2020年1月30日 (木)

ブログの休止

当分の間、入院加療中につきブログを休止いたします。

再開出来るようになったら、経緯はご報告いたします。

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2020年1月29日 (水)

『侏儒の言葉』考・・『ユウトピア』(4)

繰り返しで恐縮ですが、昔誰かが『主観』で言いだした虚構の概念や虚構の因果関係を、やがて多くの人が『信じて』共有することが『主観の共有』です。

『桃太郎』や『かぐや姫』は、創り話の中の虚構の人物で、実際には存在しない人物であることは、多くの人の共通認識ですから、『主観の共有』とは言えません。

大人にとっては『サンタクロース』は、虚構の人物であるという共通認識ですから、これも『主観の共有』とは言えません。しかし、多くの子供にとっては、『サンタクロース』は、贈り物を持ってきてくれる実在の人物と『信じている』対象ですから、子供たちにとっては『サンタクロース』は『主観の共有』ということになります。

コミュニティのどのくらいの割合の人が『信じた』ら、『主観の共有』と言えるのかなどという基準はありませんので、何を『主観の共有』とするかは、微妙な問題です。

『侏儒の言葉』の表現を観る限り『芥川龍之介』は『ユウトピア』の存在は、『疑って』いると言えるでしょう。現代社会の多くの人も『ユウトピア』の存在を『疑って』いるように思えますので、『ユウトピア』を『主観の共有』とみなすことには、異論があるかもしれません。

しかし、『日本と言う国家』が存在することや、『一万円札には一万円の価値がる』ことを、『疑う』人はほとんどいないでしょうから、『国家』『貨幣価値』は強固な『主観の共有』ということになります。

それでは、『神』『霊』『あの世』はどうでしょう。

近世以前の人類にとって、『神』『霊』『あの世』は、強固な『主観の共有』対象でした。『神への感謝』『神への奉仕』が、人々の『生活』そのものであり、皇帝や王も、『神』の前にぬかずきました。芸術家も『神』を信じて、『宗教画』を描き、『宗教曲』を作曲しました。

災いの大半は『悪霊』がもたらすものと、人々は『信じて』いましたから、『悪霊』を封ずるための『加持祈祷』は、コミュニティの重大な行事として執り行われました。

死後に『あの世』があることも、『疑う』人はほとんどおらず、死への不安を人々は『安堵』に変えました。

『宗教』によって、人間社会に深く根付いたこれらの『主観の共有』が、現代でも大きな影響力を持ち続けていることは御承知の通りです。

近世以降、『宗教』と並んで『イデオロギー』も『主観の共有』対象として、人類へ大きな影響を及ぼし続けています。

『イデオロギー』と『宗教』は、同じように論ずる対象ではありませんが、『信じて』いる人たちで支えられているのは共通です。

それでも、近世以降『宗教』が提示する『主観の共有』が、人間社会で必ずしも『強固』と言えなくなったのは、『科学』が、『物質世界』の事象を解明し始めたからです。『科学』は普遍的な事実を提示しますから、『信ずる』対象にはなりません。

『神』『霊』『あの世』を、『疑う』人たちが増えつつあることに、『宗教』はどのように対応していくのか、梅爺の興味の対象です。

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2020年1月28日 (火)

『侏儒の言葉』考・・『ユウトピア』(3)

『ユウトピア』や『神』は、人間の『精神世界』が創出した虚構の抽象概念であろうと、梅爺は仮説を昨日述べました。梅爺の稚拙な理性が判断する限り、この『仮説』に矛盾を見出せません。

『ユウトピア』や『神』が、『物質世界』のどこかに存在するという『仮説』には、むしろ多くの矛盾を指摘することができます。

それでも、梅爺は『ユウトピア』『神』は実態として『存在しない』とは断言できません。論理的には『存在しない』ことを証明することは不可能であるからです。

人間の『精神世界』は、自由奔放に虚構の概念を創出できることが特徴です。

『安泰を希求する本能』を満たすために、虚構の概念や虚構の因果関係を『表現』することになります。

『願う』『期待する』『希望する』『祈る』などは、全て『安泰を希求する本能』がもたらす行為です。

『不思議なこと』『分からないこと』を私たちは、放置すると、『安泰』、が脅かされますから、何としても自分で納得できる『因果関係』を考え出そうとします。勿論それは『自分にとって都合が良いもの』になります。

