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2007年2月28日 (水)

禿げ鷹ファンド

外資系の投資ファンド会社が、日本の会社を買収したり、実質経営権を得るために、発行株の取得に乗り出す事例が増えて、日本では彼らを『禿げ鷹ファンド』などと、蔑みのニュアンスを込めて呼びますが、欧米の株式会社の論理からすると、当然の利益追求行動をしているだけで、『悪事に加担している』という意識は、彼らには無いものと思われます。

日本は、明治維新以降、形式的に欧米の株式会社のしくみを導入しましたが、その後日本独自の『株式会社文化』を形成し、経営に行き詰った会社を、救済のために第三者が買収することはあっても、経営がそこそこうまく行っている会社や、今後有望な会社を、他人が『買収』したり『実質経営権』を獲得することを『差し控える』ことが、社会礼儀のように考えられてきました。

つまり、『論理的には可能であるが、それはしない』という日本独自の考え方が定着しましたが、そのうちに『論理的には可能』が忘れられ、『それはしてはいけない』と錯覚されるようになり、経営者は自分の会社が『買収』の対象になるなどとは、考えなくなってしまったのではないでしょうか。

そのような時に、ライブドアや村上ファンドなどの『従来の社会的不文律』にとらわれない人たちが出現し、日本の中で、日本人同士が会社売買を公然と行おうとしたために、大騒ぎになりました。この時も彼らには『マネーゲームに走る金の亡者』『禿げ鷹』のレッテルが貼られ、大半の日本人から、日本的秩序を乱す危険な人物とみなされました。彼らの『行動目的』そのものは、論理的に訴追できないため、『行動プロセス』の中に、違法行為があったとして、日本の『禿げ鷹』退治は、一見落着したかに見えた時に、今度は厄介なことに外国の『禿げ鷹』が出現したというわけです。さて、今度はどういう論理で外国の『禿げ鷹』を排除することになるのでしょうか。

梅爺は、ライブドアや村上ファンドを擁護しているわけではありません。会社には、株価だけでは評価できない価値や、社会的責任があり、物品のように簡単に『売り買い』の対象になることは好ましくないと考えています。

しかし、一方において、グローバルな共通ルールである『株式制度』の基本的な考え方も受け容れなければならないとなると、会社経営は、極めて多様な価値観のバランスの中で、行われなければなりません。梅爺は、前に『パラドックス』や『オムニ・リアリティ』について述べましたが、会社経営は正しくその極致であるように思います。禅問答のようになりますが、『株式制度』の重視は必要、でも、それだけで全てを単純に割り切ってはいけない、ということになります。

日本を異文化視する欧米でさえも、自国の企業が外国資本に買収されそうになると、『国益に反する』という伝家の宝刀で、これを阻止することがあるのですから、日本人は、日本的な風土が『間違っている』と卑下する必要もありません。お互い様なのです。

梅爺は、今は仕事の一線から引退しているので、このようなことが暢気に言えるのかもしれません。自分が渦中にいたら、苦悩とストレスで、七転八倒していることでしょう。現役の経営者の皆様には『ご苦労様』と申し上げるほかありません。

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2007年2月27日 (火)

フェロー

フェロー(Fellow)は、一般名詞として『男、仲間』の意味を持つほかに、学会などの特別会員を指す言葉ですが、IBM社の場合は、特別優秀な研究者、技術者に与えられる『称号』の意味を持ちます。授与時に特別報奨金が出るほか、退職後も特別の年金が支給されるなどの特典があるため、非常に限定された人数しかこの名誉に浴することはできません。

ワトソン研究所をはじめ、世界に点在するIBMの研究所は、フェロー排出の拠点で、過去に何人かのフェローがノーベル賞も受賞しています。日本人でフェローになられた方も何人かおられ、ノーベル賞を受賞された江崎ダイオードで有名な江崎博士も、そのお一人です。

余談になりますが、梅爺は、現役時代にIBMのアルマデン研究所(サンノゼ近郊)を仕事で訪問したことがあります。その時の梅爺の会社での肩書きは『首席技監』で、英語の称号は『Chief Fellow』でした。そのため、自己紹介のために、名詞を手渡すと、IBMの人からは、決まって『ウワォー!フェローだけでもすごいのに、お前はなんとチーフ・フェローではないか。ところで、ノーベル賞をいつ受賞する予定か?』と冷やかされ、閉口しました。そのくらい、IBMにおいてはフェローは特別な意味を持つ称号なのです。念のために申し上げれば、梅爺の会社では『Chief Fellow』は、一つの役職に過ぎず、特別報奨金や特別年金をいただいたわけではありません。

工業社会から情報社会への移行期のころまでは、IBM、AT&T、GEなどの大企業は研究所の基礎研究部門にも投資をする余裕があり、その中から多くのノーベル賞受賞者を輩出しました。基礎研究から始まって、商品化までには、多大な投資と時間が必要になりますが、それでも、最終的にはペイするという、その時代の経営者の『目論見』が、企業のプライドとともに存在していたのでしょう。

情報社会になると、市場の変化が急激に速まり、基礎研究への投資が必ずしもペイしないという考え方が台頭してきました。当たるか当たらないかわからない研究に投資をするより、外部の研究成果で確かなものを『購入』した方が、経済効率が良いという考え方です。サンマイクロシステムズなどは、研究所の研究者数を常時100人程度に限定し、必要な基礎研究は、隣のスタンフォード大学などに依存するという、経営方針を打ち出しました。大企業研究所の過去の栄光を知る梅爺などには、なんとなく寂しい話ですが、経済原則を追求するとこうなってしまうという時代の趨勢なのでしょう。

梅爺が、IBMアルマデン研究所を訪問した時は、ガースナー社長の時代で、ガースナー社長は、『研究開発投資』には理解がある経営者でしたが、それでも『ビジネスに直ぐに貢献する研究』を研究者に求めていました。梅爺が会った何人かのフェローの方々も、皆『マーケティング』を口にするので、梅爺の方がビックリしました。

基礎研究に、どれだけの投資をすべきかは、今でも経営者の大きな関心事ですが、『ビジネスに直ぐに貢献する研究』を求めれば、求めるほど、大企業の研究所から、ノーベル賞受賞者は出難くなることは、間違いありません。最近のノーベル賞受賞者の中に、IBM、AT&A、GEなどの研究者が見当たらないのは、そのような時代背景のせいなのでしょう。

梅爺閑話を読んでくださっている方から、文字が小さくて読みにくいというご意見をいただきました。ブログ作成時に『普通』サイズを採用してきましたが、今回から『大』に変更してみます。少しは改善すると思いますが、これでも、読みにくい場合は、ご自分のブラウザの『表示』で、文字サイズを大きくするように指定してお読み下さい。

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2007年2月26日 (月)

屁をひって尻つぼめ

今回は江戸いろはカルタの『へ』、『屁をひって尻つぼめ』の話です。

明らかに、気まずいことをしでかしてしまってから、慌てて、もう、取り返しがつかないのに、それを阻止するような行動に出る人間の滑稽な一面を、あまり上品な例えとはいえませんが、適切な情景で鋭く描写していることに感心します。当人にとっては深刻な『失敗』も、他人から客観的に観ると『滑稽』な側面があることを、笑い飛ばしている江戸の庶民の、『滑稽』に関する感覚の鋭さを感じます。

梅爺も、まずいなと思いながら、取り繕ったり、屁理屈を言ったり、居直ったりした過去のことを思い出して、痛いところを突かれたと、苦笑いしてしまいます。

『覆水盆に返らず』と達観的に表現するより、同じようなことを言っていても、いろはカルタの方が、人間の滑稽さを表現していて、親しみが持てます。

この状況は、意図的に『悪いことをした』というより、『つい、うっかり、やってしまった』ということですので、結果は『同じ非』であっても、素直に『ゴメンナサイ』と言いたくない心理が働きます。意図的に悪いことをしておきながら、本当は悔悛の情が無いのに、処世の術として、簡単に『ゴメンナサイ』を言う人が、沢山テレビなどに登場しますが、とても信用が置けません。

意図的ではないにせよ、悪いことは悪いことなので、やってしまった時には『ゴメンナサイ』というように、小さな子供に躾をすることは、大切なことですが、『ゴメンナサイ』と言えば、事が丸く収まると考えて、『ゴメンナサイ』を方便として気軽に連発する子供になってしまうのも、困ります。

要は、『自分はあまり考えずにやってしまったが、これは、周囲の人を困らせたり、悲しませたりするいけないことなのだ。こういう気まずい状況に身を置くことは嫌なので、繰り返さないようにしよう』と本人が強く思うことの方が、形式的に『ゴメンナサイ』を言うより肝心です。

