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2007年1月31日 (水)

道具

1月12日のブログで、IT(情報処理技術)の本質の一つは、『道具であって目的ではない』と書きました。人間の歴史の中で、多くの『道具』が考案されてきましたが、その中で『ITを利用した道具』は、最も高度で、複雑なものといえるでしょう。しかし、他の道具と同様に、利用者が使用目的と使用するに必要なスキルを保有していないと、道具はその価値を発揮しません。高度なワード・プロセッサ・ソフトをPCにインストールしてみても、それでその人が即座に名文家になれるわけではありません。

『IT』は『情報の処理(生成、編集、収納)』と『情報の伝達』という、二つの基本機能で構成されていますが、『処理』と『伝達』のプロセスの中に、『人間の創造能力、価値判断能力』を積極的に関与させることが、重要なことと梅爺は考えています。人間は何も考えずに、『機械』が、情報を創造し、その価値を判断して、人間に快適さを提供してくれる世界(自動冷暖房制御装置などのような)を、IT利用の世界でも究極の理想として求めると、オーウェルの小説『1984年』に出て来るような『ビッグ・ブラザー』が支配する恐ろしい事態になりかねません。

道具をうまく使いこなす人と、そうで無い人との間に、大きな格差が生じます。1989年にベルリンの壁が崩壊して、イデオロギーの対立がなくなり、世界が、『自由経済』をベースとした競争社会に突入しましたが、この競争の道具として『IT』をうまく利用する人(会社、国)と、利用できなった人との間に、大きな格差が生じました。この格差は『Digital Divide』と呼ばれ、多くの人たちが、社会(世界)を不安定にする要因として、警告を発し続けてきたにもかかわらず、格差は是正されるどころか、一層拡大の方向に向かっています。『Digital Divide』については、また別の機会に論じたいと思います。

人が、新しい道具に直面したときに、その道具を『何の目的で使うかを発想する能力』『必要なスキルを習得して使いこなそうとする意欲』を持つかどうかで、大きくその後の人生が変わってしまうことがあります。会社や国家も同様です。ITは人間が作り出した道具の中で、最も高度で複雑なものであるが故に、その影響も、極めて大きいということになります。

『能力』と『意欲』は、相互に補完し、共に先天的な要素(生まれつき備わっている能力)と後天的な要素で構成されますが、特に『意欲』は、教育などの後天的な環境で開発が可能ではないかと、梅爺は感じています。

IT社会に正しく対応するためにも、教育改革の議論の中で、『意欲』に関係する『Emotional Intelligence開発の方法論』が真剣に議論されるように、梅爺は願っています。『いじめ』の問題も、本質は『Emotional Intelligenceの欠如』に起因しているのではないかと感じています。

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2007年1月30日 (火)

リモコン

今朝のテレビで、『一家に何個のリモコンがあるのか』を議論していました。独身の人でも、7~8個、普通の家庭になると20個近いということで、当然、『馬鹿げている、どうにかならないのか』という意見が主流でした。これらを、一つにまとめるスーパー・リモコンが売られていることは知っていましたが、高価なものは25万円もするということで、驚きました。我が家も、テレビ、AV機器、エアコンなどで、20個は有に超える数になります。

1月12日のブログで、『ITの本質』に触れ、その一つに『システム全体の責任が曖昧になる』ことを挙げましたが、上記の『リモコンの氾濫』は、正しくこれに該当します。

通常の工業製品の場合、例えばジェット機を設計する時には、目的に合ったエンジン、機体が設計され、結果的に、このジェット機に不具合があった場合には、その責任の所在を明確に追及できます。ところが、IT分野では、バラバラに開発されるシステムの構成要素や部品が、『最終システムの目的やその優先度』を理解しないまま提供されます。言い換えると、システムは、その時点で入手できる構成要素や部品を、利用目的に合わせて組み合わせることになります。構成要素や部品を提供している人たちは、提供するものの範囲で、機能や経済性の『部分最適』は配慮しますが、最終的なシステムの『全体最適』については、一般に配慮しません(利用目的が後づけで決まるようなものでは、配慮のしようが無い場合もあります)。

ネットワークに接続したPCを利用していて、トラブルに遭遇した場合、誰の責任なのかを特定できず、イライラした経験は、多くの方がお持ちのことと思います。利用者からすると、『けしからん』話しなのですが、責任はインテルなのか、マイクロソフトなのか、PCメーカーなのか、ウィルス対策などのアプリケーション・ソフト提供者なのか、回線提供業者なのか、インターネット・サービス・プロバイダなのか、判然とせずに、追求しても責任がたらい回しにされることも少なくありません。

上記のリモコンの話も、利用者は、個々のリモコンについては『便利なので、なくては困る』と言いながら(部分最適は享受しながら)、一方、『一家に沢山のリモコンがあるのは、馬鹿らしい』と言っている(全体最適という視点でみると不満)ことになります。つまり全体責任の問題が解決されていません。リモコンだけに関して言えば、何らかの解決策は見出せるかもしれませんが、ITを利用したシステムに関する一般論では、この『全体最適』の責任をだれが負うのかは、解決策が見つかっていません。というより、ITを利用したシステムが、バラバラに提供される部分最適の寄せ集めで構成されることを是認する以上、解決策は存在しないかもしれません。少なくとも、ITシステムを提供する仕事に携わってきた梅爺には、解決策が思い当たりませんので、『ITとは、そういうものだ』と観念して付き合うことにしています。

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2007年1月29日 (月)