『ユウトピア』や『神』は、『そういうものが存在してほしい』と『願う』人間の『精神世界』が創出したものに違いありません。

特に『神』は、それによって『不思議なこと』『分からないこと』の説明ができてしまうという、絶大な効果をもたらしました。全て『神の御業』『神の御意志』とすれば良いからです。古代の人が『天地(人間も含み)は神が創造した』と考えたのは、これに優る『因果関係』を思いつかなかったからです。梅爺も当時の人間であれば、それを『信じた』でしょう。

『精神世界』が考え出す『因果関係』は、『物質世界』を説明する『因果関係』のように、普遍的なものではありません。このため『精神世界』の考え出す『因果関係』は、自由奔放になります。『桃から男の子が生まれる(桃太郎)』『竹の中から女の子が生まれる(かぐや姫)』ことになります。

『人間社会』にとって重要なことは、『誰か』が主張し始めた『虚構の概念』『虚構の因果関係』に、多くの人が共感して『自分の考え方』として受け入れる(信ずる)という現象が起こることです。

これは『主観の共有』という現象で、一度『人間社会』に根付いた『主観の共有』は、大きな影響力を発揮し続けます。

『ユウトピア』は、『主観の共有』の一つの例です。

本来『主観』は『個性的』でバラバラなものですが、『人間社会』で、多くの人たちが『共有』すると、一色になってしまうという不思議なことが起こります。

『神』『国家』『貨幣価値』などは、『主観の共有』の中でも特に大きな影響力をもたらしたものです。 

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2020年1月27日 (月)

『侏儒の言葉』考・・『ユウトピア』(2)

私たちは『ユウトピアなど存在しないだろう』と『感じ』ますが、存在しないと断言できません。梅爺は『神は存在しないだろう』と『感じ』ますが、存在しないと断言できません。

断言するには、論理的で普遍的なルールで、『ユウトピアは存在する』『神は存在する』という『命題』が『偽』であることを証明しなければなりません。

『科学』や『数学』の世界は、普遍的な『真偽』を判定する場で、論理的で普遍的なルールが活躍します。

『物質世界(自然界)』は『科学』が探究する場ですから、『物質世界』の事象は『真偽』判定の対象になります。

『地球という惑星は球体である』という『命題』は、普遍的に『真』と判定できます。

それでは、何故『ユウトピア』『神』は、『真偽』の判定の対象にならないのでしょう。

梅爺が思いつく仮説は、『ユウトピアや神は、物質世界に実態が存在するものではなく、人間の精神世界が創出した仮想の抽象概念(虚構)である』というものです。

人類の歴史の中で、昔『誰か』が、『ユウトピア』や『神』という抽象概念を思いついて、『主張』したのであろうという推測です。

この主張は、周囲の人たちの『共感』を喚起し、やがて多くの人たちも、その抽象概念を支持する(信ずる)ようになったのでしょう。

『信ずる』は、論理的、普遍的に『真偽』が判定できないことに対して、『こうであろう』と判定を下す行為です。『信ずる』の反対の行為は『疑う』です。

私たちの周囲の事象で、『真偽』が判定できる事象は一部にしか過ぎず(大半は『物質世界』の事象)、ほとんどは『真偽』の判定ができない事象です。しかし、それでも『何らかの判定』を下して、先へ進むしかありませんから、私たちは『信ずる』『疑う』を多用しながら『生きる』ことになります。この習性は、人間ばかりではなく、他の動物も同様です。

『信ずる』『疑う』は、普遍的な判定ではなく、個性的な判定です。同じ事象に遭遇しても、Aさんは『信じ』、Bさんは『疑う』という違いが生じます。

『精神世界』は、このように『個性的』であると認識することが重要です。社会の中で、私たちは、自分の存在を周囲の仲間から認識してもらう必要があり、このために自分の『考え方』『感じ方』を『主張』することが大切になります。つまり、自分が何を『信じて』いるか、何を『疑って』いるかを表明することには大きな意味があります。この時に注意を要するのは、あくまでも個人的な見解を述べているだけで、『普遍的に正しい』ことを主張しているわけではないという認識です。