梅爺も、小さい頃は、負けず嫌いの強情な子供でしたので(今でもその性格は残っていますが)、なかなか『ゴメンナサイ』を言わずに、両親にひどく叱られました。でも、世の中には、自分が意図しなくても、非を犯してしまうことがあり、そのことには、素直に謝る必要があること、できれば、色々なことに気を使って、そのような気まずい立場に自分を置かないように事前の配慮、努力をすること、などは人並みに理解できる人間になれたように思います。

でも、梅爺は未だ、好々爺からは程遠い、『屁理屈爺さん』であることは、自分でも十分承知しています。

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2007年2月25日 (日)

トフラー

アルビン・トフラーとその奥さんのハイディ・トフラーは、『未来学者』として著名で、共同で『未来の衝撃』『第三の波』などの有名な本を執筆しています。『未来学者』という称号が適切かどうかは、梅爺には不明ですが、『科学技術』が社会に及ぼす影響が、今後、他の要素よりも強まることをいち早く予測したことは高く評価しています。

前にも書きましたが、『ビジョナリ』は、物事を多元的に見て、一見『混沌』に見えることの中に、『本質(キーワード)』を見つける能力に恵まれた人のことです。キーワードが提示されると、その是非については、多くの人がコメントしますが、最初にキーワードを言い出した勇気と能力は、評価すべきと梅爺は考えています。

今日の読売新聞の一面の、『地球を読む』という連載特集に、トフラー夫妻が、技術革新について『7つの暗号を解け』という一文を寄せています。ここで暗号というのは、上記のキーワード(本質)のことです。トフラー夫妻の挙げる7つのキーワードと、梅爺も同感と思うコメントの一部を以下に朱書きで、記載します。朱書き以外のコメントは梅爺のものです。

『技術革新の呪文を唱える国々の政府自身、概して変化に抵抗する公務員が巣食う産業時代の官僚機構によって運営されている。その大半は、本当に必要なものがさっぱり分からない政治家に指導されている』

(1) 危険と報酬の比率 : ハイリスク、ハイリターンを受け容れる社会土壌があるかどうかのことです。日本は、リスクを冒さないほうが無難という考え方強いように思います。

(2) 返り咲き文化 :: (1)とも関係しますが、失敗者に再度機会を与える社会土壌かどうかのことです。日本は、一度失敗したらおしまいという考えが強いように思います。

(3) 税制支援 : 技術革新に挑戦する組織(NPOなども含め)に、税の優遇策をとるかどうかのことです。日本は、明確にそうなっているとは言えません。

(4) 明日の受賞者 : 技術革新の目標を達成した人に賞金を出して報いるというしくみのことです。日本では、あまり聞いたことがありません。

(5) 『生産消費者』による技術革新 : オープン・ソフトウェア(Linuxなど)のように、消費者が無償で開発に参加し、革新を促進するようなしくみのことです。日本発の試みに、世界中の人が参加したというケースは、聞いたことがありません。

(6) 循環する知識 : 科学技術に関する最新知識が、『公開』されているかどうかのことです。日本は、まあまあのレベルでしょう。 

(7) そして目前の難関 : 独自性や革新的な考えを阻害する、一律集団教育(産業社会ではこれが重要でした)からの脱皮ができるかどうかのことです。ビル・ゲイツは、教育は『革新』ではなく『取替え』が必要と言っているという記載がありました。日本の教育のありかた議論は、遅れているかもしれません。

『あらゆる指導者は、自国を地球規模の技術革新の中心にしてみせると約束する前に、この暗号の存在をしっておかなければならない』

以上のことから、日本は経済先進国ではありますが、技術革新について、先進国とは、必ずもいえないと梅爺は思っています。当然のことですが、教育が全ての基盤になります。『ゆとり教育』などというのは、この7つのキーワードを理解しない人が考え出したことなのでしょう。安倍総理の『美しい日本』も、そのキーワードが何なのか、知りたいものです。

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2007年2月24日 (土)

Story Teller

昨日のブログ『英語速読術』で、梅爺が、英語の本を読む訓練のために、シドニィ・シェルダンの大衆娯楽小説を読んだことに触れました。梅爺には、面白いとなると、その小説家の作品を全部読まないと気がすまないという、変な癖があって、結局全てを読み尽くしました。最近は、新作が出ないなと思っていましたら、先日、シドニィ・シェルダンの訃報が報じられ、理由が判明しました。彼の小説は、日本では、ある出版社が『超訳』と称して、翻訳本を次々に売り出し、ほとんどがベストセラーになりました。『超訳』とは、何を意味するのか梅爺にはわかりません。もし、原作より表現が優れていると言いたいのであれば、原作者に大変失礼な話のように思います。

シドニィ・シェルダンのように、読者が物語の展開に引き込まれて、一気に読みたくなるような作家を賞賛する時には、『Story Teller』という言葉が使われます。日本の作家で言えば、山本周五郎、司馬遼太郎、藤沢周平といったところでしょうか。

最近の米国の大衆娯楽小説の分野では、ジョン・グリシャム(裁判が絡むサスペンス物)、トム・クランシー(軍事サスペンス物)、ジョン・カッツェンバック(心理サスペンス物)、ダン・ブラウン(ダ・ビンチ・コードで有名)などが、『Story Teller』として、梅爺のお気に入りです。

シドニィ・シェルダンの『Story Teller』の手口は、何冊か読めば、いくつか見えてきます。彼は、映画、テレビの脚本も手がけていますので、何と言っても最大の特徴は、表現が『映画的』であることでしょう。どの作品も、そのまま映画にすれば、B級娯楽映画として、そこそこのヒットは間違いないありません(現実に、多くが映画化されています)。

彼は、プロの娯楽作家に徹していますので、登場する主人公には、大富豪、大女優など、存在そのものが特異で、分かり易い人物を選び、従ってその行動も庶民のものとは異なった特異なものであってもおかしくない世界を設定して、速いテンポで物語を進行させることも特徴です。サービス精神に富んでいますから、男女の濡れ場シーンなどは沢山ありますが、じめじめした心理描写などはほとんどありません。

最初は一見、関連が見えない複数のエピソードを同時進行させて、読者に、最後にどのような接点が待ち構えているのかを期待させる手法も特徴です。

また、作中に、いくつかの『どんでんがえし(Twist)』を用意してるのも特徴です。特に、読者が読むにつれて、段々好きになるような人物を設定しておき、読者の感情移入が最高点に達したときに、なんとその人物が殺されてしまうというような、非情な『どんでんがえし』も使われます。

梅爺は、これほど作者の『手口』が分かっているにもかかわらず、それでも懲りずに読んでしまうのですから、始末に負えません。逆に『手口』が分かっているなら、梅爺も大ヒット小説の作家になれるのかというと、一番肝心なイマジネーションが欠如しているために、残念ながらそれは不可能です。

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2007年2月23日 (金)

英語速読術

梅爺は、現役時代はコンピュータ関連の仕事だけに携わってきましたので、文献を英語で読まなければならないことが多くありました。特に45歳以降、米国の会社との技術やビジネスの提携を推進する担当者になり、英語を『読む』だけではなく、『書く』『聴く』『話す』必要に迫られるようになりました。頭が固くなりつつある中年のおじさんにとって、これは、大変つらい試練でした。

脳の中では、同じ英語といっても、『読む』『書く』『聴く』『話す』は、基本的に別の機能(勿論ある種の連繋はありますが)ですので、読めれば、話せる、書けるという単純なものではありません。日本語でも、『薔薇』は読めても、書けないのと同じです。

しかし、いずれにしても最低限の語彙や定型句(イデオム)を知っている必要はありますので、一念発起して、『本は英語で読む』決意をしました。

それでも、難しい本では、せっかくの決意も腰砕けになりそうなので、先ずは『面白い本』を主体に読むことにし、シドニー・シェルダンの大衆小説などから挑戦を開始しました。この種の大衆小説は、理屈抜きに読者を惹きつけるストーリー展開が売り物ですから、梅爺もなんとか挫折せずに読み続けることができました。もうひとつ、この種の小説の良いところは、中に『会話』部分が多く登場することです。なるほど、英語圏の人は、こういう場合は、こういう表現をするのかという、活きた英語表現(正しい文法などは気にしない)の宝庫ですので、語彙やイデオムの知識が増えることに加えて、大変勉強になりました。

