自分の感覚を過信するのも危険です。

会社時代の大先輩に紹介されて、『ハーバードからの贈り物(原書タイトルはRemember Who You are)』という本を読みましたが、ここで繰り返し述べられていることは、リーダーは、謙虚に他人の意見を聴き、自らの責任で決断すべきという姿勢でした。経営と予測にも当てはまる話であろうと思います。

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2007年3月15日 (木)

経営と予測(1)

製造業者にとって、次にどのような商品を世に出すかを考えるときに『技術動向予測』は関心事です。責任を問われないかたちで、評論的に『予測』をすることは、ある程度の知識を寄せ集めれば、できることなのでよく行われてきました。
手塚治虫が『鉄腕アトム』で予測した未来が、『当たったか、当たらなかったか』などという話題は、気楽なものですが、企業が将来を賭けて行う『予測』は、対象を絞り込まなければならない、苦悩を伴います。
梅爺が務めていた会社が、一時投資をした米国ボストンのベンチャー・キャピタル会社A社とつきあった時に、投資会社と製造業会社の『予測』に対応する姿勢の違いを痛感しました。
投資会社は、ある分野で有望な技術が複数個あり、どれが将来の本命か判断が難しいときに、『ポートフォリオ』と称して、それら全部に投資をします。競馬で言えば、複数の馬の馬券を買い、どれかが当たれば良いという考え方です。しかし、製造業の場合は、研究投資や製造設備投資を考えると、複数の技術に賭ける余裕はなく、一つに絞り込む決断をしなければなりません。

少し前に、米国のCNNテレビが、21世紀後半に有望な25の技術分野というものを、有識者を集めてまとめました。勿論これは、『責任を伴わない気楽な予測』に属するものです。

1) Wireless World
2) Defense technology
3) Alternative fuel vehicles
4) Biotechnology
5) Computers
6) Lasers
7) Genomics
8) Global finance
9) Processors
10) Digital storage
11) Space
12) Fiber optics
13) Satellite TV & radio
14) DNA testing
15) Video games
16) Biometrics(生体認証)
17) Energy and water savers
18) Scanning tunneling microscopes
19) Batteries
20) E-baggage(持ち運び可能な大容量記憶装置)
21) Remote controls
22) Animal cloning
23) Manufacturing technology
24) The big picture(映画やテレビの高精細・大画面化)
25) Weather technology

これを眺めてみると、どれも常識的で、びっくりするような分野はありません。この程度のマクロな分野表現ならば、当たる確率は高いことは間違いありません。ただ、日本人が大好きな『人型ロボット』が含まれていないのは、先行する日本への僻みなのか、今世紀中の実用化は難しいと見る米国の見識なのか、興味を惹かれました。

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2007年3月14日 (水)

年寄りの冷や水

久しぶりに、江戸いろはカルタに戻って、『と』の『年寄りの冷や水』の話です。冷や水を飲むのは、年寄りの身体に悪いという意味から、多分『身の程をわきまえて、無謀なことはしてはいけない』という教訓か、『身の程もわきまえず、人は無謀なことをするもの』と皮肉っているのでしょう。

梅爺も、昨年11月、ある夫婦同伴のパーティで、お酒を呑みすぎ、一瞬気を失い、救急車のご厄介になったばかりなので、『年寄りの冷や水』ならぬ『年寄りの暴飲』と読み替えて、畏れ入っています。呑みすぎは、パーティの楽しい雰囲気につられてということもありましたが、その1週間ほど前に、健康診断の結果が出て、『異常なし』であったことに気を良くしての、正しく『身の程をわきまえぬ、根拠の無い自信過剰』が原因でした。幸い、精密検査の結果『単なる呑みすぎ』らしいということで、2時間ほどで、病院を放免になりましたが、沢山の方にご迷惑をおかけしてしまったことに恐縮し、それ以降酒量には気をつけています。

話は変わりますが、趣味で参加している男声合唱の仲間の先輩から、『歳をとったら、老化、ボケの進行を遅らせるために、三つの「かく」を心がけなさい』と忠告を受けました。三つの「かく」とは、『文字を書く』『汗をかく』『恥をかく』とのことでした。

『文字を書く』は、脳を使いなさいということでしょう。梅爺は、職業柄、筆記具で紙に文字を書く代わりに、パソコンで、文章や資料を作る生活に慣れてしまったために、実際に紙に文字を書く能力が、めっきり衰えてしまっています。普段は、パソコンの『自動変換』に頼っているため、いざ紙に書こうとすると、簡単な漢字を思い出すのに苦労することがあります。本当は、筆記具で紙に文章を綴るというのが、脳活性化には一番良いことなのでしょう。

『汗をかく』は、身体を動かしなさいということでしょう。梅爺は、できるだけ歩くこと(犬の散歩も含め)くらいしか、実行していませんので、胸を張って『大いに汗をかいています』とは言えません。一昨年、思い立って『健康用の据え置き型エアロバイク』を購入しましたが、長続きせず、家の中で飾り物になってしまっています。意を決して再挑戦したいとは思いますが、なかなか『意を決する』ことができないでグズグズしています。

『恥をかく』は、尻込みせずに、新しいことに挑戦する気概を持ち続けなさいということでしょう。でしゃばる年寄りは、一般には鼻つまみにされますので、つい引っ込み思案になりがちですが、『恥をかく』が最も、精神的に若さを保つ上では重要なことかもしれません。梅爺は、『ブログ』『男声コーラス』の他、出来るだけ色々な分野の方々と会って会話をすること、若い人や外国人と一緒に仕事をすることなどを心がけています。いずれも、自分の無知、至らぬ点を露呈して、『恥をかく』ことが多いので、『恥をかく』に関してだけは、かなり実行しているように思います。音楽教室に通って、ピアノかエレクトーンの練習を始めることも考えてみましたが、さすがにこれだけは、意を決しかね、実現に至っていません。