しかし、残念ながら多くの人たちは、この『個人的な判定』と『普遍的な判定』の違いが区別できず、『個人的な判定』を『普遍的な判定』と勘違いしてしまいがちです。

この結果、『私は正しい(正義)』『あなたは間違い(邪悪)』とののしりあうことになります。この大規模なものが『宗教対立』『イデオロギー対立』で、不幸なことに『戦争』にまで発展したりします。

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2020年1月26日 (日)

『侏儒の言葉』考・・『ユウトピア』(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』にある『ユウトピア』という一文に関する感想です。

原文は大変短い文章なので、全文を以下に紹介します。

完全なるユウトピアの生まれない所以(ゆえん)は大体下の通りである。―――人間性そのものを変えないとすれば、完全なるユウトピアの生まれる筈はない。人間性そのものを変えるとすれば、完全なるユウトピアと思ったものは忽(たちま)ち不完全に感ぜられてしまう。

『ユウトピア』は、古来人類が夢見てきた『理想郷』のことで、あの世の『天国』『極楽』もその一種ですが、あの世といった不確かなものではなく、この世で手っ取り早くそれを体験したいと、欲張って願ってきました。

『憂い悩み苦しみががなく、ただ心安らかに過ごせる場所』を願うのは、この世が憂い悩み苦しみに満ちているからです。

『釈迦』も『何故生きることは苦しいことなのか』という根源的な疑問に、答えを出そうと修行し、『煩悩を解脱した涅槃の境地』を見出しました。

『涅槃』は『ユウトピア』と言えますから、『煩悩』を解脱できれば『ユウトピア』を体験できることになります。しかし、それは『論理的な解』であって、人間の本性を考えると、『煩悩の解脱』は、不可能に近い無理難題ですから、仏教は、『限りなく煩悩の解脱のための努力を続ける』ことに意味があると説いています。具体的には『できるだけ邪心を排して、仏心に近づきない』ということになります。

『芥川龍之介』は『人間性』という言葉を使いながらその定義は示していませんので、推測するほかありません。

文脈を考えると『飽くなき欲望を有する』ことが『人間性』というようなことかと思いつきます。

『飽くなき欲望を有する』限り、一度『ユウトピア』と思ったものにもやがて不満を感じますから、『人間性』が変わらなければ『ユウトピア』は存在しないことになります。

『飽くなき欲望』をあきらめるとすれば、つまり『人間性』を変えるとすれば、本来『ユウトピア』でない不完全なものも『ユウトピア』として受け入れてしまうという矛盾に陥ります。

『ユウトピア』が『絵に描いた餅』であることは、現代人の多くは、『そうであろう』と感じていますから、『芥川龍之介』に『そのようなものはありませんよ』と言われても、特別驚きません。

問題は、何故古来人類が『ユウトピア』や『幸せの青い鳥』を夢見てきたのかということです。

梅爺がブログで論じてきた人間の『精神世界』の本質を理解すれば、これは容易に説明できることです。『精神世界』は自由奔放に、自分に都合のよい『虚構』や『因果関係』を創出することが特徴です。『神』『天国(極楽)』『ユウトピア』といった抽象概念を次々に思いついたことになります。

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2020年1月25日 (土)

江戸の諺『尻持って来る』

江戸の諺『尻持って来る』の話です。これは現在でも使われる表現で、『面倒なことの後始末をさせられる』という意味になります。もう少し直接的な表現では、汚い仕事をおしつけられるということで『尻ぬぐいをさせられる』になります。

物事がうまくいっている時には、誰もが自分の手柄のように得意げに振舞いますが、一旦事がうまく運ばなくなると、『これは元々お前が始めたことだから、自分で始末をつけろ』などと『尻持って来る』ことになります。

『嫌なこと』はできるだけ避けようとするのが人間の心理です。『安泰を希求する本能』が根幹にあるからです。

梅爺もこの性格が強く、子供のころは夏休みの宿題を、切羽詰まるまで放置する癖がありました。英語では、この『先延ばしにする』という行為を『concrastinate』という一つの単語で表現することを前に知り、ブログで紹介したことがあります。

しかし、世の中は梅爺のように、『先延ばし癖』のひとばかりではなく、『嫌なこと、気がかりなこと』から先に処置してしまう方も沢山おられます。

これも『嫌なこと、気がかりなこと』を放置することが『安泰を脅かす』と感ずることがそうさせるわけですから、『安泰を希求する本能』に由来することには変わりはありません。つまり、何を優先するかの『価値観』が違うということです。誰も自分を弁護したくなりますから、『腰の重い人』は、『腰の軽い人』を『せっかち』と呼び、『腰の軽い人』は『腰の重い人』を『ぐず』と呼びます。