ジョージア州アトランタ

息子一家(夫婦と3歳の男児)が、昨年仕事で、米国に転勤になり、ジョージア州アトランタの近郊に居を構えました。普段は、『Skype(インターネット利用のテレビ電話)』で、お互いに顔を見ながら国際電話ができるのですが、昨年末のクリスマス・シーズンに、梅爺、梅婆(家内)は、孫へのプレゼントを持参して、一週間ほどの旅程で、息子一家を訪問してきました。梅爺は、昔仕事で、2度ほどアトランタを訪問したことがあるのですが、いずれも、ダウンタウンのホテルに数日間あわただしく滞在しただけでしたので、今回は、ゆっくり『米国南部』を楽しむことができました。

アトランタの中心部は、必ずしも治安の良いところではありませんので、中流以上の人たちは、どんどん安全な北部近郊へ移住していているようです。このような現象で、町の中心部がスラム化していくのは、米国ではアトランタに限ったことではありませんが、『都心の高級マンションに住むことが金持ちのステータス・シンボル』である、日本とは、全く逆の現象です。

息子一家も、近郊の新興住宅地に、典型的なアメリカ風一戸建ての家を借りて住んでいます。車2台を収容できるガレージや、全館冷暖房システムなど、青梅の梅爺の陋屋と比べると、別世界のような豪華で広い家でした。

Dscn3626_3  周囲の住民は、中流の米国人のほか、アジア系のビジネスマン、外交官が多いとのことでした。車で、10~30分ほど走れば、アジア系食材を専門に売るスーパーマーケット、無農薬食材だけを扱う高級スーパーマーケット、高級品を扱うショッピングモール、巨大なアウトレットモールがあり、都市近郊ならではの米国の『豊かさ』を実感できました。

車で少し走っただけで、典型的な南部の景色を楽しむことができますが、アトランタそのものは、あまり多くの観光名所がありません。『風と共に去りぬ』を書いたマーガレット・ミッチェルの家(火災で何回も焼失したので、立て直したもの)、『風と共に去りぬ』博物館(近郊のマリエッタという町にあります)、コカ・コーラ博物館(コカ・コーラ発祥の地)、CNN本社などが代表的なものです。Dscn3682_1 

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Dscn3684_1 息子夫婦は、前に中国福建省福州に4年半ほど赴任していて、夫婦で中国語を習得しましたが、今度は、あらためて英語の生活に挑戦することになりました。孫も含め、日本で生活していれば、しなくても良い異文化吸収の努力をしなければならないわけですが、国際化の中で、これから多くの日本人が受けることになる試練でもありますので、ポジティブに対応し個人的な財産にしてもらいたいと願っています。

でも、孫からは、『グランパ(Grand-pa)』ではなく、いつまでも『オジーチャン』と呼んでもらいたいものです。梅爺はどこから見ても『グランパ』という風采ではありませんので。

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2007年1月28日 (日)

ビル・ゲイツのご託宣

毎年、スイスのダボスで、1月の末から2月の始め頃に開催される、World Economic Forum (通称ダボス会議)で、今年は、マイクロソフトのビル・ゲイツ氏が講師として『5年以内に、インターネットがテレビの機能を革命的に変えることになる』という『予測』を述べた、と報じられています。

ダボス会議に集まった世界の要人が、ビル・ゲイツの話だからということで、この『予測』に感銘を受けたのかどうか知りませんが、梅爺のように、永年IT業界に関係してきた人間でなくても、昨今テレビが退潮気味で、インターネットの視聴の方が増えていることは、肌で感じられる動向ですから、この話は、大変失礼ながら『犬が西向きゃ、尾は東』『雨の降る日は天気が悪い』といっているようなもだと感じました。とても仰々しく『予測』扱いにする価値があるとは思えません。将来に対する鋭い洞察眼を持った人を『ビジョナリ』と呼びますが、IT業界では、特に経営トップ層の中に、優れたビジョナリがいるかどうかが、経営の舵取りを誤らないための要件になります。今回の話題に限れば、ビル・ゲイツは、優れた経営者かもしれませんが、優れたビジョナリとはいえないような気がします。

日本で、『放送』と『通信』を所轄する総務省は、従来業界がお互いの事業領域を犯さないように、『放送と通信は異なったもの』と規定してきましたが、インターネットの出現で、この規制が緩和され、今ではインターネットを利用した『テレビ放送』や『ラジオ放送』が可能になりました。技術論で見るかぎり、『放送は広い意味の通信に包含されるもの』と梅爺は考えていますので、この動向は当然のことです。つまり、『無線技術で(有線技術の場合もあります)、一つの送信元が多数の受信者に(1対nで)、情報を同時に、一方的に伝達する手段』が『放送』と定義でき、この定義の中で使われる区分要素は全て『通信』を区分する時に用いる要素と同じです。『有線技術で、一つの送信元が一つの受信元と(1対1で)、情報を同時に、双方向に伝達できる手段』が、従来の『据え置き型電話』と定義できることとの類似性で、『放送は広い意味の通信に包含されるもの』と考えた理由がご理解いただけるものと思います。

『1対1の双方向通信』が可能なインターネットの特性を利用すれば、放送の内容が、大きく変貌し、従来出来なかったことが可能になるることは、ビル・ゲイツに言われなくても、容易に想像できます。視聴者の嗜好がインターネット型の放送へ向かうことになると、民間放送業界は、広告収入が減少し、経営が困難になります(米国では、既にその兆候が現れ始めています)。現在の放送業界が存続するためには、より高解像度の画像(現状のインターネットではハイビジョン映像の配信は、技術的に困難)の提供や、付加価値の高い番組内容(スポーツやニュースの現場同時中継など)を追求しなければならなくなるでしょう。

インターネット型の放送も、技術的には誰でも『放送局を開局』できるわけですから、その中でビジネスとして生き残るのは、易しくありません。

米国では、若い女性が、『身近な話題に関して、自分の意見を述べる』インターネット個人放送局が、高い視聴率を獲得しているというようなニュースを読んだことがありますが、梅爺は、今のところ、ブログだけで精一杯で、到底自宅放送局スタジオから皆様に『梅爺アワー』をお届けする余裕と勇気がありません。