梅爺は、当時英語の本と、電子辞書、赤ペンをいつも持ち歩き、通勤の電車の中などでも、わからない単語に印をつけ、辞書を引いて、メモを本に書き込むようなことをしていました。周囲の人からは、きっと『変なおじさん』に見えたことでしょう。

そのうちに、英語を『速く読めない』原因が、いちいち頭の中で『きれいな日本語』に翻訳しようとしていることにあると気づきました。

例えば、『I did X before I did Y.』 は、日本語では、before の意味を重視して『Yをする前にXをした』が自然ですので、一度英語の全文を読んでから、もう一度、後ろから読み直す作業をしていることに気づきました。英語圏の人たちには、『Xをした、Yをする前に』という日本語では不自然な言葉の順序が、『自然』なのだと、遅まきながら気づいたというわけです。言い換えれば、英語圏の人は『XをしてからYをした』という時に、before を用いているだけのことなのですが。

それ以降、英語の文脈の流れのとおりに読み、頭の中で『大体の意味』が理解できたと感じたら、日本語にするための『読み返し』をしない努力をするようになり、読む速度があがりました。更に、分からない単語に遭遇しても、いちいち辞書を引かずに、『大体こういうことらしい』で済ますことにして(どうしても気になるものだけ後で辞書を引くことにして)、更に読む速度があがりました。

以上が、梅爺の涙ぐましい『英語速読術』会得(?)の顛末です。

要は、日本語への変換にとらわれずに、英語圏の人と同じ思考プロセスで、英語の文章が何を言っているかが大体理解できればよい(英語圏の人は文法などを意識しないで表現している)と割り切ることが『こつ』なのですが、そうは言うものの、今でも『日本語』が頭の中で邪魔をすることが多く、苦労が続いています。

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2007年2月22日 (木)

IT大国日本

小泉首相の時代に、『日本は5年以内にIT大国になることを目指す』という、勢いの良いスローガンを掲げたことがありました。当時、シンガポールはPCの普及率で、韓国はブロードバンド・インターネット網の普及率で、日本を遥かに凌いでいましたので、『アジアの先進国として』の危機感があったのでしょう。中央官庁の経済産業省(コンピュータ事業所轄)と総務省(通信事業所轄)の、どちらが『IT』を統括するのかで、主導権争いがあったこともあり、結局内閣府に各省からお役人が派遣され『IT推進室』が設けられました。

その結果、『各家庭にまでブロードバンド・インターネット(光回線、ADSL回線)を敷設』『学校の教室へPC設置』などの具体的な数値目標が設定されました。

具体的な行動を起こし、その達成度を測るためには、このような『施策』になるのはある程度やむをえないことですが、これらは、全て『容器』の充実を謳っているもので、『中身』の議論が欠落していることに梅爺は不満を感じていました。『何故日本はIT大国になる必要があるのか』『そもそもIT大国とはどのような国家を意味するのか』『IT大国になると日本はどう変わるのか』などの議論や、説明が無かったからです。

1月21日のブログ『論より証拠』で、書いたように、『論』無しに『証拠』を重視し、それで満足してしまう日本人の性格が良く現れている事例のように思います。

梅爺は、民間企業でITをビジネスとして担当している責任者の一人として、内閣府『IT推進室』に呼ばれ、意見聴取されましたので、次のような例え話で、率直に不満を申し上げました。

『5年以内に、日本をIT大国にするために、学校の教室に多数のPCを設置するということは、5年以内に日本を芸術大国にするために各家庭に1台ピアノを設置すると言っているのと同じではないか』

つまり、ITはピアノと同じ『道具』であって、『道具』を使いこなせる『能力と意欲を持った人』が存在しない限り、『大きな結果は得られない』だろうと申し上げました。勿論、日本のお役人さんは、頭脳明晰の方が多いので、梅爺の申し上げたいことは直ぐに理解され、苦笑しておられました。短期間にある成果を求められているので、理屈をこねている暇は無いというのがホンネだったのでしょう。

『道具』を普及させてしまえば、自然に『道具を使える人が増える』というのも道理ですが、ITやピアノは、単純な道具ではなく、使用目的が一様ではありませんので、使用する人が『自分の使用目的を考え、それに応じたスキルを身につける』必要があります。つまり、『能力と意欲を持った人』の存在が必須ということになります。

勿論、能力と意欲の有無にかかわらず、誰もがITの恩恵を受ける利用方法もありますが、道具を使いこなす人間に本当の価値がある(人間が主人公)と梅爺は考えています。

スローガンを掲げてから、既に5年は経過しました。結果はどうでしょうか。ブロードバンド・インターネット網の普及、PCの普及、携帯電話とその高度な利用方法の普及など、いずれも世界の先進国のレベルに達しています。その意味では、大成功といえるでしょう。

しかし、ITを、個人、会社、社会、国家のために道具として利用する先進のアイデアを考え出し、それを実現する『能力と意欲を持った日本人』が増えたり、レベルが上がったりしたのかについては、疑問が残ります。

『容器』と『中身』の双方で、世界が一目おく国家に日本がなった時に、初めて『IT大国日本』と胸を張って言えるのではないでしょうか。

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2007年2月21日 (水)

爺さん論争

梅爺は大学時代、男声コーラスに熱中していました。現役をリタイヤした後に、約40年ぶりで、OB男声合唱団に入会し、昔の美声を取り戻そうと、週2回の練習日には、青梅から都心へ、いそいそと通っています。大学時代のコーラス同期生(多くはOB男声合唱団の団員)とは、今でもメールで連絡を取り合ったり、年に1度、夫婦同伴で、国内旅行、海外旅行を楽しんだりしています。コーラス同期生なので、大学時代の専門科目は異なり、その後の活躍分野も色々ですので、梅爺の知らない世界の話題も多く飛び交って、啓発されることが沢山あります。

その中の一人が、大変な読書家で、読んだ本の梗概と読後の感想をレポートにして、時折メールで送ってくれます。このレポートをきっかけに、メールで意見交換が始まることが多く、これを仲間内では『爺さん論争』と称しています。『爺さんが何人かで気勢を挙げてみても、それで世の中が変わることはないよ』という醒めた意見も一部にありますが、徘徊老人には論争参加は難しいことなので、梅爺はボケ防止のためにも、なけなしの経験や知識を総動員して、積極的に論争に参加するようにしています。

最近の『爺さん論争』のテーマは、『地球環境問題』です。科学的なデータを検証しなくても、冬にひまわりが咲いたりする今年の暖冬現象は、誰もが『異常』と感じておられることでしょう。梅爺と梅婆は、雪の北陸風情を楽しもうと、2月の半ばに旅行計画を立てたのですが、雪があったのは白川郷だけで、すっかり、当てが外れてしまいました。このまま、このような事態が続くと、南極の氷が解けて、今にも日本の大半が海底に沈んでしまうというような恐怖心に駆られますが、地球環境のバランスを変えてしまった原因の一つが、梅爺も含めた人間の『快適な生活追求』のせいだと言われると、途方に暮れてしまいます。

『一人一人が自覚して、エネルギ消費を節約し、炭酸ガスの排出量を抑えるべき』というようなことは、重要なことではありますが、もはや、その程度の個人の善意に頼る方法では、少々の問題緩和にはなるにせよ、進行する問題の抜本的な解決にはなりません。先進国と発展途上国の間にある『南北問題』は、最も難しい問題ですが、国家間の責任のなすりあいでも解決になりません。

冷静に考えて、人類がこの危機を逃れる方法は、『最先端科学技術を利用する方法』と『エネルギ消費、炭酸ガス排出に関する強制的な執行を伴う行政による方法』の二つ、またはこの組み合わせしか無い様に思います。科学技術の開発には、多大な投資が必要ですし、強制的行政は、苦痛を伴います。

地球環境の破壊とよく言われますが、地球環境そのものは、善悪の意識など無く、ただ自然の法則とおりに変容しているだけです。『悪い方向へ変化しつつある』というのは『人間にとって、都合の悪い方向へ変化しつつある』ということに過ぎません。

地球や人間が、未来永劫存続し続けるとは思いませんが、少なくとも孫子の代で地球が壊滅的になることは誰もが望みませんので、『天才的な科学者』や『大政治家』の出現を期待しながら、梅爺も『痛み』を受け容れなければならないと考えています。

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2007年2月20日 (火)

化身(Avatar)