しかし、公平に観て『腰の軽い人』最の方が、『ストレス』を貯めこまないという意味で、健全な生き方のように思います。

梅爺は、40歳から50歳までの10年間、毎年『青梅マラソン』に参加していましたが、このころは、日ごろのジョギングをトレーニングとして欠かさないようにしていました。その時の体調や、天候などでジョギングに出かけるのが『億劫』と感ずる日もありましたが、自分を鼓舞して続けていると、結果的に『達成感』『満足感』が得られるという実感を体験でき、その頃は自分の悪い『先延ばし癖』を克服しようと、仕事も『嫌なこと』を先にこなすような努力をしていました。

しかし、仕事をリタイアした今では、すっかり『先延ばし』爺さんに後戻りしてしまっています。

『尻持ってこられる』のは、ネガティブに考えれば悪い役回りを引き受けさせられるということになりますが、ポジティブに考えれば『この難局はあなたしか対応できない』という周囲の期待の表れでもありますから、見事にこなせば、周囲から更に尊敬され、一目おかれる人物になれるチャンスなのかもしれません。

世の中は『お互い様』『持ちつ持たれつ』ですから、『尻持ってこられる』のも時に『災い転じて福となす』ということになる可能性がないわけではありません。『お人よしを振舞う』『馬鹿を振舞う』のも賢い生き方かもしれません。

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2020年1月24日 (金)

江戸の諺『客すりおろす』

江戸の諺『客すりおろす』の話です。

現代ではあまり聞かない表現ですが、客をよってたかって喰い物にするというような意味なのでしょう。

金持ちでちょいと人の良い客を、おだてたりすかしたりして、出費させる光景が目に浮かびます。

原典の『諺臍の宿替』には、『幇間(たいこもち)』『仲居』『芸子』が、舟遊びでよってたかって『旦那』にたかる小噺が掲載されています。『旦那』も鷹揚(おうよう)に、『両足まではすりおろしても良いが、それ以上は立つところが無くなるからやめておくれ』などと対応しています。

この『旦那』は、自分が『すりおろされている』ことを承知で、その状況を楽しんでいるところがあり、このような『粋な関係』が江戸の人たちの好みであったのでしょう。

人は、他人から『褒められたり』『良く言ってもらったり』すると、『嬉しくなる』習性を有しています。『安泰を希求する本能』が満たされるからです。

子供の教育や、スポーツの指導でも『褒める』方が『叱る』よりも効果があると言われるのはこのためです。

上手な先生やスポーツのコーチは、『叱る』時でも、直接ではなく『あなたは素晴らしい。でもここを直せばもっと素晴らしくなる』などと表現して、マイナスをプラスに変えてしまいます。

『幇間(たいこもち)』などというのは、世界にあまり類をみない職業ではないでしょうか。外国のおどけ役『ピエロ』は、何か物悲しい雰囲気ですが、『幇間』はあっけらかんとしています。

『旦那』も『幇間』のお追従を承知の上で、『楽しむ』わけですから、『旦那』も『幇間』も舞台の上で自分の役どころを理解して『演じている』ようなものです。舞台を降りて、日常の世界に戻れば、両方とも普通の人間に戻るということになります。

しかし、世の中には、日常の生活の中で、『お追従』『ゴマスリ』をする人も沢山います。

『独裁者』の周りには、『イエスマン』だけが配置されることになりがちです。苦言や諫言(かんげん)をすれば、左遷させられたり、時には処刑されたりするからです。

『科学』や『数学』の世界では、普遍的に『正しい』事象は存在しますが、人間の『精神世界』の価値観が絡む世の中の事象の大半は、普遍的に『正しい』などと言えるものは、ほとんどありません。

『自分の考え方、感じ方』が『適切である』と、『信ずる』ことは、生きる上で重要なことですが、それを『普遍的に正しい』と誤解することは避けるべきです。

『他人の考え方、感じ方』に耳を傾ける度量が必要になります。

他人に合わせる必要はありませんが、他人と自分の違いを『認識』することは、人間関係の基本条件です。

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2020年1月23日 (木)