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2007年1月27日 (土)

『De Facto』と『De Jure』

工業化時代には、『標準化』は業界にとっても、消費者にとっても重要な要件でした。標準が定まるまでに、多くの議論と時間が費やされることになりますが、それでも一度標準が定まれば、ある程度の長い期間、それが市場の規範になりますので、『同じ土俵の中で』競争が行われる安心感がありました。こういう環境で日本企業が『品質、価格、使い勝手の良さ』を武器に、圧倒的な強さを発揮してきたことは、ご存知のとおりです。過去には、テレビ受信機で世界市場を席巻し、現在でも車でトヨタがビッグスリーを脅かしています。このような、国家や国際機関が定める標準を『De Jure Standard』と呼びます。

一方、情報化社会では、技術の進化の度合いが速く、標準を定めている内に、その技術が陳腐化してしまうという矛盾があるため、『いち早く市場に普及したものを標準とみなす』という考えが主流になりました。この事実上標準となったものを『De Jure Standard』との対比で『De Facto Standard』と呼びます。マイクロソフト社のOS『Windows』や、インテル社の半導体CPUチップなどが、『De Facto Standard』の代表格です。

『De Facto Standard』の世界は、『下克上』の世界ですので、標準を握ったからと言って安心はできません。いつ新参者が新しい概念の『De Facto Standard』候補を引っさげて、思わぬところから攻撃してくるか分からないからです。日本には『土俵を変えて戦う』という表現がありますが、正しく、自分の不得意な土俵で、今までと異なった戦いを強いられる可能性があります。アメリカからすれば、工業化時代のように、『同じ土俵』で戦ったのでは、日本に勝てないことは、経験上分かっていますので、意図的にこの『De Facto Standard』で、『土俵をコロコロ変えてしまう』戦略を採用したと見ることもできます。多分そうなのでしょう。

アメリカが慌てふためくような日本発の『De Facto Standard』を発信できれば良いのですが、日本の企業には、『標準は自分で創るものではなく、お上が作ってくれるもの、標準が示されたら頑張る』という体質が残っていたり、言葉の問題も含めて、政治的に国際社会を説得する能力(勝てば官軍ですから、良いものが勝つという単純な世界ではありません)が足りなかったりで、今のところ、ゲーム機の世界を除いて、多くの成功事例があるわけではありません。日本政府が後押しした、『日の丸コンピュータ』『日の丸チップ』などの試みも、成功しませんでした。

日本だけが後塵を拝しているわけではなく、ITに関しては、中国も含め発展著しい東アジア諸国や、ヨーロッパ諸国も、みんなアメリカの『De Facto Standard』戦略の中で『戦わされている』ことになります。

梅爺は、今、ある日本のソフトウェア会社の国際的な事業立ち上げをお手伝いしていますが、この会社は、欧米でのビジネス経験がある社長の慧眼もあり、『日本人だけで頑張る』方式を、最初からとらないことにしています。技術の基本を全て特許として日本の会社が保有した上で、資本集めは世界中から、ソフトウェア開発は日本、米国、ロシアの連携、必要となる専用半導体の開発は台湾、関連するコンテンツ作成は中国、と国際分業で進めています。市場開拓は、日本と米国が先行していますが、米国は米国人主体で独自に行われています。仕事で飛び交うメールは、原則として英語です。

日本のITベンチャー企業で、ここまで徹底した事例は、少ないのではないかと思います。『日本の会社が勝つ』というより、結果として『日本発の技術が、事実上世界で使われる』ようになればよい、という認識です。日本対外国という対立的な考えではなく、このように、外国の良さも適材適所で活用しながら、『世界の中で日本の良さを活かす』ことを重視すべき時代になってきているのではないでしょうか。それを立証するためにも、この事業が成功するように願っています。

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2007年1月26日 (金)

『神』の続き

梅爺の長兄は、数年前に義姉が心臓の病で倒れたため、それ以後外部の介護サービスの手を借りずに、自宅で献身的な介護を続けていて、その様子を『介護守(かいごのかみ)老々介護記』として毎日ブログに掲載しています。最近は、料理の腕前も一段と上がったと見え、タイトルを『シェフの守老々介護記』に変更しました。その長兄が、梅爺のブログ『神』を読んで、自分のブログに『人間は目に見えない何かに生かされていることは確かだ。宗教心が非常に大切なことも分かる』と書き、更に、知人から送られた以下の詩(教会広報誌に掲載されたもの)が紹介されていました。因みに、長兄も特定の宗教の信者ではありません。

 (ニューヨーク大学リハビリステーション研究所の壁に刻まれている詩)

 大きな事をしようと考えて
 力を与えて下さいと
 神様に求めたのに
 慎み深く従順であるように
 弱さを授かった

 より偉大なことができるように
 健康を求めたのに
 より良いことができるように
 病弱を与えられた

 幸福になりたくて富を求めたが
 賢明であるように
 貧しさを与えられた

 世の人々の賞賛を得ようと
 権力を求めたのに
 神様の前に、ひざまずくようにと
 弱さを与えられた

 人生を楽しもうと
 ありとあらゆるものを願ったのに
 すべての状況を喜べるように
 いのちを授かった

 私が求めたものは一つとして
 与えられなかったけれども
 願いはすべて聞き届けられた

 神のみこころにはそわない者で
 あったにもかかわらず
 心の中の言い表せない祈りは
 すべてかなえられた

 私はあらゆる人たちの中で
 もっとも祝福されたのだ。

一方、梅爺は、昔居酒屋のトイレに掲載されていた以下の言葉が気に入り、おやじさんに頼んでコピーを持ち帰り、額に入れて、同じく我が家のトイレに掲げました。この言葉の原典は(梅爺には)不詳です。