1月15日のブログで、インターネットを利用した『仮想(架空)世界』サイト『Second Life』について述べました。日本語の『第二の人生』で思い浮かべる世界とは異なります。この『仮想世界』への参加者は、自分の性、年齢、国籍などとは違う『人格』を設定して登録ができます。例えば、現実には日本人の頭髪の薄い、見かけの冴えない梅爺が、なんと若い米国人女性に化けて参加も可能というわけです。これを『化身(Avatar)』と呼びます。人間は、お面をかぶったり、いつもとは違う衣装を身に着けたりすると、『言動』が変わるという、妙な特性がありますので、これが『仮想世界』を利用する時の大きなポイントになります。

つまり、『ゲーム感覚』が問われることになりますが、『ゲーム感覚』が豊かな人は、現実の『発想力』も豊かであると考える人たちが多いらしく、米国では、教育、企業内コミュニケーション、市場調査などの分野での活用が議論され、『Second Life』は、注目サイトになっていて、IBMなどの大企業は、テストサイト(Islandと称します)を設定して、実効の評価を開始しています。

サンマイクロシステムでは、CGO(Chief Gaming Officer)を任命して、『仮想社会』を構築できるソフトウェア・ツールの開発を行っています。

日本人は、一般に、このような新しい環境、概念、ツールが登場すると、率先して試してみるというより、誰か他人が、それをどのように利用するのかを注視し、その結果を見極めようとしますが、欧米の人たち(特に米国)は、自分が最初の利用成功者になろうと、知恵を絞り、積極的に挑戦をします。一度の失敗が、人生を棒に振ることになりかねない日本と、失敗は、勲章にもなり得る米国の社会風土が背景にありますが、生き馬の目を抜く情報社会では、どうしても日本型の方が後手を踏むことになりかねません。

『Second Life』を利用した『ビジネス・プラン・コンテスト』が行われ、その上位4案が、発表になりました。1位、2位は米国、3位はトルコ、4位はイタリアからの応募で、残念ながらこの中には日本からの応募はありませんでした。上記の理由が反映しているのかもしれません。

梅爺は、保守的なので、『化身』になってまで、自分を解放してみたいとは思いませんが、『仮想世界』が『現実世界』にどのような影響をもたらすのかについては、興味を抱いています。

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2007年2月19日 (月)

六根清浄(後編)

昨日のブログ『六根清浄(前編)』で、六根とは、人間の感覚器官『眼』『耳』『鼻』『舌』『身』『意』で、その感覚対象は『色』『声』『臭』『味』『触』『法』であるという話を書きました。梅爺が最も当惑したのは、6番目の『意』とその対象となる『法』とは何かということです。講話をしてくださった雲水さんに、問いただす機会が持てませんでしたので、やむなく自分で、その後色々思索してみました。仏教、禅や漢字に詳しい方で、梅爺の推測は当たっていないよという方がおられましたら、是非ご教示下さい。

『意』以外の器官は、身体のどこを指すのかは誰もが理解できますが、『意』だけは、それができません。昔の人々には、人間の『脳』がどのようなしくみで、どのような役割を果たしているのかに関する知識を、現在のようには持ち合わせていませんでしたが、自分の中に、『悲しい(哀しい)』『嬉しい』『寂しい』『美しい』などといった抽象的な概念を感ずる能力があることは体験的に理解していたはずで、この能力を『意』と表現したのではないでしょうか。現代の人が『心』と呼ぶものに近いのかなと想像しました。

次に、『意』の感覚対象となる『法』ですが、その字から『ルール、決まり事、摂理』というようなものではないかと想像できます。他の5つの感覚器官とその対象との関係から類推すると、この『法』も『その瞬間、厳然と存在するもので、清浄なもの』ということになります。梅爺は1月22日のブログ『神』で、『宇宙の営みの大本の摂理』を『神』と呼ぶなら、反対する理由を持たないと書きましたが、この『宇宙の営みの大本の摂理』が、『法』に当たるものではないかと、思い当たりました。

もしそうなら、『六根清浄』は、『宇宙の営みの大本の摂理』を、人間が都合よく解釈したり、曲げようとしたりすることが『不浄』だと言っていることになりますので、大変な意味を帯びてきます。曲解したり、曲げたりはせずに、ただ摂理を追求する姿勢は、『不浄』と排除されないのであれば、禅に関する限り、『科学』と『宗教』は、矛盾なく共存することになります。

科学の進展で、宇宙の発生や、人類の発生のしくみが解明されることが、常にキリスト教の根本を脅かすものとして、弾圧の対象になってきた歴史を考えると、『六根清浄』の思想は、深遠で寛容であることが分かります。

人間の悩みや苦しみは、自分の価値観で作り出しているもの(本来清浄なものを不浄なものにしている)なので、全てをありのままに受け容られるように修行を積みなさいといわれて、頭で理解しても、梅爺は、5分も正座していれば、足が痺れてしまいますので、数時間の座禅には耐えられそうにありません。

毎日、無意識に何回も『どっこいしょ』とは言っていますが、これで『六根清浄』を唱えたとは強弁できませんので、偉そうなことを言っている割には、自分が『悟り』から遠いことは十分自覚しています。

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2007年2月18日 (日)

六根清浄(前編)

梅爺と梅婆は、2月15日~17日まで、北陸冬の味覚めぐりの旅に参加していたため、その間、閑話が休話になってしまいました。金沢(兼六園)、能登(総持寺祖院、輪島)、氷見、白川郷、山中温泉、東尋坊、永平寺と短期間に石川、富山、岐阜、福井の4県をバスでめぐり、その間、九谷焼、竹人形、金箔などの工芸品の工房を見学したり、北陸の冬ならではの、寒鰤、甘エビ、越前ガニなどを食べ歩いたり、名湯に浸かったりという、盛りだくさんのスケジュールでした。参加者は、梅爺夫婦と同年輩のご夫婦中心に24名で、グループ行動の規律を乱すような方は、一人もおられませんでしたので、快適なツアでした。ツアの良い所は、添乗員やガイドさんが、適切な解説をしてくださることで、とても自分たちだけの旅行では、事前勉強しきれない情報が豊富に得られることです。

今回は、偶然にも、二つの曹洞宗(禅宗)の名刹(総持寺祖院、永平寺)を訪ねることになり、梅爺が1月26日のブログ(『神』の続き)の最後に書いた、『己の中の仏に、近づく修行』について、再考させられました。曹洞宗開祖道元の有名な『正法眼蔵』をちゃんと読んだことがないので、偉そうなことを言う資格はありませんが、梅爺は、他のどの宗教の教えよりも、『禅』の考え方に心惹かれます。

今回、総持寺祖院(鶴見の総持寺が出来る前の元寺)の雲水さんの短い講話を聴く機会があり、この中で『六根清浄』を学びました。『六根清浄』は富士登山などで、登山者が唱え、転じて『どっこいしょ』の語源になっていることは知っていましたが、今まで、その意味を深く考えたことはありませんでした。

仏教に詳しい方は、先刻ご存知のことかもしれませんので、大変恐縮ですが、梅爺があらためて学んだことは以下です。梅爺が、それをどう解釈したかは、次回お話したいと思いますが、もし勝手な解釈で間違っているようでしたら、皆様からのご教示をお願いしたいと思います。

『六根』とは人間の感覚器官『眼』『耳』『鼻』『舌』『身』『意』のことで、その感覚対象は、『色』『声』『嗅』『味』『触』『法』であるとのことでした。最後の『意』を除いては、一般に『人間の五感』のことですので、直ぐに理解できるのですが、『意』とその感覚対象の『法』とは何かが、梅爺の興味を引きました。ここでいう『色』は『色即是空』の『色』と同義で、『物事の姿かたち』のことです。『六根清浄』の『清浄』とは、全ての感覚対象は『その瞬間、厳然と存在するだけのもので、本来清浄なもの』という意味であると理解しました。つまり、本来清浄なものを不浄なものにしてしまうのは、全て人間が欲得などのために、自分の中に勝手に作り上げた価値観が元凶で、『恨み』『妬み』などは、これに起因するものということです。こう言われてみると、梅爺も嫌いな人を避けたり、自分に都合の悪い、他人の言葉に傷ついたり、してきましたから、成るほどと納得してしまいます。

全てのことを、本来の清浄な姿で、受け容れることができる境地が仏の境地で、これに近づく修行が、悟りへの道だといわれると、反論しがたいのですが、一方、人間が己の価値観を有して、過去を参照し、未来を予測し、左右の事柄と比較する能力を保有することは、最も人間らしい資質とも言えますので、これを『邪念』として否定するわけにも行かないような気がします。