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2007年3月13日 (火)

科学

2月21日のブログで『爺さん論争』を紹介しました。大学のコーラス仲間であった人たちとのメールで意見交換を『爺さん論争』と呼んでいます。

読書家で、『爺さん論争』の仕掛け人の一人から、今回は池田清彦氏の著書『科学とオカルト』を読まれて、その梗概が、送られてきました。梅爺は、残念ながらこの本を読んでいませんので、梗概だけを読んだ感想をコメントとして送り返しました。

本を読まず、全体の文脈を理解せずに、梗概の一部だけをとらえて、批判するのは危険なことと承知の上で、それでも、以下のような考え方には同意できないとコメントしました。

『究極的には、科学に税金を注ぎ込まず、科学者という専門職をなくし、科学を純粋な趣味にしてしうのが一番良いと思う』

人間は、『何故だろう』と思うことの真因を探求したいという、本能的な欲望を有していて、哲学や科学の原点はここにあります。言葉の保有と、この真理探究欲が人間を、地球上でもっとも進んだ生物として繁栄させてきた要因ではないでしょうか。

言葉も真理探究欲も、『論理』が基盤になりますが、人間の困った一面は、自分のエゴのために、自分に都合の良い『論理』も発案できることです。正義も邪悪も、人間の『論理』で作り出されます。程度の差はあれ、誰の中にも、正義と邪悪の要因が潜んでいます。梅爺も、自分が窮地に立たされた時に、都合の良い言い訳で、自己弁護をしたことが度々あり、今考えると冷や汗が出ます。

科学の探求で、宇宙や人間のカラクリの全てが解明できるとは限りませんが、それでも、現在保有している理解以上の理解を得ようと、探求することは、人間の当然の行為に様に思います。

科学で得た知識そのものは、正邪と関係ありませんが、その知識を何の目的で利用するかという時点で、『邪悪』が表面化することがあります。アインシュタインが、『質量もエネルギーに転換できる』という理論を見出したことには、罪がありませんが、これを応用したマンハッタン計画は、『原爆』という恐ろしいものを作り出しました。

人間の『邪悪』や『無知』が、科学で得た知識を悪用し、コントロールを失って、やがては人類は滅びると杞憂する人達がおられます。ビル・ジョイは、遺伝子工学、ナノ工学、ロボット工学の研究を、即刻中止するように求めています。現状が続けば、21世紀中に人類は滅亡の危機に瀕すると予測しているからです。つまり、科学の探求で、パンドラの箱を開けてはいけないという主張です。

梅爺は、冒頭に書いたように、真理探究欲は、人間の根源的な欲望なので、理性でこれを抑えることは難しいと考えています。仮に人間が真理を探究したおかげで、滅亡するようなことがあれば、ひどい言い方ですが、それは『自業自得』ではないかと思います。勿論、叡智が働いて、そのような事態が回避されることを心から願っています。

このような、高尚な話ではなくても、人類の現在抱える深刻な課題のいくつかは、科学(技術)を利用しない限り、解決策が見つかりそうも無いこと、また、競争で有利な状況を作り出すためにも、科学レベルが重要な役目を果たすことなどの現実的な理由から、『科学を純粋な趣味にとどめよ』という主張には、同意できないと言うのが梅爺の『爺さん論争』コメントでした。

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2007年3月12日 (月)

遊んで学ぶ

昨日のブログで『遊ぶ』について書きましたら、タイミング良くCNET News に『遊びながら学ぶ』ことを議論している記事が掲載されました。

『遊ぶ』は、一般には、『働く』『学ぶ』の逆の状態を表す言葉で、限りある人生の時間を、『遊んでばかりいたら、食べていけない』『遊んでいたら、学ぶ時間が減ってもったいない』と考えられがちです。

しかし、情報社会のパラドックス的な考え方では、『遊ぶ』と『働く』『学ぶ』は対立概念ではなく、『遊ぶことと働くことの両立』『遊ぶことと学ぶことの両立』が重要な社会的意味を持つようになります。ビジネスや教育の場に、この両立の考え方を持ち込んだ人が、『成功する』可能性を秘めています。

でも、良く考えてみると、情報社会以前から、『上質な遊び』は『学び』と両立していることに気づきました。修行中の禅の坊さんは、思索しながら、きっと心は遊ばせているに違いありません。梅爺は、男声合唱に凝っていますが、歌う楽しみに加えて、普段接する機会が少ない、ドイツ語、ラテン語、フランス語などを介して異文化の一端を、作詞家、作曲家、指揮者の人生観や宗教観の一端を学ぶことが、大きな満足感になっています。先ごろ、NHKで放映された四国遍路を舞台にしたドラマも、歩いている内に、今まで気づかなかった人生の問題を学び、深く考えるようになるというのがテーマでした。

CNET News の記事は、アメリカのゲームや映画などの娯楽を製作する人達が集まったフォーラムで、関係者が、人類や地球の将来について、ゲームをしながら、映画を観ながら考えてもらうようにすべきだと論じているものでした。アル・ゴアの地球温暖化問題を扱った『不都合な真実』を、ドキュメンタリー映画にしたプロデューサーなども参加しています。