江戸の諺『身けずる』

江戸の諺『身けずる』の話です。寝食を厭わず、健康に差し支えがあるほど、何かに打ち込むといった意味の表現です。

『何かに熱中する』『誰かに尽くす』など、『精神世界』が最優先の『価値観』を見つけると、他のことが目に入らなくなり、命がけでそのことに打ち込むという人間の習性が背景にあります。

普通は『命』が最も大切なものですが、それ以上の『価値』を有するものがあると『信じ込む』わけですから、いわゆる『常識』とはかけ離れた行為です。

夢中のあまり『命』のことを忘れてしまうというケースと、『命』を損なうことを承知の上で事に当たるケースがあるように思います。

前者は、常識的な人には無謀な行為に見えますが、それほど打ち込める対象を持っていることに対しては『うらやましい』と感じたりもします。

後者は、余命わずかと宣告された役者などが、舞台を努めようとしたりする行為で、本人は『舞台で死ねれば本望』という『価値観』に突き動かされていることになります。周囲もその『役者根性』を称賛したりします。

何故人間の『精神世界』でこのようなことが起こるのかは、『精神世界』の『判断』に『信ずる』という行為が絡んでいるからです。

私たちは、周囲の事象を『自分にとって都合が良い』か『自分にとって都合が悪い』かを先ず本能的に判断します。生物の『生き残り』に重要な意味をもつ習性として、『生物進化』の過程で継承してきたものです。

周囲の事象の中で、客観的に『真偽』の判断ができるものは、『物質世界』の一部の事象に限られていて、大半は、客観的な判断をすることができません。

しかし、判断する方法がないからと言って、手をこまねいていたら、先に進めませんし、危険を招くことになりかねませんから、私たちは主観的に判断をくだすことになります。

主観的にポジティブな判断をくだす時に必要とされるのが『信ずる』という行為です。反対に、ネガティブな判断をくだす時に必要とされるのが『疑う』という行為です。

『神の存在を信ずる』『神の存在を疑う』などという行為が典型例です。

『客観的に誰もが納得できる判断』が好ましいと私たちは考えますから、『信ずる』『疑う』などという行為は、できれば避けたいと考える方もおられるかもしれませんが、そうはいきません。

私たちの周囲の事象は、『真偽を決めることができないこと』『先行きどうなるかわからないこと』で満ち溢れていますから、『信ずる』『疑う』を放棄しては生きていけないことになります。無神論者も『信ずる』ことを多用して生きています。

従って、『命が最も大切』などという判断を『信ずる』人だけでなく、『身をけずってもなし遂げたい大切なもの』を『信ずる』人が現れることになります。

主観的な判断は、人間を素晴らしい存在にも、恐ろしい存在にもします。常識的な人には『狂信』にとりつかれた人は、恐ろしく見えます。

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2020年1月22日 (水)

江戸の諺『ふところ子』

江戸の諺『ふところ子』の話です。『秘蔵っ子』という表現に似ていますが、ニュアンスはかなり違います。『猫っ可愛がる』『蝶よ花よと育てる』などという表現が近いような気がします。

子供が可愛いばかりに、世間の雨風にさらしてつらい思いをさせたくないと庇護する過保護な親の行為は、結局子供にとっても幸せな話ではないという意味が込められているのでしょう。

世間に出て、『良いこと』も『嫌なこと』も経験しながら、人は一人前になっていくという庶民の考えがあったのでしょう。『嫌なこと』に目をそむけていては、世の中に通用しないひ弱な人間になってしまうということでしょう。

人間の身体が、ある程度『バイキン』や『ウィルス』にさらされながら、『免疫力』を身につけていくということに似た話です。

逆の意味で『可愛い子には旅をさせよ』という諺があります。

私たちは『自然界(物質世界)』の中で生きていますが、『物質世界』は、私たちに『都合のよいこと』と『都合の悪いこと』の両方を必ずもたらします。

『物質世界』は、私たちを苦しめようと『都合の悪いこと』をもたらすわけではありません。『物質世界』は、『摂理』に従って絶え間なく『変容』しているだけで、たまたまその一部は『人間』にとっては『都合が悪いこと』であるにすぎません。