『欲得などに起因する自分勝手な価値観と、真理を追求したいというような自分勝手ではない価値観をどう区別するのか』が梅爺の興味の対象です。

六根の内の『意』と、その感覚対象となる『法』が、何かの手がかりかもしれないと勝手に考えています。

それにしても、釈迦の思想が根本にあるとは言え、現代人をも悩ませる、このような高度な人間救済の思想を展開できる人物が800年前に日本にいたということは、日本人として誇らしいことですね。当時の他の宗教(キリスト教、イスラム教など)のレベルを考えると、驚異的なことのように思えます。

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2007年2月14日 (水)

骨折り損のくたびれ儲け

江戸いろはカルタ『ほ』の、『骨折り損のくたびれ儲け』がテーマです。

『骨折り』『くたびれ』と『損』『儲け』とをうまく対語にし、七七調でうまく表現したものですね。読んでみれば、なんでもないようですが、何も無いところからこういう表現をひねり出す才能は、たいしたものです。

『初志貫徹』とか『成せば成る』とか、威勢の良いはっぱを掛けられた時に、心の中で『そんな、綺麗事をおっしゃられても』と誰もが、一瞬思うことを、代弁してもらっているような気がします。

梅爺は、40歳から50歳になるまでの10年間、一度も欠かさず地元の『青梅マラソン』に参加しました。青梅マラソンは、10kmの部と、30kmの部(マラソンと称していますが、距離は30kmのロードレースです。ただし往路は登り、復路は下りで、平坦路に比べるときついコースです)の二つがあり、梅爺は10年間の内、10kmの部で4回、30kmの部で6回参加して、いずれも完走しました。

30km走るためには、普段かなりの練習が必要になりますので、当時梅爺は、毎日のように3~5km程度のジョギングをしていました。走った距離や時間をノートに記録していたのですが、段々自己記録を更新したい欲望にかられて、健康に良いジョギングと言うよりは、全力でランニング・トレーニングするようになっていました。

その頃、田辺聖子さんが、随筆の中で『ジョギングで鍛え鍛えて、癌で死に』という川柳を書いておられるのを読んで、苦笑してしまいました。

小説家として、人間の機微を知り尽くしておられる田辺聖子のことですから、この川柳は『ジョギングをすることは、馬鹿げている』とシニカルに言っておられるのではありません。『努力が報われるように祈りながら頑張ってみても、思いもよらぬ過酷な結末に終わることもあります。それでも、あなたは、努力をやめないのでしょうね』と、微笑みながらおっしゃっておられるように、梅爺は感じました。

『骨折り損のくたびれ儲け』も同様で、努力をしても報われないことが多いのだから、努力などおやめなさい、と諭しているのではなく、人生には、自分ではどうしようもない理不尽なことや、思いもよらない不運に見舞われることもあることを承知の上で、努力しなさいと言っているように、梅爺は受け取りました。

このように、一見シニカルな表現で、実は人間や人生の機微を表現しているところが、江戸いろはカルタの真骨頂のように思います。

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2007年2月13日 (火)

イビチャ・オシム

サッカー日本A代表監督イビチャ・オシム氏は、報道される言動だけで判断しても、大変魅力的な方です。ボスニア・ヘルツェゴビナ(旧ユーゴスラビア)サラエボ出身ということで、あの不幸な戦火で、家族が引き裂かれるような苦難を経験されたことも、オシム氏の人生観形成に大きく影響しているのであろうと推測します。『身近に戦火が無い』ことを、現在の日本人は『当たり前のこと』と考え、感謝の念が薄らいでしまっていますが、オシム氏は、それが『当たり前のこと』ではなく、いかに貴重なものかを良くご存知なのでしょう。

1993年に、プロのJリーグが発足して以来、日本サッカー協会は、日本のサッカーを世界レベルにするために、色々な施策を講じてきました。子供を含めた競技人口の底辺拡大、有能なプレーヤーの早期発掘、指導者の育成制度、芝生のある競技施設数の拡大、チームの地域定着、専用トレーニング施設の設置、ワールドカップの招聘など、その成果は着実にあがり、人気も野球を凌駕するほどになりました。裕福な日本であるからこそ出来ることとはいえ、支援システムでは、世界のトップレベルに達しています。

ワールドカップで上位入賞がまだ実現できないことで、国民の不満がありますが、挑戦を始めて、まだ10年ちょっとしか経っていないわけですから、本当の挑戦はこれからであろうと梅爺は考えています。上位入賞には、実力と運の両方が必要ですので、簡単なことではありません。

A代表の監督として、トルシエ氏は、『基本的な形(3バック方式)』を徹底して教え込み、次のジーコ氏は、形よりも『個人の創造力』を重視した指導を行いました。いずれも、日本のサッカーの成長過程で必要なことであったと思いますが、『世界のサッカー』を日本へ導入しようとしたことになります。

一方、オシム氏は、世界に通用する『日本のサッカー』とは、何かを追求しようとしています。日本人の身体的特性、メンタリティに配慮した戦略、戦術で、『90分献身的に動き回るスタミナ』『時間をかけずに、相手の嫌がる攻撃を仕掛ける』などを徹底しようとしています。どのような結果が現れるのか、選手の起用方法なども含めて梅爺は期待しながら見ています。

オシム氏の、ユーモア、観察力、洞察力、論理的思考力、人を傾聴させる表現力など、どれも梅爺好みです。

オシム氏が、経営者、政治家を目指していたら、きっと大成功したのではないかと梅爺は考えています。

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2007年2月12日 (月)

サッカーと野球

梅爺は、かなり熱心なサッカー・ファンです。勿論、テレビ観戦が主で、Jリーグのシーズンには、水曜と土曜の試合日のBS放送の中継に釘付けになっています。特に、ハイビジョンで放送の鮮明な画像は、ピッチ全体を俯瞰する必要のあるサッカーには最適で、芝生の緑と、その上を躍動する色鮮やかな選手のユニフォームのコントラストに満足しています。

野球の中継も好きで観ますが、野球とサッカーの面白さには、基本的な違いがあるような気がします。野球は、グラウンド全面でダイナミックな連携が見られるというより、投手と打者の1対1の勝負に代表される『局部的な勝負(力対力、心理の読み合い)とその緊張感』が面白さの中心です。出会いがしらの逆転満塁ホームランなどという、予想外の展開も時にありますが、面白さの中心は、やはり『局部的な勝負』にあります。

一方サッカーは、一見単純なルールのスポーツですが、得点に至るプロセスで、チーム全体が、どのように連繋するかが見所です。相手の陣営にボールを運び、デフェンス網をかいくぐったり、出し抜いたりしてシュートするプロセスにおいて、『偶然全てがうまくいく、間違って得点になってしまう』という確率は極めて低いので、チームの『意図した連繋』が求められます。この『意図した連繋』には、選手の高い技術とインテリジェンス(戦術眼)が必要になります。サーッカーは得点シーンが少ないので面白くないという話を聞きますが、梅爺は、得点にいたるチームのダイナミック連繋を観るのが楽しみなので、つまらない、退屈と感じることは、ほとんどありません。

野球に関しては、梅爺は『熱烈な巨人ファン』なのですが、Jリーグに関しては、特別思い入れのあるチームはありません。しかし、高い技術と戦術眼に長けている選手個人に関しては好みがあり、特に無名の若手有望選手に早くから目をつけて、こっそり『贔屓』にしています。

スポーツを、人生に投影して、色々な教訓を得ることができますが、『個人の能力と戦術眼で、チームプレーをするサッカー』は、会社の組織経営などに、もってこいの教材です。全員が協力しあい、むしろ個人が目立たないようにすることを日本では『チームワークの良さ』と言うことがありますが、欧米の『チームワーク』は、個人がその能力と特徴を発揮して、チームの目的に貢献することを重視します。サッカーは、この欧米型の考えと一致します。

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2007年2月11日 (日)

パラドックス(3:これで最後)

前に読んだ『The Visionary's Handbook』という本の中に、世の中の将来を見通せる能力の高い人(Visionary)の一つの資質は、多元的に物事を見ることができる能力であると書いてありました。パラドックスに見える事象の奥には、何か本質が隠されているからではないでしょうか。情報社会で、パラドックスに見えるものの事例として、以下が紹介されていました。原文は英語ですので、これは、梅爺のかなり意訳です。