単純な細胞から、人間に進化するまでのプロセスを体験するゲーム、地球温暖化で、何が起こるかを体験するゲームなどが例として、挙げられていました。

金儲け主義の低俗な娯楽を、率先して追及してきた米国が、今頃、こんな議論しているのは、紅白歌合戦の内容にもっと教育的要素を組み込むべきだと言っているようで、苦笑させられますが、こういう『単純な活力』が米国の良いところかもしれません。

低俗な娯楽に、無理に高尚な教育的要素を組み込まなくても、多くの人は高尚な遊びの中に、学びの満足感を一度味わえば、それを求めるようになるのではないかと、梅爺は、本件に関しては、楽観的です。

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2007年3月11日 (日)

遊ぶ

梅爺が大学を卒業して、会社に入社した時の同期入社者の数は、約400人弱でした。殆どの人は、既に第一線を引退し、悠々自適な毎日を送っています。この内、消息が分かっている人たち120名ほどいて、毎年一回『同期の懇親会』を開催しています。先日その会合が開かれ、約50人が出席しました。梅爺も、昨年まで3年間、この『同期の懇親会』の幹事役を務めました。会社の同期となると、昇進のレベル差があったりして、気まずいことがあったりするものですが、この歳(65歳~67歳)になると、懐かしさの方が勝るのか、年を経るほど参加者も増え、『和気藹々』の会合になっています。

会合では、一人一人スピーチをする機会があり、多くの方が『楽しく遊んでいます』という表現で、ご自分の現状を報告されました。ゴルフ三昧や夫婦での国内外旅行三昧という羨ましい身分の方も沢山おられましたが、『大学へ入りなおして、空海の研究を続け、博士号をとられた人』、『四国遍路をされた人』『日本100名山の登頂を目指しておられる人』『東京都内の坂を全て歩くことを目指している人』『日本の有名な河川の源流まで歩くことを目指している人』『ジャズバンドで演奏を楽しんでいる人』など異色の方々もおられました。

日本語の『遊ぶ』と言う言葉は、幅広い意味を持つことをあらためて認識しました。歳をとると、『単に暇つぶしをする』と言うより、『心の満足』を求めた『遊び方』を希求するようになるのでしょう。子供の頃は、『遊んでいないで勉強しろ』と、『遊び』は罪悪のように言われましたが、歳をとると『遊び』が生きることの中心になり、主客が逆転するのも面白い話です。

ホイジンガは人間を『ホモ・ルーデンス(遊びをする人)』と規定していますが、『心の満足を求めた遊び』は、確かに、人間にしか出来ないことだと肯けます。

梅爺のブログも、『遊び』の一種ですが、本人は、『遊び』というより、少しでも脳を使うことで、ボケ防止にしたいと、真面目に考えて、真剣に取り組んでいます。

梅爺の『遊び』は、目下のところ、本を読む(面白そうなら何でも読む)ことと、歌を歌う(男声合唱団に参加)ことです。ゴルフはやめてしまいましたが、もう少し体を動かす『遊び』もやらないと、『健康的ではない』と自覚はしています。

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2007年3月10日 (土)

犬の十戒

今回は『犬の十戒』という、クスリと笑ってしまう話題です。他愛の無い話ですので、息抜きとしてお読みください。

数年前まで、近所に、ホンダの販売店があり、我が家の車がホンダ車であることから、点検などで重宝していましたが、この店が、手狭になったと見えて、少し遠方に引っ越してしまい、店舗が空き家になっていました。ところがその後工事が始まったので、今度はどんなお店が入るのだろうと興味を持っていましたら、これがなんと『Dog Cafe』という、飼い主が自慢の愛犬を伴って立ち寄ると言う、カフェ(食事・喫茶)であることが判明しました。長野に最初の店をオープンし、青梅は2番目の開店の様子です。長野で成功しているとすれば人口(犬口)の多い、西東京では、成功はまちがいないでしょう。裕福な日本ならではの、顧客層を絞り込んだ、典型的な新種ビジネスです。開店広告のチラシが我が家にも投函されましたので、読んでみましたら、飼い主の食事のほかに、犬専用の料理、美容(理容)、アロマセラピー、遊び場、ホテル施設までを備えたお店であることがわかりました。

血統犬を自慢したい飼い主が、自分もおめかしして来店する様子が想像できましたので、我が家の愛犬(雑種・駄犬)には、縁遠いお店であると判断しました。このチラシに、『犬の十戒』という箇条書きが載っていました。内容は、飼い主への十戒なので、『犬の十戒』という日本語の表現は、いかがなものかと思いますが、先ずは読んでみてください。

1. 私の一生は、10~15年位しかありません。ほんの僅かな時間でも、貴方と離れているのが辛いのです。私を飼う前に、その事を考えてください。
2. 私は、「貴方が私に望んでいる事」を理解できるようになるまで時間が必要です。
3. 私を信頼してください・・。それだけで幸せです。
4. 私を長時間叱ったり、罰として閉込めないで下さい。貴方には仕事や楽しみがあり、友達もいるでしょう・・。でも・・私には貴方だけしかいないのです。
5. 時には、私に話掛けて下さい。貴方の言葉は判らなくても、私に話掛けている貴方の声で理解しています。
6. 貴方が私のことをどんな風に扱っているのか、気付いて下さい。私は、その事を決して忘れません。
7. 私を叩く前に思い出してください。私は貴方の手の骨を簡単に噛砕く歯があるけれど、私は貴方を噛まないようにしているということを・・・。
8. 言うことを聞かない、頑固だ、怠け者だと叱る前に私がそうなる原因がないかと、貴方自身考えて下さい。
9. 私が歳をとってもどうか世話をし下さい。貴方も同じように歳をとるのですから・・。
10.   最後の旅立ちの時には、傍にいて私を見送って下さい。「見ていることが辛い」とか、「私がいないところで死なせて」なんて言わないで欲しいのです。貴方が傍にいてくれるだけで、私にはどんなことでも安らかに受け容れられます。そして・・どうか忘れないで下さい。私が貴方を愛していることを・・。