(佛様のことば)

お前はお前で丁度良い
顔も体も名前も姓も
お前にそれは丁度良い
貧も富も親も子も
息子の嫁もその孫も
それはお前に丁度良い
幸も不幸も喜びも
悲しみさえも丁度良い
歩いたお前の人生は
悪くもなければ良くも無い
お前にとって丁度良い
地獄へ行こうと極楽へ行こうと
行ったところが丁度良い
うぬぼれる要もなく卑下する要もない
上もなければ下も無い
死ぬ日月さえも丁度良い
佛さまと二人連れの人生丁度よくないはずがない
これでよかったと戴けた時億念の信が生まれます
南無阿弥陀佛

キリスト教と仏教、表現の質の差はありますが、両者に共通することは、『自分の周囲の事象(天災、人災、そして深刻で哀しい死さえも)を、神仏の思し召しとして、そのまま感謝して受け容れる信仰の姿勢』です。雑念にさいなまれている梅爺には、程遠いものですが、このような無我の境地は、大本の宗教が何であれ、人の生き方として尊いものです。

誰もが自分の中に保有する理想的な仏の境地に、生身の自分を少しでも近づけようとする、仏教の一派の姿勢に、梅爺は共感を覚えます。人間の外側に『絶対的な神』を設定するキリスト教やイスラム教は、『絶対』であることを主張すればするほど、排他的になるという弊害を内包しているのではないでしょうか。

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2007年1月24日 (水)

花より団子

今回は、江戸いろはカルタの『は』、『花より団子』の話。人間は、生物の一種として、本能的な欲望が、概念的な綺麗事に勝る場合があるという実感は、聖人でも無い限り、誰にもあることでしょう。生物としての本能的な欲望とは言えない『金銭欲』や『出世欲、名声欲』も『団子』として加えると、話は、道徳の領域の話になります。江戸の人たちには、儒教や武士道の考え方から、『清貧』を尊び、『金銭欲』『出世欲』は卑しいものとする考え方があったのではないかと思います。それであるからこそ、『タテマエよりホンネ』を暗示する『花より団子』は意味の深い諺であったのではないでしょうか。つまり、『団子』から逃れられない自分を認めた上で、なおかつ『花』も疎(おろそ)かにしないようにしようという自戒の意味を感じ取っていたのでしょう。梅爺も古い人間なので、自戒の念が先にきて、自分のことは棚に上げ、『団子』を優先する他人を糾弾だけする気にはなれません。

一方、『自由経済・資本主義』を是認する現代の日本では、強者が競争で『団子』を勝ち取るのは、当然のことにもなってしまいましたので、『花より団子』という諺を聞いて、『自戒の念』を持つような人は少なくなってしまったのではないでしょうか。

安倍総理が唱える『美しい日本』の実態は、理解できていませんが、梅爺は、日本人の平均的な価値観のバランス点を、もう少し『団子』から『花』の方へ移すことではないかと考えています。

先日、何気なくテレビを見ていましたら、『百歳以上の方々を対象に、人生であまり意味の無いものは、なんだと思いますか』というアンケート結果を公表していました。百歳以上の人たちの選ぶ、人生であまり意味の無いものの1位は『外見』、2位は『学歴』そして3位が『お金』でした。百歳まで生きたのですから、浮世の俗事はどうでも良いという心境は理解できますが、『外見』は必要でないと答えた、お爺さん、お婆さんに限って、若い頃はきっと美男、美女であったに違いない顔立ちの方が多いことに気づいて、笑ってしまいました。つまり、人間は、自分が保有するもの(外見、学歴、お金など)で、どれだけ恩恵を蒙ったかや、どれだけそれを利用してきたかを公平に判断することが難しいのではないでしょうか。金持ちに限って、『人生お金が全てではない』などと言いたがるものです。

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2007年1月23日 (火)

不老長寿の時代は来るか

数ヶ月前に、現在仕事を一緒にしている(とは言っても直接会うのは年に2~3回で、大半はメールで処理)米国人から、紹介されて、『The Singularity Is Near (Ray Kurzweil著)』という、コワイ本を読みました。

何故コワイかというと、数億年かけて、生物学的に進化してきた人間が、短期間の急速な科学技術の進化との組み合わせで、今世紀の半ばには、『生物学的な人間を越えた新しい種に変貌する』ことを、真面目に予測している型破りの本であったからです。
当然、この予測が当たるかどうかは、ITをベースにしたG(遺伝子工学)、N(ナノテクノロジー)、R(ロボット工学)の進化と、人間の脳のリバースエンジニアリングが鍵を握っています。

ビル・ジョイ(サンマイクロシステムズの創始者の一人、後にクリントン大統領へ米国のIT戦略について、答申をしたグループのリーダ)は、このGNRの研究を、人類を破滅に導かないために、即刻停止すべきと主張しています(Why The Future Doesn't Need Usという論文)が、この本の著者のKurzweil は、それにも反論しています。