Visionary : 『予測の確かさ』を重視すると、現実に近いことしか言えなくなる(Visionaryでなくなる)。

商品価値 : 普及すればする(コモデティになる)ほど、市場価格は下がる。

企業規模 : 大きな会社は、小さい会社の行動を目指し、小さい会社は、大きな会社のように振舞おうとする。

成功 : 短期間で成功を堅いものにするには、長期展望能力が必要になる。

競合 : 弱者連合では、一人の強者に勝てない。

リーダシップ : 部下に奉仕する気持ちがないと、牽引はできない。

ネットワーク : 皆が一様になることを目指してネットワーク結合すると、反って『個』の主張が強くなる。

情報社会で、パラドックスが際立ってくるのは、多くの情報(特に、異なった価値観)に接する機会が増えて、多元的にものを見ざるを得なくなるからではないかと思います。人々が、多元的に考えるようになると、自国の政治体制にも疑念を抱く可能性が高まるために、北朝鮮のような独裁国家では、これを恐れて、情報統制を厳しくし、国民を洗脳しようとするのでしょう。こういう環境ではパラドックスは危険思想の一種で、主張をすると『非国民』として糾弾されますので、命がけな行為となります。

梅爺のように、暢気に『パラドックス』を論ずることが出来る日本に、感謝しなければなりません。

梅爺が関係していた、企業の情報システムを販売する領域でも、『システムの使い易さを、追求すると、システムの奥のしくみは複雑になる』『経営コスト削減のために情報システムを導入しようとすると、構築や運用に多大な投資が必要になる』などの、パラドックスがありました。顧客企業の実情や、経営ビジョンを理解し、それに適したシステムの規模、内容を提案できるかどうかが、ビジネスの鍵でした。一つとして『同じシステム』は無く、本当の『正解』は誰にも分からない状態の中で、『主張・説得』する仕事は、大変勇気のいるものでした。

この調子でいくと、パラドックスの話だけが、延々と続きそうなので、一先ず、この話題は今回で終わりにします。

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2007年2月10日 (土)

パラドックス(2)

昨日掲載した『Epimenides Paradox』は、別名『Liar Paradox』と言い、典型的な論理矛盾の例として梅爺が好んでいるものです。ただ内容は、梅爺の興味対象である『人間や人間社会の矛盾』を想起させるものではありません。

1990年代後半のダボス会議(民間主導の国際要人会議、大企業の会長、社長クラスのみがメンバ資格を持つ)では、『21世紀の企業経営や経営トップのありかた』が、討議の主議題の一つでした。梅爺の会社の会長Nさんは、米国駐在14年のキャリアの持ち主で、通訳なしに(英語で)スピーチや討議参加ができましたので、毎年のように、日本やアジア圏を代表する講演者かパネル・ディスカッション・メンバとして招聘されました。

事前に、どのような論旨でスピーチを展開すべきかについて、Nさんを含め何人かのメンバで社内討議(準備)を行いました。梅爺もメンバの一人でした。先ず、『21世紀はどういう世紀になるのか』という基本認識を明確にすべきであると言うことになり、以下のようにまとめました。

(1) オムニ・リアリティ、パラドックスが常態の時代

オムニ・リアリティというのは、複数の異なった現実が共存するという意味です。グローバル・カルチャとローカル・カルチャの確執、政治体制と宗教の確執(現状のイラク情勢などが典型的)、自由経済が排出する勝者と敗者の確執(現状の中南米における反米の高まり)、利便性の追求と環境保護の対立などが該当します。

(2) 科学技術の影響を一層強く受ける時代

対応を間違うと、人類の滅亡に繋がる危機を秘めていますので、政治家や経営者は、科学技術を洞察できる資質を要求されるようになります。科学技術どころか人間の洞察も出来ずに、失言を繰り返すどこかの国の大臣などは、論外です。

(3) ITが社会の全てに敷衍する時代

コンピューティングやネットワーキング機能が、色々な利用目的のために、どこからでも利用できる時代(Ubiquitous Networking Society)を意味します。

Nさんの、深い洞察力は、梅爺など足元にも及ばないもので、いつも事前準備議論の中で啓発されました。ダボス会議本番でのNさんのスピーチや発言は、聴衆に大きな感銘を与え、世界中に報じられました。『経営はサイエンスではなく、アートです』などが、その名言の一つです。

いずれにしても、21世紀は、薔薇色の世紀ではなく、多くのパラドックスにどう対応すべきかについて、人類の叡智を問われることになります。

このような経験の中で、梅爺は、パラドックスは、論理や言葉の遊びではなく、生き方の選択にかかわる重要な問題提起そのものであると、強く感ずるようになりました。

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2007年2月 9日 (金)

パラドックス(1)

昨日のブログで、『白黒の判別が実は困難な事象の白黒を決めないと、世の中は進まない』という矛盾について書きながら、梅爺は、昔からパラドックスが好きであったことを思い出しました。パラドックスについて書き始めると、1回では終わりそうもないという予感から、タイトルを『パラドックス(1)』としました。話は、数回に及ぶような気がします。

今まで、あまり考えたことがなかったのですが、『矛盾(Cotradiction)』と『パラドックス(Paradox)』は、厳密には異なる概念かもしれません。『矛盾』は、二つの『命題』が相容れない(こちら立てれば、あちら立たず)関係であることを意味するのに対して、『パラドックス』は、一つの『命題』自体が、見方によっては『真』であったり『偽』であったりすることを意味するのかなと、梅爺は勝手に解釈しました。間違っているかもしれません。『パラドックス』は『オーソドックス』の反対語なので、本来は『正当でない主張』という意味なのでしょう。梅爺の経験だけで判断すると、英語の本の中でも、『Contradiction』と『Paradox』は、厳密に区別されて使用されているとも思えません。

老婆心ながら、ここで使った『命題』は、論理学や数学で用いる用語で、最近多くの方が引用(誤用)する、『これは、私に課せられた命題と理解し、頑張ります』という時の『命題』とは違います。『命題(Proposition:真偽の判定の対象になる平叙文)』がどうして、いつの間にか『命題(Mission:自分に課せられた使命)』という意味で使われる(誤用される)ようになったのか、梅爺は知りません。

理屈は、これくらいにして、平たく言ってしまうと梅爺の興味の対象は、人間(個人)や、人間が作り出す社会が、『矛盾』に満ちていているということです。自分自身が矛盾に満ちていることを認めない人(心から自分は善人だと思いこんでいるような人)や、矛盾のない社会こそが理想で、それを直ぐにでも実現すべきと説く人を、梅爺はあまり信用しません。面白いことに、自然現象の事象間には『矛盾』があるようには思えませんので、『矛盾』という概念には、必ず人間と人間の価値観が絡んでいるのでないかと感じています。人間が存在しなければ、矛盾も存在しないのでしょう。

初回は、梅爺の好きな、Epimenides Paradox を紹介して、終わりにします。

Epimenides は、(ギリシャ時代の)クレタ人で、彼が『全てのクレタ人は嘘つきである』と述べた。

これが、何故パラドックスなのかは、皆さんで考えてみてください。頭の体操になりますよ。

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2007年2月 8日 (木)

梅爺の決断プロセス

2月6日のブログで、『梅爺の思考プロセス』について書きましたら、読者の『おとさん』から、『世の中の大半の事象は、白か黒で割り切れないという主張は理解できるが、一方、世の中の大半の事象は、白か黒で割り切らないと前へ進まない。ビジネス最前線のリーダは、毎日これを強いられている』というコメントをいただきました。そこで、今回は、『梅爺の思考プロセス』に対応する『梅爺の決断プロセス』について述べます。

『白黒の判別が難しいにもかかわらず、白黒を決めないと前へ進めない』という論理矛盾は、人間社会が抱える代表的な『矛盾』ではないでしょうか。梅爺は、この矛盾を哲学者のように深刻に悩まずに、『世の中は、そういうものだ』と受け入れて対応してきました。つまり、『神様ではないので、白黒の判別は自分には難しいけれども、自分の能力(経験、知識、直感的洞察、好き嫌いの感情など)を総動員して判断し、良い結果を祈念しながら白か黒を自分で選ぶ。ただしその結果については責任を取る』という姿勢です。大学進学希望校、就職先、結婚など私事に関する重要な決断もこのスタイルで対応してきました。勿論、全てが思い通りに進展するわけではありませんが、自分で決めたことがうまくいかない場合は、少々ぼやくことがあったとしても、本質的な責任を、国や社会や他人に転嫁しないようにしてきました。

決断をする時の重要な要素が、『洞察』で、この洞察をするためのプロセスとして、『そのことの本質』を自分なりに把握し、その本質に基づいて、自分なりの『判断基準(Criteria)』を持っていることが大切と考えています。例えば自分が担当しているビジネス領域について、普段からこの『本質把握』と『判断基準設定』の準備をしておけば、表面的な事象の多くは、これで白か黒の選択が可能になります。