犬を飼ったことがある人なら、フンフンと肯ける話ですが、この文章の犬と飼い主の関係を、夫と妻、または妻と夫、あるいは、会社の部下と上司に置き換えて読んでみると、中々風情のある「十戒」に早変わりすることに気付きました。いかがですか。身につまされることはありませんか。

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2007年3月 9日 (金)

錬金術師

3月4日のブログ『パウロ・コエーリョ』に書いた彼の小説『錬金術師(Alchemist)』を読み終わりました。

梅爺のブログを読んでくださる方の何人かから『お前のブログの内容は難しすぎる』という批評をいただいています。ブログを始める最初に、『あるものを、見聞きした時に、単にその内容を、こういうことがありました、こういうことを知りましたと記述することを目的としないで、そのことを梅爺がどう感じたか、どう考えたかを中心に書きたい』と申し上げました。梅爺が専門としてきたITの領域のことでも、技術の解説を目的とせず、人間や人間社会に及ぼす影響を主題に書いてきました。『難しい』という批評の真意は、『表現が稚拙で、何を言っているのか分からない』というものもあろうかと思いますが、梅爺が『心象』を書こうとしているために、『内容が観念的過ぎて、理解し難い』ということではないかと、勝手に推察しています。しかし、梅爺が『梅爺流を変える』ことは難しいので、当分この流儀で続けたいと思います。恐縮ですが、お付き合いください。

ブラジル人の作家、パウロ・コエーリョは、カトリックを信仰する人ですので、『錬金術師』の背景には、キリスト教的な世界観がありますが、その上に、彼自身の『世界観』が提示されていて、この本は一言で言えば、極めて哲学的な内容です。

とは言っても、ストーリーは極めてシンプルで、スペインの羊飼いの少年(青年)が、謎の老人に出会い、夢を追いかけることの大切を教えられ、アフリカに渡って、いくつかの苦難を経験しながら、ピラミッドの麓に埋められた『財宝』を探しあてようと、旅を展開するというだけの童話のような話です。

しかし、この本が提示しているテーマは、『人は何故この世に生を受けたのか』『その人だけが実現すべきこととは何か』『自分が実現すべきことを、どのようにして自分の中に見出すのか』『実現のプロセスで障害になることは何か』『障害の一つとなる愛とは何か』など、極めて哲学的です。表面的なストーリィだけなら子供でも理解できますが、そのストーリィの中に、精緻に組み込まれた哲学的なテーマを読み取るには、ある程度の人生経験が必要のように思いました。世界中の多くの大人の読者が、この本に感銘を受けるのは、そのためでしょう。

パウロ・コエーリョの世界観は、以下のようなものであろうと梅爺は感じました。荒っぽい表現なので、間違っていあるかもしれません。

『この世に存在するもの全てのものとその存在目的(Personal Legend)は、神によってあらかじめ定められている。人は、自分のPersonal Legend が何かを認識し、実現するために、自分の周囲の事象(Omen)に敏感でなければならない。Personal Legend の実現は、人の中のより良き状態を目指すことで、愛がより良き状態を目指す原動力になる。Personal Legendが実現できたときに、人は神をより身近に感ずることができる』

梅爺の頭の中には、2月18日、19日に書いた『六根清浄』の内容がよぎりました。パウロ・コエーリョが、『禅』の思想をどれだけ理解しているのかは、分かりませんが、偉大な宗教的な思想は、類似しているということなのかもしれません。本の中に重要な役割で登場する『錬金術師』は、『禅』において修行を導く『禅師』と同じ役割を果たしていると梅爺は感じました。

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2007年3月 8日 (木)

ビル・ゲイツ上院公聴会で発言

ビル・ゲイツが3月7日に米国上院公聴会に呼ばれ、米国の競争力を維持するために、直ぐにでも実施しなければならない項目について語ったとCNET ニュース(主としてIT関連の最新ニュースを伝えるウェブサイト)が報じています。

彼の発言は、情報社会で米国が優位性を保つ原動力は『IT産業分野』での優位性を保つことという前提に立っています。公聴会で、彼は主として以下の3点を強調し、現状が続けば、近い将来米国はグローバル市場で優位性を失墜することになると警告しています。これらは、米国のハイテク企業の経営者達が一様に主張していることなので、特に目新しいことではありません。

(1) 米国人就業者の、『数学』『科学』のレベルを上げる教育システムにすること。

(2) 科学技術開発のための国家予算を増やすこと。

(3) ハイレベルのスキル・能力を持つ外国人就業者の受け入れ(ビサの発行)条件を緩和すること。

(1)は、子供の基礎学力が低下している(日本も同じ)ことと、大学も、弁護士、経営者、金融トレーダーなど、高給な職種を目指す学科に人気が集まり、理工系の人気が低下している背景があります。同じ理由で、初等、中等教育の先生になりたい人の数が減少し、質も低下して社会問題になっています。ビル・ゲイツは、先生の待遇を改善し、優秀な先生の数を増やすこと、理工系の大学(学士・修士)の卒業生の数を、現状より3万人程度増やすことなどを提言しています。一方、インドや中国は、国策として、科学技術の基礎を学んだ膨大な数の大学生を、毎年育成していますので、『人材予備軍の数』では、米国は太刀打ちできません。『米国のシリコン・バレーは、ICで、もっている』というジョークがあります。IC(インド人・中国人)とIC(半導体集積回路)の語呂合わせをしたものです。米国で働いていたインド人、中国人がビザが切れたり、母国の待遇が向上して、帰国してしまうケースが増え、米国のハイテク会社は、人材確保が難しくなってきました。