私の乏しい知識では、この著者の主張が正しいのか、ビル・ジョイが正しいのか総合的に判別できませんでしたので、現役時代の職場の尊敬する大先輩で、素晴らしい頭脳の持ち主の方に、この本を紹介して意見をお聞きしましたら、『著者は、頭のいい人であることは認めるけれども、この本の内容は大法螺です』という回答が帰ってきました。梅爺は、依然として大法螺なのか小法螺なのか、判別しかねていますが、この本の主題は、Non-bio-intelligenceが人間のBio-intelligenceと組み合わされた時に、何が起こりうるかを予測したものと理解しました。
勿論、現在でも、あるレベルで、両者は共存しているわけですが、著者は、現在のNon-bio-intelligenceとは異なる、画期的なNon-bio-intelligenceが、今世紀の半ばには出現する可能性が高いと予測しています。
これが実現するベースとして、IT(情報処理工学)、G(遺伝子工学)、N(ナノテクノロジー)、R(ロボット工学)の進化と、人間の脳のリバースエンジニアリング(超並列処理によるパターン認識の新しいアルゴリズムを探る)の進展を挙げています。各領域が、『現状でどの程度のレベルまできているか』についても親切に詳述されていますので、この部分は梅爺にとっては勉強になりました。
特にNとRを組み合わせた、Nanobot (人間の体内に各種目的で送り込まれるロボット)というものが、どんなもので、何を目指して研究が進んでいるかを知って、驚きました。不治の病とされてきたものの治癒、壊れたり老化したりした細胞の再生などの可能性が述べられています。これが実現すると、論理的には、『人は死なない』ことになってしまいますが、近未来には、500歳程度までに、寿命は延ばせると著者は予測しています。

当然、色々な分野の学者や、識者が、著者を『短絡的な唯物論者』として批判・非難しているわけですが、著者は、それらに一つ一つ反論をしています。この部分は、正誤の判断はともかくとして、ディベートの下手な日本人の一人として、梅爺は興味深く読みました。各所に挿入されている、過去の偉人の言葉も、面白く読みました。例えば、以下のようなものです。

『人は自らの脳のからくりを解明するだけの能力を有していない(ダイクストラ)』
『物理学的に永久運動は、なりたたないことを物理学者は立証したが、生物が死ななければならない理由を生物学者は提示していない(ファインマン)』

知性の低い人が、『無謀なことを述べている』というより、知性の高い人が『大胆な仮説を提示している』ように感じましたので、大法螺かどうかの判断はできませんでしたが、梅爺は上質な推理小説を読むような気分でした。
しかし、21世紀の半ばまで、梅爺は生きていませんので、残念ながら、この本の真偽を、自ら体験できません。でも、人間が人間である内に、死ぬほうが幸せかもしれないとも感じています。

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2007年1月22日 (月)

梅爺の大学時代の同級生(在学時は24名、現在は2名が鬼籍に入り22名)は、毎年、1泊旅行を兼ねて、国内で同窓会を開催しています。昨年は、富山県に出向きました。観光移動中の貸切バスの中で、友人の一人から、『お前は神を信ずるか、またお前にとって、神を信ずるということと、神の存在を信ずることは同じことか』と、唐突で難しい質問を受け、一瞬当惑しました。他の仲間も加わって、文字どおり、その時は『神学論争(結論が出ずに、延々と続く議論の代名詞)』になりました。

梅爺は、特定の宗教の信仰者ではありませんが、神の定義によっては、無神論者というわけでもありません。

信仰を生活の中心において、素晴らしい感謝や精進の日々を送っておられる方にも、今まで沢山出会ってきました。雑念に振り回される梅爺には、とても真似ができませんが、自分とは異なった人生観、価値観の存在は、認め、かつ尊敬して対応してきました。多分、宗教の原点は、『理屈抜きに神(仏)を受け容れる』ことなのでしょうが、偏屈な梅爺には、この『理屈抜きに』が、なかなかクリアできません。

見聞きしてきた少ない情報源からも、『宇宙の営みの大元を司るある意図(ルール)』が存在するように、『感じて』います。この大元のルールは、多分『単純なもの』ですが、発生した事象の相互関連(干渉)で、私たちが接する事象は、複雑に見えるのではないかと、『漠然と感じて』います。大昔の人たちは、自分を外部からコントロールする『得体の知れない何もの』かを恐れ(畏れ)、『神』の概念を編み出したものと思います。時代と共に、多くの事象が解明されました。しかし、依然として『得体の知れない何もの』が存在し、梅爺はそれを畏れているということになります。

この、大元の意図(ルール)を、もし『神』と呼ぶのであれば、梅爺は、それを『信じない』理由を持ち合わせていません。しかし、この『神』が、人間のように『喜ばれたり』『悲まれたり』『お怒りになったり』するということは、梅爺の理解を超えています。ましてや、『地球の』『人間と言う生物の』『特定な人々(人種、宗教信仰者、宗教宗派)』だけを『愛(め)でる』ということは、受け容れることができません。

このような、ことを考えていましたら、『What God Wants(Neale Donald Walsch著)』という本に出会いました。この本の著者も、私と同じように無神論者ではありませんが、タイトルとなっている『神が望むこと』という問いに対する本の中の最終回答は、『Nothing』でした。つまり、人間に都合の良いように『神』は振舞わないということです。もしそうだとすると『神に祝福されるために、爆弾テロを決行する』ことなどは、無意味なことになります。梅爺と同じような考えを持つ人が存在することを知って、安堵しました。

『人がどう生きるべきか』は、もし、『神』を信じないにしても重要なことですので、人が(自分で)判断すべき課題として、一生梅爺に付いて回ることになろうと感じています。

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2007年1月21日 (日)

論より証拠

今回は、再び江戸いろはカルタに戻り、『ろ』の『論より証拠』の話。『頭であれこれ考えたり、口先だけで言うだけではなく、実際行動して結果を出すに限る』と言われてしまうと、『ごもっとも』と言わざるをえませんが、これが拡大解釈され過ぎて、日本人の中に『論を軽んずる』風潮があるような気がしています。本来、『論』と『証拠』は一対のものであって、『論』を立証するために『証拠』が必要となるものですので、『証拠』だけを独立させて重要視するというのは、おかしな話になります。