1月12日のブログで、『ITの本質』に触れたのは、梅爺が関係してきたビジネスがIT領域であったためです。たったこれだけの単純な本質理解をベースに、梅爺は、商品企画、ビジネス企画、アメリカの会社とのアライアンス条件設定、それに社内外に日常的に発生する『キッタハッタ』事項に対応してきました。

物事の本質を理解するためには詳細を知り尽くすことが必要という、科学的なアプローチも重要ですが、人間の行動はもっと『マクロな特徴』をとらえて、感覚的に選ぶことがベースになっているように思います。これで人間の行動範囲は大幅に拡がりますが、選ぶことの責任は自分であるというルールを守ることが前提になります。

自分は何も考えずに、部下に、『新規事業企画案』を作らせ、提出されてきた『企画案』を見て『この企画が成功する根拠を示せ』と部下に迫り、最後にこれを偉そうに認めることが自分の決断だと勘違いし、企画がうまくいった時には成果を独り占めにして、うまくいかなかった時には責任を、企画を作った部下に押し付ける、そういう『上司』が沢山いる会社や役所は、『白黒の判別は困難、でも自分の責任で白黒を決める』という世の中の基本ルールが分かっていない会社や役所ですから、今後存続が危ういかもしれません。

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2007年2月 7日 (水)

天才美空ひばり

梅爺は、高校、大学と合唱活動に明け暮れ、今も、大学のOB男声合唱団に所属し、『研鑽』を続けているくらいですから、『歌』や『歌い方』には、少々うるさいところがあります。その梅爺が、『美空ひばりは天才だと思う』と言うと、何人かの人は驚いたような顔をして、『でも、彼女は家庭や結婚に恵まれたとはいえないし、骨の病気で早死にしてしまったのだから、必ずしもハッピーな人生とはいえない』などと言い出すことがあり、今度は梅爺の方がビックリしてしまいます。

梅爺は、『歌唱表現力で、美空ひばりは天才』と言っただけで、『美空ひばりは、何事にも完璧に近い人生を送った人』と言ったつもりはありませんが、どういうわけか『天才』という言葉を、『何から何まで完璧に近い人』と解釈する人もいるようです。これでは、迂闊に『松井秀喜は天才』とか『中村俊介は天才』などと言えません。『天才』は、ある能力に限定した言葉で、むしろその他の能力は凡庸だったり、平均より劣っている『天才』は歴史上沢山います。

梅爺が、美空ひばりを天才と再認識したのは、最近テレビで流れているコマーシャルの背景で、美空ひばりが、映画主題歌『慕情』を英語で歌っているのを聴いたからです。この歌はこう歌うんですよ、という見本のような歌い方で、英語表現(アクセント、発音)も梅爺には完璧に聴こえます。

美空ひばりは、楽譜も英語も読めなかったという『伝説』がありますが、仮にこの伝説が正しいとすると、耳だけで全ての感性を把握し、しかも表現したことになりますから、天才以外のなにものでもありません。

彼女は、女性としては『低い声質』の持ち主ですが、高い方の音はファルセット(裏声)でうまくつないで、ドスの効いた低音から、繊細な高音までを使いこなし、曲想に合わせて『美空ひばりの世界』を作り出しました。

他のジャズや、シャンソンを歌ったのを聴いたことがありますが、美空ひばりのジャズ、シャンソンになっていて、演歌歌手が無理に歌っているという違和感は感じませんでした。

『歌』のうまい歌手は、他にも沢山いますが、その歌手の歌は、どの歌も同じように聴こえてしまうのに対して、美空ひばりは、その歌の曲想に合わせて歌唱表現力を変える能力があったことが『天才』の証です。

梅爺夫婦がお付き合いしている友人夫婦の旦那さんが、『私は小さい頃、美空ひばりと一緒に遊んだし、お風呂にも一緒に入った』と豪語され、どうも話の前後から、『嘘ではない』らしいことが分かりました。

子供時代とは言え、『天才女性』と一緒にお風呂に入ったという経験を持つ友人を持っていることが、梅爺のささやかな自慢でもあります。

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2007年2月 6日 (火)

梅爺の思考プロセス

梅爺は、約1ヶ月間、ブログを書いてみて、特に江戸イロハかるたの感想を『い』から『に』まで書いてみて、遅まきながら、自分自身の『思考プロセス』のパターンに気づきました。鋭い読者は、とうにお気づきで、次の諺(『骨折り損のくたびれ儲け』の予定)で、梅爺が何を『感想』として言い出すかは予測できるとおっやっておられるのではないかと思います。

梅爺の思考の基本にあるものの一つは、『世の中の大半の事象は、正しい、間違っていると、白か黒で断ずることは難しい』という認識です。勿論、理科系の端くれですから、数学や自然科学のルールで、『正しい答や、その蓋然性』を導き出せるものもあることは知っています。しかし、梅爺の周囲で起きている事象の中には、人の言動が絡む、謂わば人文科学の領域の事象も多く、これに対して、数学や自然科学のルールを用いて、正否を判別することはできません。

理科系の人が陥りやすいことは、世の中の全ての事象に対して、自然科学同様の『正しい解答』が存在する信じて、これを無理やり探し出したり、主張したりすることではないでしょうか。梅爺には、幸いこういう性向はありません。逆に、灰色だと思っていることに対して、無理やり『白』か『黒』かと問われることが苦手で、これが誤解され『優柔不断』と言われることもあります。人文科学の世界にもルール(法)は存在しますが、このルールは自然科学のそれと異なり、『人類の知恵が編み出したその時点の約束事』で、絶対的な判別基準とは言えないと梅爺は理解しています。梅爺は、自分の経験や知識を総動員(自分の中の一種のルール)して、『これが、良さそうだ』と感じるものは、沢山ありますが、それは『絶対正しい』ので、他の人にも『是非そう考えて欲しい』と強要するつもりには、なかなかなれません。テレビで評判の占いのオバサンや、霊界を知るというオジサンの真似は、梅爺にはできません。

こういう梅爺の性格が高じて来ると、今度は逆に、多くの人が表面的な理解だけで『白』だと言っているように見えることに対して、『畏れながら、それは見方を変えると灰色ではないですか』と言いたくなります。梅爺が『理屈っぽい』『偏屈だ』と言われる理由です。

これからも、梅爺は、いくつかの話題をブログにすると思いますが、基本的な思考プロセスの一つは、上記のように単純な認識に基づいていますので、『同工異曲』と思える時は、遠慮なく読み飛ばしてください。

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2007年2月 5日 (月)

静止画と動画

梅爺は、新しい映像処理のソフトウェアを世界に売り出す仕事のお手伝いをしていて、絵画や写真といった静止画は、人間にとって『不自然な情報』であることに気づきました。つまり、人間の視覚情報は全て『静止画』ではなく『動画』として処理されているということです。映画やテレビといった『動画』を記録再生できる技術が発明されていない時代には、時間を一瞬止めて画像を静止画として記録するほかなかったので、便宜的な方法として、絵画や写真が生み出されました。一方、音の場合は、時間軸の一瞬を記録しても、あまり意味がありませんので、録音技術が発明されるまでは、『生演奏』が主体でした。

しかし、絵画や写真は、人間が自然界で体験している情報形式とは異なりますが、逆に、動画では表現できない被写体の本質を伝えることも出来るという特性を利用して、一部は芸術の領域にまで昇華し、私達は、これらを今では『当たり前の存在』として受け容れていることになります。

私達が開発を進めているソフトウェアは、画像が時間軸に沿って遷移する状態を、数学的な関数で表現するもので、再生時に、この関数から仮想の中間画像を好きな枚数だけ指定して作り出すことができます。この方式を利用すると、デジカメで撮った複数の静止画を『中間画像でつないで』動画として再生することが可能になります。勿論、ある人の顔から、違った人の顔へ自然に遷移する動画や、人間の顔が動物の顔に遷移する動画も自由に作り出せます。このような遷移動画は、Morphing と呼ばれ、従来の対応のソフトウェアがありましたが、私達のソフトウェアは、画像間の特徴点をほぼ自動的に抽出できることが、大きな特徴です。

このソフトウェアが作る出す中間画像は、それこそ『自然界には存在しない画像』ですので、プロの映像作家などは、新しい表現手法として注目しています。

また、時間軸のなかで、実際に保有しなければならない実画像の数を大幅に減らすことが出来ますので、アニメーションの制作プロセスや、動画の圧縮プロセスにも応用できます。元の実画像の解像度を損なわずに、動画表現が出来ること(ハイビジョン画像を、インターネット回線で送ることなども夢ではありません)、超スローモーションの再生が再生時の指定でできること(中間画像は全て数学的な関数処理ですので、元の情報量は一定です)、画像のズームアップやズームアウトも再生時に見る人の操作でできること、なども可能になりました。