(2)は、冷戦時代は、多大な軍事目的の技術開発予算が組まれていましたが、その後、予算規模は減少傾向にあることへの警鐘です。軍事目的ではなく、人類が抱える問題解決、米国の経済優位性を維持するために、『科学技術開発予算』を増やすべきという、主張です。

(3)は、(1)と矛盾するようですが、米国で必要とする『有能な人材』の確保は、国内だけでは出来ない(現在も将来も)事情を反映したものです。一般移民の受け入れは、制約しても、有能な人材は、受け容れると言う、なりふり構わぬ主張です。情報社会では、国際的に『有能な人材』の奪い合いになります。梅爺が今関係している、日本のベンチャー企業も、ソフトウェア開発は、日本、米国、ロシアの共同開発体制をとっていますが、米国、ロシアの技術者は、大半が旧ソ連の科学者達で、梅爺などの理解が及ばない高等数学の理解能力を全員が保有しています。冷戦で、ソ連は米国に負けましたが、人材育成システムでは、圧倒的な勝利を収めていたことがわかります。

1998年に、ビル・ゲイツが上院公聴会に呼ばれた時は、独占企業を操る『悪の根源』のように、追求されましたが、今回は、手のひらを返すように、公聴会では丁重に扱われ、賛辞を受けたと、CNETは皮肉たっぷりに報じています。

日本の優位性を保持するために、日本は何をすべきか、日本の優位性は日本人だけで維持できるのかと、梅爺は考えさせられました。

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2007年3月 7日 (水)

GIIC(4)

GIIC(国際情報基盤委員会フォーラム)に約7年間関わって、梅爺は、世界各地のメンバーとの意見交換という貴重な体験ができました。その間、最も印象に残る人は、世界銀行からのメンバーで、フランス人のJ.F.Rischard氏でした。彼は、世界銀行の立場を活かして、発展途上国を訪れ、閣僚などと、直に話をする機会も多く、そこで見聞きしたことがらを、明晰な頭脳で分析して、『High Noon --20 Global Problems 20 Years To Solve Them』という本を出版しました。『High Noon』は、ゲイリー・クーパー主演の有名な西部劇(日本のタイトルは『真昼の決闘』)で、正午に行われる決闘の行方を町中が固唾を呑んで見守る状況を、20年以内に、人類を脅かす問題が解決できるかどうか、世界中が固唾を呑んで見守る様子と重ね合わせて命名したものです。

20年以内に、解決しなければならない問題には、勿論『Digital Divide』も含まれていますが、それ以外に『地球温暖化』『水不足』『テロリズム』『教育機会』『疫病』『麻薬』など、どれも難しいものが列挙されています。

Rischard氏の基本認識は、世界に問題をもたらしている要因は、二つで、一つは『人口の急激な増加』で、もう一つは『新しい世界経済のしくみ』であるというものです。

『人口の急激な増加』は、人類が今まで経験したことがない『苦痛』のみを生み出すのに対して、『新しい世界経済のしくみ』は、人類が今まで経験したことがない『苦痛』と同時に、経験したことも無い『好機』も生み出すと、鋭く指摘しています。当然『新しい世界経済のしくみ』を推進しているのは、『IT(情報処理技術)』と『経済』の革新ということになります。

20年以内に、20の問題が解決できるかどうかは、人類の叡智にかかっていますが、Rischard氏は、現状の、国際機関(国連など)、国家、企業、非営利団体は、いずれも単独では解決能力を持たず、全く新しい『世界賢人会議(色々な立場の人の代表)』のようなものを結成して、ここでの決議事項に、世界中の国家、企業、個人が従うようにする必要があると、提言しています。

世界の運命が、少数の賢人の決議に託さなければならないほど、切羽詰った状況であることは、梅爺も同感ですが、実際には、世界が滅亡に近い状況になるまで、国家や企業は、愚かしいことにエゴを主張し続け(京都議定書を大国批准しないように)、少数の賢人による世界運営は、残念ながら実現しないであろう(誰を賢人とするかという議論だけで挫折する)と悲観的に考えています。

比較的楽観的な梅爺ですので、20の問題の内、いくつかは『革新的な科学技術の出現』などで、解決できると思いますが、残りのの問題の将来については、悲観的にならざるを得ません。人類が単純に滅亡するというシナリオではなく、その時点での強者が、弱者を犠牲にして生き残るか、生き残りのための争いが元で、結果的に滅亡するという、考えたくない忌まわしいシナリオが現実にならないように、祈るばかりです。

個人的には、貴重な体験をしましたが、民間主導の非営利団体であるGIICが、いくら問題を提示してみても、具体的な解決策が見えてこないという、空しさが残る7年間でした。

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2007年3月 6日 (火)

GIIC(3)

『Digital Divide』は、国家間の問題だけではありません。先進国の中でも、企業間、個人間で発生しています。ITを、自分のアイデアで有効に使いこなそうとする『能力と意欲』を有する会社や個人と、そうでない会社や個人との間には、大きなギャップが生じます。就職に関しては、『能力と意欲』を持つ人は『売り手市場』になって、引っ張りだこになりますが、そうでない人は、低収入で単純作業の職さえ見つけることが難しくなります。このような情報社会の中では、社会一律の『失業率』の数値は、工業社会の場合の『失業率』と単純に比較することはできません。