同様な話で、エジソンの発言と言われている『成功には、1%のひらめき(Inspiration)と99%の汗(Perspiration)が必要』を、多くの経営者が『ゴチャゴチャ言っていないで、行動して成果を出せ』と従業員に檄を飛ばす時に、誤解をして引用していることも気になっています。政治家などが好んで使う『汗をかく』という言葉使いも、多分『いやなことも率先して引き受けて頑張る』と言いたいのでしょうが、具体的に『何をするのか』を曖昧にするための方便として用いているように感じて、梅爺はあまり好きになれません。エジソンは、成功に費やされるInspiration(ひらめき)とPerspiration(汗:地道な努力)に関するエネルギの比率を、1:99と言っているだけで、Inspirationは『些細なもの』と否定しているわけではありません。むしろ、成功を得るための重要度(重さ)の比率で言えば、この比率は逆転することもありえます。InspirationとPerspirationは、『論』と『証拠』同様に、一対のものであり、一方だけを重要視するような発言は、誤解を招きます。

物事を始める前に、『何をどのように実現したいのか、そのことの実現にはどのような意味があるのか』を考えることは、決して些細なことではありません。梅爺は、45歳を過ぎたことから、仕事の関係で、米国のコンピュータ関連会社の多くの経営トップと接する機会が増えましたが、その中で、最も強い印象を受けたのは、彼らが、この、『何をどのように実現したいのか、そのことの実現にはどのような意味があるのか』に関する自らの深い見識を持ち、それを『平易な言葉で表現する能力』を保有していることでした。

『ゴチャゴチャ言っていないで、行動して成果を出せ』とだけ言って、社内の『論』や『Inspiration』を封じ込めようとする風潮は、日本にとって好ましいことではありませんし、世界に通用することでもありません。

『証拠より論』『PerspirationよりInspiration』という言い方も存在し、それもそれなりに重要な意味を持つこともあると、梅爺は考えています。

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2007年1月20日 (土)

ミラン・クンデラ

ミラン・クンデラというチェコの文学者とその作品を知っておられる方は、相当な文学通、読書好きの方と想像します。梅爺は、ジャンルを問わず乱読癖があり、文学にはとんと疎いのですが、どういうキッカケか、10年ほど前、米国出張の折に立ち寄った本屋で、この作家の『The Unbearable Lightness of Being』という本(チェコ語を英語に翻訳したもの)を購入し、すっかり魅了されました。無数の本の中から、知らない作家の本に手が伸びたのは、奇跡に近い偶然ですが、多分この本の洒落たタイトルが気に入ったからではなかったかと思います。この本は、日本では『耐え難い存在の軽さ』というタイトルで、翻訳本が売られています。

滋味深い本の内容を、短い言葉で説明するのは、おいしい料理やモーツァルトの音楽を説明するのと同様、梅爺には至難のことですが、ミラン・クンデラが、作中の人物の言動を通して主張する、洞察力と表現力に富んだ人生観に共鳴を覚えました。私の乏しい文学知識で、日本の作家と比較するならば、夏目漱石や丸谷才一の小説と類似しているかもしれません。

その後、5年ほど前に、また米国出張の折に本屋に立ち寄り、今度はミラン・クンデラの書籍が並ぶ書棚に直行して、『Immortality(日本で売られている翻訳本のタイトルは、不滅)』という本を買い求めました。私には、読みたい本を買ってきては積み重ね、どれから読もうかと眺めるのがすきという、変な癖があり、最近ようやく『Immortality』に順番が回ってきて、読み終わりました。

人間は、誰も死を逃れることができませんが、死後に不滅のものを残すことが出来るのか、というのがこの本の主題で、作中に、ゲーテとヘミングウェイが、仮想の会話を交わす(しかも、ヘミングウェイは老人、ゲーテは若者という設定で)場面があるなど、期待に反しない面白さで堪能しました。ミラン・クンデラは、普段私たちが何気なく見過ごしていることを、異なった見方で表現してくれ、これが梅爺にとっては、面白さの源泉です。以下は、その一例(梅爺のムチャクチャな意訳)です。

『ケネディ大統領の写真を、50枚ほど眺めてみて、どれも白い歯を見せて笑っているものばかりであることに気づいた。人が笑うと言う行為は、自分を理性でコントロールできなかった瞬間を意味し、ギリシャやローマ時代の人たちは、こういう自分をコントロールできない人間の状態に、美を感じなかった。その証拠に、シーザーの胸像も、ミロのビーナスも、笑ってはいない』

人間の価値観の推移を述べているというより、著名な米国大統領の『軽薄さ』をユーモアたっぷりに暗示しているところが、この作家の真骨頂です。

本屋で、ミラン・クンデラの小説を見つけたら、また迷わず買ってしまうような気がしています。

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2007年1月18日 (木)

Second Life続き

前回のブログで、米国『Second Life(架空環境で、化身の行動が可能なサイト)』内で行われたインタビュー(化身は中国人の女性の設定)に関して、同じくこの架空環境のなかで、インタビューを受けた女性を快く思わないグループの人たち(化身たち)が、性的嫌がらせの画像を流し、この様子が、現実環境のインターネットや新聞に報道されたために、主人公の化身を現実社会から操る人が、報道機関を『著作権侵害』で訴えた話を書きました。

この訴訟の話を報道したCNETが、訴えた張本人に独占インタビューをしている様子が、続編として報道されました。これを読むと、訴えた人は、『対応の方法が思いつかなかったので、著作権侵害で訴えたが、これは不適切であったと思い直し、訴えは取り下げた。架空社会の出来事と言えども、報道機関が伝える権利はあることは認めるが、報道で利用した素材(動画、写真)の内容は、性的嫌がらせの視点で許容の範囲を超えており、取り下げることを要求している。架空世界でも、現実世界と同様に、人権(化身権?)は認められるべきだ』と主張しています。

これに対して、『架空世界のことは、いってみればデジタル技術で描出(創出)したものなのだから、深刻に考えずに、コミックやパロディと思えば良いではないか』という主張もあるようです。