そんなうまい話があるはずがないと、多くの方がおっしゃいますが、技術の革新はそれを可能にします。

近い将来、皆様もご自分の携帯電話やデジカメで撮影した静止画から動画を作って楽しんだり、この手法を採用して制作した映画や『動くポスター』をご覧になれるようになりますので、『梅爺の話も、まんざら嘘ではない』こと確認いただけると思います。お楽しみにしていてください。

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2007年2月 4日 (日)

DVDがなくなる日

20年ほど前に、『Office Automation』がもてはやされた時に、『Paper-less Society』が到来すると、多くの人が予測しました。しかし結果は、ご存知のとおりに、現在の紙の消費量は、オフィスでさえも当時より増えています。新聞、雑誌、書籍もデジタル化されるという予測がありましたが、これらの業界が、眼に見えて衰退しているようには見えません。紙で情報に接することの利点を、現在のデジタル技術がまだ凌駕していないとも言えますが、人間の嗜好の洞察は難しいということの証左でもあります。

インターネットと e-Mail の普及で、郵便はジリ貧になると予測され、確かに紙の『手紙』は激減していますが、セールス・プロモーションのためのダイレクトメール、カタログ郵送などは増えています。勿論、インターネット取引が増えて、その結果モノの搬送が増えましたので、小包宅配は増えています。我が家に届く郵送物の大半は、通販カタログ、旅行社のツア勧誘雑誌などです。手紙が減ったのは、インターネットのせいだけではなく、その前から、電話の普及と共に減り始めていました。

一方、『動画』や『音楽』は、紙で鑑賞はできませんから、何らかの搬送媒体(フィルム、テープ、電子信号など)と最後に再生する機材を必要とします。どの搬送媒体と再生装置を利用するかは、再生時の品質と総合経済性で決まります。少し前に、米国の『オンライン・レンタルショップ』の面白いビジネス・モデルが紹介されていました。要望優先リストをオンラインで登録すると、まず上位数枚のDVDが郵送されてきて、鑑賞後1枚郵送返却すると、次の優先リストのDVDがまた送られてくるというものでした、これも、『現状での解』であって、恒久的なものとは思えません。本や花を売る『オンライン・ショップ』は当分安泰でも、『オンライン・レンタルショップ』は、安泰とはいえません。iPod の普及からも、明らかなように、紙を媒体としない情報は、中間の物理媒体を必要としない方向へ、移行します。

次世代DVDの規格をめぐって、HD DVD陣営(東芝主体)とBlue-Ray DVD陣営(ソニー主体)が、激しい攻防戦を展開していますが、オンライン電子媒体でコンテンツを受け渡しすることの『経済優位性』が明確になると、DVDそのものが不要になる可能性もあります。

今日明日DVDが無くなる事はありませんが、『近い将来』そういうことが起こらないという保証はありません。

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2007年2月 3日 (土)

憎まれっ子世にはばかる

江戸いろはカルタについての感想を開始してしまった手前、これからも、気が向いた時に、いろは順に進めます。今回は、『に』の『憎まれっ子よにはばかる』。わざわざ『江戸』としたのは、当時『尾張版』『上方版』のいろはカルタもあって、内容は少し異なっているのですが、梅爺は『江戸版』で進めますという意思表示です。

この諺を単純に解釈すれば、『他人から陰口をきかれるような(評判のよくない)人の方が、実は世の中では、幅を利かせたり、取り仕切ったりするものだ』ということでしょうか。『悪い奴ほど良く眠る』とか『正直者が損をする(馬鹿を見る)』とかを、連想して、自分は『憎まれっ子』や『悪い奴』ではなく、むしろ『正直者』に属する人間だという前提で、多くの人は、世の中を見渡して『そうだ、そうだ。思い当たることが多い』と相槌をうちたくなることでしょう。

でも、根っからの『悪人』や『善人(正直者)』は稀で、多くの人は、自分の中に『憎まれっ子』と『正直者』が混在していると考えると、この諺は、自分にも関わってきますので、解釈が少し違ってきます。梅爺も、誰からも憎まれずに、正直に生きていきたいとは願いますが、多分、知らず知らずに、他人に自分の考えを押し付けて迷惑をかけたり、自分を自分以上に良く見せようと見栄をはったり、取り繕ったりしてきたのだろうと考えています。

『男は、閾(しきい)を跨げば、7人の敵あり』と言うくらいですから、世の中で何かを成し遂げようとすれば、『憎まれっ子』にならざるを得ません。極端な言い方をすれば、『憎まれっ子』になることを恐れては、生きていけません。世の中全般を『白』か『黒』かで峻別して、『勧善懲悪』を説くことは、易しいことですが、世の中や人間は、それほど単純には割り切れない、というのが60年以上生きてきた梅爺の実感です。自分はそう思わなくても、他人から見れば『憎まれっ子』の部分が自分にはあるのだろうと、時折自省する程度のことが、精々梅爺にできることです。

それに、『憎まれっ子』と言う日本語の表現は、『ガキ大将』と同じく、全面否定ではなく、どこかでその存在を許容するニュアンスがあるように感じます。梅爺にとってこの諺は、『良し悪し』を論じたというより、『人間社会には、そういう一面があるよね』と鋭く見抜いた言葉のように思えます。

何にせよ、このように理屈っぽい梅爺は、なかなか好々爺になれそうもありません。

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2007年2月 1日 (木)

Silence Please!

今朝の読売新聞に、企業内のエレベータ内で、社員に私語を慎むよう訴える手段として、唇に指を当てている人物のしゃれたイラストに『Silence Please!』と添え書きしたステッカーを、エレベータ内のドアに貼ることで、大きな成果があったという事例が紹介されていました。新聞では、梅爺の現役時代の会社の工場が、このステッカー作戦の元祖のように書いてありましたが、梅爺の記憶にある顛末とは異なっています。

7年くらい前の話と記憶していますが、梅爺は上司のOさんと一緒に、外資系コンピュータ会社の本社を訪問しました。その時、エレベータのドア内側に、私語を慎むようにという言葉(英語の表現でしたが詳細は忘れました)を添えたイラスト・ステッカーが貼ってあることに気づきました。その直後にOさんは、本社の社長に昇進され、直ぐに本社ビルのエレベータ内に、同じような目的のステッカーを貼るように指示されました。最初は、配慮の足りない担当者が『Be Quiet!』と書いたステッカーを貼りだしましたが、Oさんは『外部のお客様も乗られるエレベータなのに、この表現は失礼』と変更を命じ『Silence Please!』という表現になりました。このステッカーの効果は抜群で、それまで、管理部門が口すっぱく注意を繰り返しても止まなかったエレベータ内での私語が、嘘のようになくなりました。新聞で報道された工場の事例は、この本社の方式を踏襲したもので、『元祖』ではなく、本社の事例さえも、そのモデルは外部にあったというのが正しい顛末のような気がします。

梅爺が、申し上げたいのは、今朝の新聞報道が必ずしも正確ではないということでも、Oさんの細かい心遣いを自慢する(勿論、このような経営感覚をお持ちの方の部下であったことは誇りですが)ことでもなく、人間は、ある種の概念を絵や図で表示されると、言葉よりも迅速に正しくその内容を理解することができるという事実です。上記のステッカー作戦は、その心理をうまく利用した成功例で、『Silence Please!』という言葉ではなく、イラストが効果を生み出したものと考えています。

現役時代の上司の一人に、『言葉で表現できない概念は本物ではない』と主張され、パワーポイントの利用さえ忌避された方がおられました。確かに絵や図で抽象的な概念を表現することは、一種の比喩で、比喩は誤認を誘導する危険を包含していることを認識しておくことは大切なことです。

梅爺は、人間の脳の認識のしくみの基本は、パターン認識ではないかと考えています。言葉による概念の認識も、文脈をパターン認識に展開して理解しているのではないかと思います。従って、ある種の概念は、言葉よりもパターンで示された方が、理解が速いのではないでしょうか。

『エレベータ内の私語を慎む』というような、口すっぱく言葉で繰り返し注意を受けても、なかなか浸透しなかったことが、一枚の適切なイラストでいきわたってしまうということは注目に値します。頭の良い政治家、経営者、教育者などが『効率よく理解をしてもらう』ためにこの手法を利用することには、反対ではありませんが、『洗脳』や『誤った方向への誘導』に使われないように監視する必要はあるでしょう。

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