『物質世界』は『人間』のために存在しているわけではなく、私たちが『物質世界』の一部を『利用』しているだけのことです。

『人間』の『精神世界』は、願い事を沢山思いつき、『物質世界』に対しても沢山の願い事をしますが、願いがかなうなどということはありません。

地震や台風は容赦なく襲ってきますし、『雨乞い』の加持祈祷をしても、雨が降る保証はありません。

それでも私たちは、『五穀豊穣』『大漁豊作』などを願う『祭祀』を現代でも行っています。昔から継承されている『主観の継承』が、社会に根強く残っているからです。

『自然界』で生きている以上、私たちは必ず『都合の悪い事態』に遭遇します。『老化』『病気』などもこの類です。

一方、『人間社会』で生きることもか『都合の悪いこと』が必ず付きまといます。自分が願うように他人は自分を評価してくれないことが大半ですし、自分と『考え方』『感じ方』が異なる人に必ず遭遇し、対応に苦慮することになります。

これは『人間』が『個性的』であることに由来するもので、誰も避けることができません。

『自然界』で生きることも、『人間社会』で生きることも、このように『都合が悪い』ことに必ず遭遇するわけですから、これを避けては生きていけないことになります。

『ふところ子』が、結局子供を不幸にするということを、江戸の庶民は、直感的に理解していたに違いありません。

現代の方が、むしろ『過保護な親』が増えているように感じます。江戸の庶民より、人間の本質理解が劣っているためでしょうか。

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2020年1月21日 (火)

江戸の諺『両がけの芸子』

江戸の諺『両がけの芸子』の話です。一つの仕事では生きていけないので、もう一つ仕事をして生活を支える芸子(芸者)ということですから、三味線や踊りのお座敷芸に加えて、身を売るというような意味でしょう。

さしずめ、現代ならば本業のほかに副業のアルバイトなどで、身を支えるということに他なりません。

江戸の世では『芸者』は、それほど身入りの良い職業ではなく、普通に暮らせる庶民の優越感の裏返しで、このような表現が使われていたのか、自分も貧しく、副業でもしないと生きていけない庶民が自嘲的にこのような表現を用いたのか分かりませんが、少し物悲しい諺です。

江戸の世では『士農工商』という身分制度が行われていました。『士農工商』の身分の区分けと優位順序は、元々『儒教』の考え方ですが、武家政権であった徳川幕府にとっては、都合のよい精度であったに違いありません。

コメ本意経済であった当時は、殿様の禄高、武士の扶持高は、コメの量で表示されていましたから、コメの生産者である『農』を『士』の次に置いたのは、当然のことでしょう。

『農』の中も、『庄屋』『小作』と貧富の差があり、最も貧しい百姓は『水呑み百姓』などと呼ばれて、苦しい生活を強いられていましたから、ひとまとめにして『農』と呼ばれて『士』の次と言われても実感はなかったでしょう。

『工』は職人の階級で、『商(商人)』より上にランク付けされているのは、手に汗をして実質的な『モノ』を作り出すことを評価する『儒教』の考え方が反映しているのでしょう。

才覚だけでモノや貨幣を、右から左へ移し、利ざやを稼ぐなどという行為は、卑しい行為という『儒教』の考え方があるのでしょう。しかし江戸の経済の実権を握っていたのは『商』であるというのも皮肉な話です。結局社会を支えるのは『経済』であるという主張に説得力があります。

現在も、『実質(実体)経済』と『仮想経済』という考え方があります。『実質経済』は実態がある付加価値を生み出す経済行為で、生産にかかわる職業がこれを支えます。一方『仮想経済』は、目に見えない『付加価値』を生み出す経済行為で、『サービス業』『金融業』などがこれを支えます。『実質経済』は地道な稼ぎ、『仮想経済』は投機的な稼ぎのイメージがあります。

『仮想経済』は景気の影響を受けやすく、不況時には社会の経済基盤を脅かすことになりますので、不況になると、『実質経済』に重きを置くべき主張する経済学者が必ず現れます。

資源が豊富な国ならば『実質経済』に特化することができますが、日本のような資源に乏しい国では、『仮想経済』も無視できません。

ただし『仮想経済』にだけ依存することは、確かに危険ですの、バランスをとるということになるのでしょう。

多くの庶民が『両がけ』をしないと生きていけないという社会は、豊かさに問題があるということになります。

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