『Digital Divide』は、ITの普及がもたらした格差ではありますが、基本的問題は、人間の『能力と意欲』の問題に帰結し、『能力と意欲』の問題は『教育』の問題に帰結します。『教育』は、全員に公平な環境を提供して、できるだけ『個人差』が生じないように配慮しますが、現実は、必ず『能力と意欲』に起因する『個人差』が生じます。全員に、公平な環境が提供されていなければ、それは『フェア』ではないと言えますが、公平な環境下で、結果的に『個人差』が生ずるのは、『教育』の責任ではありません。

『格差の解消』という言葉を、多くの方が簡単に口にしますが、自由経済の競争社会の中では、『格差(勝ち負け)』は必ず存在することを(『格差』を求めて競争しているわけですから)肯定する必要があります。問題は、公平な競争環境が提示されていなければ、それは『フェア』ではないと断ずるべきです。

情報社会によらず、その社会にどうしても適合できない人たちが、ある比率で存在しますので、この人たちを人道的に救済する方法、つまり『セーフティ・ネット』を政治は考えなければいけません。

『Digital Divide』は、その社会(国家)の情報処理基盤の整備レベルと、その社会(国家)の人たちの『能力と意欲』のレベルが、基本的な問題となり、いずれも、裕福な社会(国家)が、貧しい社会(国家)よりも有利なように、見受けられます。確かに、情報処理基盤の整備には、多大な社会投資が必要になりますので、裕福な社会が有利ですが、人間の『能力と意欲』のレベルに関しては、必ずしも裕福な社会が有利とは言い切れません。人間は、意欲さえあれば、少々の環境のハンディキャップを跳ね返す、知恵と行動力を有しているからです。歴史上偉大な人物は、必ずしも裕福な家庭出身ではありません。偉大な人物とは比較になりませんが、梅爺も、子供の頃は、好きな本を買ってもらえるような家庭環境ではありませんでしたので、学校や町の図書館に通って、本を貪り読みました。

GIICにアフリカから参加したメンバーは、自分たちにとって緊急な課題は『Digital Divide』やインターネット環境の非整備ではなく、食料の不足、飲み水の不足、衛生状態(特にエイズ問題)であり、先進国が自分の都合で『Digital Divide』を最優先課題のように論ずるのは、傲岸だと発言していました。

人間として生きるための、最低条件と、最低限の教育環境から改善を開始しなければならない状態は、『Digital Divide』を論ずるには程遠いことは確かですが、そうしている内にも『Degital Divide』は、容赦なく進行するという解決策が見えない問題に、梅爺は当惑するばかりでした。

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GIIC(2)

1998年にGIIC(国際情報基盤委員会フォーラム)の年次総会が日本で開催されることが決まり、その前年、GIICのアジア地区のコミッショナー代表であった日本のF社のNAさん(当時F社副会長)が、梅爺の勤務する会社の社長Nさんを訪ねて来られました。目的はNさんに、コミッショナー就任を要請するためです。

早速、社内で、この要請を受けるかどうかの検討が行われ、梅爺も意見を聞かれましたので、『受諾しない方が良い』と申し上げました。理由は、会社にとっては、名誉なことですが、それでなくても激務のNさんが、このような国際活動に参加し貢献することは、実質上困難で、結果的に名ばかりのコミッショナーになって、『慇懃無礼』になる恐れがあると判断したためです。

しかし、梅爺以外の人たちの意見は、『我社も、国際舞台でメジャー・リーグの一員と認められる絶好のチャンス』などというものが大半で、結果的に多数決で梅爺の意見は退けられ、『要請を受諾する』ことが決まりました。しかし、コミッショナーの社内補佐役を誰にするかという話になると、カッコイイ意見を述べた人たちは、急に逃げ腰になり、なんと『反対』を表明していた梅爺にその役目がまわってきました。

補佐役は、国際的にはシェルパと呼ばれ、総会などの前に、世界のシェルパの会合が頻繁に開催されて、全ての準備をすることになります。コミッショナーがスピーチをするような場合は、その原稿なども準備しなければなりませんので、かなりの負担になります。F社の場合は、NAさんを補佐する専門部門があって、万全の体制なのですが、梅爺の会社には、そのような部門がありませんので、梅爺が日常の実務に加えて、これを担当しなければなりません。そこで、梅爺は社長のNさんに、『補佐役として出来るだけのことはしますが、限度がありますので、コミッショナーの仕事以上の宿題などは極力背負い込まないようにご配慮いただきたい』と率直に申し上げました。Nさんは、梅爺が元々反対していたことをご存知なので、笑いながら『分かった、分かった。十分気をつけるよ』と応えてくださいました。

翌年のGIIC総会は、日本(東京)での開催であったこと、Nさんは、新コミッショナーとしてのお披露目でもあったことから、参加いただけましたが、その次の年以降の総会では、梅爺が案じたとおりに、Nさんのスケジュール優先度は、GIICに割り当てられずに(国内の実務優先)、結局、梅爺がシェルパ活動に加え、畏れ多くもコミッショナー代行で、世界の各地で開催される総会に出向くことになってしまいました。

しかし、このために、梅爺は、アイルランドやフィリピンなど、普段実務では出張しない場所を訪問する機会を得、世界の色々な方々と知り合いになることができました。そして、何よりも、『Digital Divide』について、深く考えるようになりました。

梅爺が、2005年に会社を退社した後、会社は、GIICから退会したと聞きました。新しい社長さんのお考えもあるのかと思いますが、梅爺は、自分が努力してきたことが何だったのかという寂しい気持ちと、『やっぱり、最初に案じたとおり、メッキが剥がれることになったか』という残念な気持ちを味わいました。