最初に、問題の動画を流した『YouTube(米国最大のビデオ配信サイト)』は、掲載をとり下げた(削除した)ようですが、『YouTube』の親会社である『Google』のビデオサイトには、まだ削除されずに残っていると報じられています。梅爺には、この動画を探し当てる元気もありませんので、確認していません。

梅爺自身は、この論争そのものより、『架空世界と現実世界の関係全般の推移』に興味があります。でも、訴訟について前に書いてしまった手前、その後の推移もお知らせしておく義務があろうと思い、追記しました。

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2007年1月15日 (月)

Second Life

今、アメリカで『Second Life』というウェブサイトが、人気急上昇中のようです。『Second Life』を『第二の人生』と訳すと、日本人には、梅爺のような現役引退後の悠々自適(汲々自適が現実かな?)の生活を思い浮かべますが、このアメリカのウェブサイトの意味は違います。

インターネットの架空環境の中に、化身(Avatarと呼ぶ)として入り込み、そこで、現実の自分とは違う生活を送る(架空の不動産の売り買いをしたり、好きな架空の衣装を購入して身につけたり、他の化身と会話したり)ことができるという趣向のようです。インターネット・オンラインゲームに類似した世界ですが、ゲーム制作者が策定したルールに従うという制約よりは、より生々しく化身を自分の分身として操れるという意味で、進化した架空(仮想)環境と言えます。格差が激しいアメリカで、アメリカンドリームを現実できない人たちが、このような架空環境で、富豪になったり、美人と恋を囁いたりすることを求めて、殺到するのかどうか知りませんが、日本人の梅爺には、なにやら『虚ろで哀しい世界』に映ります。

現実生活と仮想生活の境界が曖昧になることは、IT(情報処理技術)がもたらす影響の一つです。本来なら病院、学校、金融機関、役所に出向かなければ受けることが出来なったサービスを、自宅で受けることができるようになりつつあるのもそのためです。我が家では、米国アトランタに住む、息子夫婦や孫と『Skype(インターネット利用のテレビ電話機能)』を利用して、時折交信しますが、昔のように高額な電話代を気にせずに、しかもお互いの姿を見ながら『長電話』ができるのも、まさしくITのおかげです。しかし、この場合の『仮想』は『現実の代替手段』であって、『Second Life』のような『現実には存在しない架空世界』を体験しているわけではありません。

『Second Life』で問題になるのは、この架空環境の中で起きる事象に、現実社会のルールや法が適用されるかどうかということです。架空の売り買いとはいっても、現実社会のお金が利用されるのであれば、課税対象になるのか、犯罪的な行為が行われたら、どう処罰されるのかなど、思い浮かべるだけで切りがありません。

実は、この架空世界の中で行われた『インタビュー』が、あまりにもスキャンダラスであったために、その様子が、現実社会の新聞やインターネット・ビデオで報道されるという事態が発生しました。その際、化身の肖像権が侵害されたとして、化身を操る人間が、現実社会の報道機関を相手に訴訟を起こしました。『ITが生み出した架空世界と現実社会の関係』は、人類が始めて体験することですので、この訴訟がどのように扱われるのかは今のところ分かっていません。この種の問題は、これからも、まだまだ発生することになるのでしょう。

なんとも、ややこしい時代になったものです。梅爺には、自分の頭の中だけで、色々空想を楽しんでいた時代の方が、健全であったように思えますが、これは、爺さんの単なる懐古主義に過ぎないのでしょうか。

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2007年1月14日 (日)

誕生日

本日、梅爺はめでたく66歳の誕生日を迎えました。このブログには私生活の公開はしない方針でしたが、今日は特別な日ということで、例外的に本日のトピックスを記載します。

梅爺の息子夫婦は、米国アトランタ近郊に住んでいます。昨年のクリスマスには、孫(3歳男児)に梅爺と梅婆(家内)でプレゼントを手渡すために、アトランタまで出向きました。

Photo 

息子のお嫁さんは、毎年誕生日には欠かさず、プレゼントを贈ってくれます。今年も国際宅急便で、難しそうなパズルと、辛いもの好きな梅爺のために、メキシコ料理のスパイス3種がカードとともに届きました。パズルは、ボケ防止になりそうですし、スパイスは、好物のチリビーンズなどの料理に使えるので今から楽しみです。

200701141712000_1  娘は、都内の会社に通勤するのに、我が家(青梅)からでは遠いため、都内にアパートを借りて、一人住まいをしていますが、今日は、梅爺の誕生日ということで、帰省し、ロールケーキを焼いてくれました。

普段は偏屈爺さんの梅爺も、今日だけは家族の思いやりに感謝して、好好爺で過ごしました。

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2007年1月13日 (土)

先送り癖(Procrastination)

やらなければならないと感じながら、何となく気が進まずに先送りにしてしまう習性は、多かれ少なかれ誰にもあることですが、これを英語では、procrastination(動詞procrastinateの名詞形)という一言で表現することを、CNETという、主としてIT関連のニュース配信ウェブサイトを眺めていて知りました。ラテン語でproは、『先へ』、crastinusは『明日』の意味で、文字どうりに、『(今日できることを)明日に延ばす』ということになります。

記事は、カナダのカルガリー大学の先生が、procrastinationをいくつかの要素の関数として表現することを発表した、というものでした。要素そのものが、『達成感の大きさ』とか『緊急度』などという、絶対的な定量化が難しいものですので、関数と言っても、人間の行動科学の領域の話であり、各要素の相対的な関連を表したものです。今後の研究によっては、『一日寝太郎症候群』の人の治療などに、役立つかもしれません。