日本ばかりではなく、大方の世界の会社や、経営者は、このような直接会社の利益に繋がらない国際活動に理解や興味を示さないというのが実情ではないでしょうか。町内会のお祭りと違って、『お付き合い』や『見栄』で、参加をしてみても、本当に貢献する気持ちがなければ、結果は空しいことになることは明白です。

肝心な『Digital Divide』の話に、なかなか行き着きませんが、次回は本題に入ります。

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2007年3月 5日 (月)

GIIC(1)

GIICは、Global Information Infrastructure Commission の頭文字で、『世界情報基盤委員会フォーラム』と日本では呼ばれています。世界銀行の呼びかけで、先進国の大企業経営者や発展途上国の政府機関高官などがコミッショナー(メンバー)として参加する、民間主導型のNPO(非営利団体)です。1995年に最初の国際会合がニューヨークで開催され、その後毎年世界の各地で年次総会が開催されています。

1989年に、ベルリンの壁が崩壊し、イデオロギー対立が消滅した代わりに、自由経済をベースにした経済競争が激化し、当然のこととして『富める国』と『貧しい国』の格差が拡がりました。格差を助長する要因は、いくつかありますが、中でも『情報技術(IT)基盤整備』の差が大きく影響していることが問題になり、特に『情報技術基盤整備』の差で生ずる格差は『デジタル・デバイド(Digital Divide)』と呼ばれるようになりました。

Divideは、英語では元々『分水嶺』の意味ですので、ある境界線を境にして、両側は別の世界になるということですが、転じて『差別』の意味が含まれるようになりました。

GIICは、この『Digital Divide』の問題に、最初に取り組んだ国際フォーラムの一つです。同様な組織にWEF(World Economic Forum:通称ダボス会議)がありますが、ダボス会議の方は、著名人同士の意見交換の場に徹している(行動指針のようなものを特に採択しない)のに対して、GIICは、具体的な『施策』を各国へ提言しようとしました。

2月10日の『パラドックス(2)』でも書きましたが、ダボス会議のメンバーには、世界の大企業の会長、社長またはそれに準ずる人しかなれません。梅爺が当時勤務していた会社の会長Nさんは、議論する能力、英語を話す能力の双方を持ち合わせていましたので、メンバーとして存在感がありましたが、日本の企業の中には、ステータス・シンボルとしてメンバーになる経営者もおられた様です。そういう方は、英語で討論する能力が無いにもかかわらず、ダボス会議には、お供を引き連れて参加することを、毎年の恒例行事とされておられました。日本の政治家の方々も、ご自分の権威を誇示するためか、ダボス会議に参加される方が多いのですが、本当の討議に参加できる能力をお持ちの方は、非常に少ないようにお見受けしました。もし、税金で出張されておられるなら、空しい話です。

1998年にGIICの年次総会が東京で開催されたことを機に、梅爺の会社のNさんが、請われてコミッショナーになられ、梅爺はコミッショナーのシェルパ(補佐役)として、それまで考えても見なかった貴重な体験をし、時に悪戦苦闘することになりました。

この顛末は、次回以降に書くことにします。

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2007年3月 4日 (日)

パウロ・コエーリョ

知らない土地の、知らない本屋さんへ、特別の目的も無く、ブラリと立ち寄って、その時の気分で、何冊かの本を購入する、というのが、梅爺のささやかな楽しみの一つです。限りある人生の時間の中で、読める本の数は限定されますが、偶然購入した本が、素晴らしい内容であったりすると、当たりくじを引き当てたような、得な気分になって、満足感を味わえるものです。

昨年のクリスマス・シーズンに、米国アトランタ郊外に住む、息子一家を訪ねた折に、ショッピング・モールの本屋さんに立ち寄って、以下の2冊の本を購入しました。息子のお嫁さんが、その本屋のメンバー・カードを持っていたために、特別割引で、大変安く買えました。

The Alchemist (Paulo Coelho)

Christ The Lord --Out of Egypt-- (Anne Rice)

2冊とも、短時間に書棚を見回って、思いつきで購入した小説ですので、タイトルや著者に関する予備知識は、全く持ち合わせていませんでした。

The Alchemist(錬金術師)は、『何十年に1冊出現するかしないかという、読者の人生を一変してしまう本』という裏表紙の宣伝文句につられ、Christ The Lord は、7歳のキリストが、家族と一緒にエジプトからエルサレムへ旅するという、主題(聖書には、生誕に関するエピソードだけで、幼いキリストがどのような環境で育ったのかについてはほとんど記載されていません)に興味を惹かれて、購入しました。

The Alchemist の方を、今読み始めたところですが、著者自らが書いたIntroduction を読んだだけで、『大当たり』を予感できました。ブラジル人の著者パウロ・コエーリョが、世界的に有名な作家であり、この本も『錬金術師』というタイトルで日本語に翻訳され、文庫本で売られていることを、初めて知りました。スペインの羊飼いの少年が、夢を求めてエジプトまで旅をするという、童話のような単純なストーリィなのですが、『人が夢を追うということの意味』を、読者に考えさせる、ユーモアにあふれた素晴らしい表現が随所にちりばめられています。未だ、読み終えていませんので、読後の感想は、いずれブログでご紹介したいと思います。

Introduction の中で、著者は、『人が夢を追おうとする時の4つの障害』を挙げています。このような『本質』の提示は、ビジョナリが本質をキーワードで提示する時と同じで、梅爺好みです。