この記事の中では、procrastination に関連する人間のタイプを、以下の三つに分類(表現は私流の意訳です)されています。(1)何かを始めることへのハードルが高い人(慎重で小心な人に多い。始めてしまうと、困難があっても結構頑張るタイプ)(2)気軽に始めるのだが、うまくいかないことに遭遇すると直ぐ止めてしまう人(理想主義、潔癖主義な人に多い)(3)他の誘惑に直ぐ負けてしまう人(移り気、浮気性の人に多い)。私自身を自己分析すると、(1)と(3)が当てはまるように感じました。

企業、宗教、スポーツなどの世界で、目的に向かって効率よく、一途に努力することを求められる世界では、procrastinationは、諸悪の根源とみなされますが、人間は、睡眠やストレス解消などの休息を必要とする生き物でもありますので、『悪』と決めつけるのは、行き過ぎのように感じます。多くの企業戦士が、リタイア後の『人間らしい気ままな生活』に憧れるのも、人間の一つの生き方として認めてのことでしょう。地球上のどこかには、procrastinationという、言葉も概念も持たない部族が、存在するのではないかと、勝手に夢想しています。要は、自分の活きる目的、自分の弱さなどを承知して、どのようなバランスをとるかを、環境に応じて決める能力を、ある程度保有していれば、『健全』ということになるのではないでしょうか。

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2007年1月12日 (金)

IT(情報処理技術)の本質

初回のブログは、『江戸いろはカルタ』の『い』に関するものでしたので、引き続き『ろ』の『論より証拠』や、『は』の『花より団子』について、述べようと思いましたが、あまり芸がない話なので、これらは、またの機会に譲ることとして、今回は、梅爺が最も深くかかわってきた『IT(情報処理技術)』に関する話題です。『IT』は、非常に高度で複雑な各種技術の集合体ですので、『IT』と聞いただけで、自分の理解を超えた世界と考え、自分には無縁と考える方が多いことは承知していますが、『ITが社会や人間生活に及ぼす影響』ということになると、これは必ずしも技術論ではなくなります。誰もが自分にも影響が及ぶ問題として考えておく必要があろうと思います。

『技術論ではないIT論』にも、勿論技術に関する知識が要求されますが、世の中に、『全てのIT分野に精通した人』は、必ずしも存在するわけではありません。例えば、パーソナル・コンピュータを自在に操れるからと言って、その人が『ITに精通した人』というわけでもありません。『木を見て森を見ない』という諺があるように、『技術論ではないIT論』を展開するためには、大局的に『ITの本質』を理解し、この『本質(極めて定性的な表現になることが多い)』で、世の中の動きや、自分への影響を考えてみる必要があります。

梅爺が、約40年間、ITにかかわる仕事をしてきて、会得した『ITの本質』は、以下のようなものです。

● 手段(道具)であって、目的ではない。

● 道具として使う人に、知恵と能力を求める。

● 『現実環境』と『仮想環境』の融合をもたらす。

● 複雑なネットワーク構造を可能にする。

● 全ての情報処理を、デジタル形式で表現し、統合する。

● システムの全体責任が、曖昧になる。

● 情報処理にかかわるコストを低減する。

『なーんだ、当たり前のことばかりではないの。これだけのことを会得するのに、40年もかかったの』とおっしゃる方もおられようと思いますが、複雑でカオス(混沌)に見える事象を、『数少ない本質的な命題』で見直すことが重要と梅爺は考えています。この本質論で、ITの動向や世の中の変貌(制度やしくみの変貌なども含め)を見てみると、混沌が、混沌でなく見えてくることが多いからです。私も含め、IT論以外でも、日本人は、この『本質を把握してから議論をする』訓練が、あまりできていないように感じています。

『本質把握から出発した、ITのもたらすものの理解』に関する色々な話題は、今後のブログで、追々お話していきたいと思います。 

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2007年1月11日 (木)

犬も歩けば棒にあたる

ブログは、『自分の記録』でありますが、ある程度読んでくださる方のことを意識して書くことになります。そこで、当面は、『梅爺の行動記録(日記)』『梅爺の昔は良かったという回顧談(転じて、現代社会はけしからんと言う糾弾)』『梅爺の百科事典風の知識自慢』は避けて、見聞きしたことに関して『自分が独自に、どのように感じ、また考えたか』を書き記すことにしたいと思います。気取った言い方をすれば、『心象を描く』ことを心がけます。勿論、自分の知識や経験の範囲で考えることなので、専門家がご覧になれば、間違いや勘違いも多いだろうということは承知の上ですが、その分、梅爺には、少しばかり、勇気を必要とします。単なる知識や他人の意見の受け売りではない分、最低限の価値はあるだろうと思います。

ブログの『いろは』から始める、ということで、初回は『江戸いろはカルタ』の話。何度も聞いたことがあり、分かったつもりでいても、一つ一つ読み直してみると、日本人の庶民が生み出した処世訓として、なかなか味わい深いことに気づきます。綺麗事だけではない、人間の側面を見事にとらえていて、思わず笑ってしまうと同時に、こういう発想ができる日本人の一人であることに誇らしさも感じます。

でも、『い』の『犬も歩けば棒にあたる』は、意外な比喩の表現で、現代人は少し戸惑います。『犬も』の『も』と、『歩けば』の『ば』が、解釈の鍵のように思いました。つまり、『犬でさえも、外を出歩けば、何か災難に出会うもの。いわんや、人が世間に出て何かをやろうとすれば、必ず難題に出会うのは当然(出て行かなければ、災難には会わない)』ということでしょうか。

転じて、以下の二つの解釈が可能に思えます。『人生、何もしないで、ジッとしている方が無難(気負って冒険などしないほうが得策)』と、『どうせ何をやっても、問題には遭遇するのだから、そうと覚悟を決めてやれば良い』の二つです。全く両極の、ネガティブとポジティブな解釈ですが、60年以上生きてきた梅爺の好みの解釈は、後者です。

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