(1) 幼少時に、親から『夢の実現は困難』と繰り返し、教え込まれること。

(2) 『愛』: 夢を追うことで周囲の愛する人たちに迷惑をかけると考えること。

(3) 『挫折の恐怖』: 失敗したときのことを恐れること。

(4) 『実現直前の畏れ』: 自分だけがこのようなものを入手して良いのか、自分にはそんな資格は無いのではないかと畏れること(戦場で生き残った兵士のように)。

勿論、著者は『夢を追うこと』が人には大切なことで、夢を実現したときに初めて、『神が何故自分をこの世に送り出してくれたのか』が分かる、と書いてあります。

偶然なことで、パウロ・コエーリョに出会えて、梅爺は満足しています。

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2007年3月 3日 (土)

左七の字

梅爺のブログを読んでくださった方は、梅爺が相当のへそ曲がり、屁理屈屋であると感じておられるのではないでしょうか。梅爺の父親もかなり、へそ曲がりでしたし、梅爺が生まれた時には、既に他界していた、父方の祖父、母方の祖父の双方とも、伝え聞くところによると、かなりのへそ曲がり、反骨精神の持ち主であったようなので、梅爺の性格は、間違いなく『生まれつき』のものらしいと、自分では感じています。

梅爺は、小さい頃に、父親から『お前は、左七の字』だと、良く言われました。『左七の字』というのは、以下のような話に由来する、『へそ曲がり』の代名詞です。

『漢字の七という字の書き方を習う時に、先ず横に線を引いてと言われて、これには素直に従う。次に交差するように縦の線を引いてと言われて、そこまでは何とか我慢して従う、しかし、最後に、そこで右に線を曲げてと言われると、逆らって左に曲げてしまう』

梅爺のへそ曲がりは、ただ闇雲に他人の言うことに従わないと言うより、周囲の人が、皮相な表現や理解で、物事を単純に判断しているように、『感じた』時に、『違う見方をすると、そうではないということもあるのではないですか』と言ってしまう性癖に由来しています。相手の方が、多元的にものを考える方で、『なるほど、気づかなかったけれど、そういう見方もありますね』とおっしゃっていただける場合は、円満にことが進みますが、多元的な物事の見方の議論ではなく『批判された』と勘違いされた方からは、梅爺は『偉そうに振舞う、屁理屈を言う、鼻持ちならぬ奴』と敬遠されることになりかねません。『沈黙は金』で済ませば良いところを、『一言多い』ために、周囲にご迷惑をかけたことが沢山あったにちがいありません。

『色々な考え方がある』とだけ言っていては、単なる評論で、ことは進みませんので、その色々な考え方の中から、直感、経験、知恵、勇気を総合的に駆使して、選択、決断すること(Decision Making)の重要さは、勿論承知しているつもりです。

梅爺生来の『左七の字』は、生涯付きまとい、今後も誤解や迷惑を撒き散らすことになりそうですが、ただの『小言幸兵衛』にはなりたくないと念じています。

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2007年3月 1日 (木)

ブランド

昨日、『禿げ鷹ファンド』を書いていて、株価だけで、企業の活動内容を判定したり、企業を物品のように『売り買い』の対象にするやりかたを、梅爺は好まないと書きました。株価をベースに『時価総額』で算定し、それで企業価値を判定する方式では、株式市場の人気だけで、実態を伴わない会社が『大会社』になってしまったりする弊害が時に生じます。

企業には、価値を金銭で測定しにくい、『眼に見えない資産(Intangible Asset)』があり、その一つが『ブランド(Brand)』です。

『ブランド』を何とか定量化し、企業価値の測定要素にしようという試みも、始められています。

梅爺が勤務していた会社でも、その重要性から全社的な『総合ブランド戦略』を推進するために専門部署が設置され、その一貫として梅爺は所属する『情報システム事業部門』のCGO(Chief Branding Officer)を兼務したことがありました。

梅爺一人では手に負えないと考え、若手の論客と思しき社員を10人程度選抜し、検討グループを結成して、梅爺も交えて、議論を行いました。優秀な女性メンバの一人から、早速『ブランドの語源の意味をご存知ですか』という質問を受け、梅爺が一瞬たじろいでしまったために、次のような親切な講義を受ける羽目になりました。

『ブランドとは、元々放牧している牛が、どの牧場主の所有物なのかを明らかにするために押した焼印のことです。最初は、どこの牧場の牛かを判別する手段でしたが、そのうちに、その焼印が牛の価値を決める手段としても使われるようになり、現在のブランドの語源になりました。従って、ブランドを議論しようというなら、先ず私たちの事業部門で、牛に相当するものが何なのかを特定しなければなりません』

真に理路整然とした説明で、梅爺は感服しましたが、企業向けの情報システムという、一つとして同じものが無い『システム』を売り物にしている事業部門の『牛』を特定することが、難しいことにはたと気づきました。

すったもんだの議論の末に、『牛』は、社員そのものであるという結論に達しました。お客様と直接的、間接的に接する全ての社員が、『有能で信頼が置ける』と、お客様から評価されることが『ブランド』だというわけです。つまり、社員の一人ひとりが、頼りになるホームドクターのような存在になれば、ビジネスの継続に貢献すると考え、その後の社内教育の内容や広告戦略にそれを反映するようにしました。

業種によって、ブランドは何かという議論は異なりますが、営々と努力を重ねて作り上げた『ブランド』が、たった一回の不祥事で、消滅してしまうという恐ろしい側面も孕んでいます。

以前の『雪印』や、最近の『不二家』の例など、実例は枚挙に暇がありません。

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