2019年11月22日 (金)

江戸の諺『親の面(顔)に泥塗る』

江戸の諺『親の面(かお)に泥塗る』の話です。

子供の不祥事で、親が世間に対する面子を失うという意味で、現在でも使われる表現です。逆に親の不祥事で、子供が世間から後ろ指を指させるということも起こります。

法的には、親子といえども独立した人格で、連帯責任を負う必要はありませんが、世間はそのように割り切った対応はしないのが通常です。

子供が不祥事を起こせば、親は世間に『申し訳ない』と謝罪し、世間は『親が甘やかして育てたことの因果』などと、憶測の『因果関係』を考え出して、親を糾弾します。

独裁者が支配する国家などでは、家族から一人でも『反逆者』が出れば、一族郎党全てを連帯責任で処刑するような、非道が見せしめとして行われたりします。

親子は、遺伝子的に近い関係にありますから、相対的に『似る』確率は高いと言えますが、『同じ』とは言えません。人間は生物として宿命的ん『個性的』に生まれてきます。

生まれつきの遺伝子の影響ばかりか、生後の生育環境も、『脳神経細胞ネットワーク』の形成に影響しますから、親子といえども『考え方』『感じ方』は『同じ』にはなりません。

親が期待するように子供は反応せず、子供が期待するように親も反応しません。

親子は他人同士より、強い『情感』で『絆』が形成されますので、他人同士なら『我慢』で済まされる『違い』が、そうはいかなくなり、深刻な愛憎劇に進展したりします。

私たちは、人間は一人一人『容貌』『体格』『能力』が異なっていることは、経験や体験から知っていますが、『考え方』『感じ方』『価値観』も異なっているとは、なかなか思い至りません。他人も自分と同じように『考え』『感じ』『判断している』と勝手に勘違いしてしまいます。

そして突然『違い』を突き付けられると、『愕然とした』『裏切られた』などと、相手を非難したりします。

更に、私たちは自分の『考え方』『感じ方』『価値観』が、『正しい』『最高のレベル』と思いがちです。つまり自分のレベルで相手を観ようとします。

『考え方』『感じ方』『価値観』は、目に見えませんので、このようなことになります。

世の中には、自分の『考え方』『感じ方』『価値観』をはるかに凌駕する高いレベルの『他人』がいるのであろうと『類推』できる人は、器の大きな人です。このような人は、他人に『畏敬の念』をもって接しようとします。『実るほど頭を垂れる稲穂かな』と言われるように、高いレベルの人ほど、自分を高く評価しません。

逆に、低いレベルの人ほど自分を高く評価しがちです。残念ながら、世の中にはあまり高くない自分のレベルで『傍若無人』に振舞う人が沢山いるのはそのためです。

人間や人間社会を理解する上で、人間は『個性的』に生まれつくという事実は、私たちが考えている以上に大きな影響力を持っていると梅爺は感じています。

世界中の人たちが、この意味を深く知れば、人間社会の争いの多くは、なくなるはずです。自分とは異なった『他人』と共存する以外に、私たちには選択肢がないということなのですから。 

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2019年11月21日 (木)

江戸の諺『男はあたってくだけ』

江戸の諺『男はあたってくだけ』の話です。現在でも『男ならやってみろ』『男は度胸』などと、『男』の奮起を促す表現はあます。

世の中の『大事』は、『男』の役割で、『女』は『内助の功』で『男』に従うものという、社会の通念(主観の共有)があった江戸の時代では、特に『男』の『潔(いさぎよ)さ』は『粋(いき)』とみなされたのでしょう。

そうはいってみても、そのような『圧力』に耐えねばならぬのは大変なことですから、『男はつらいよ』と言いたくもなります。

人間の『精神世界』の特徴の一つが『推論能力』で、その能力を駆使して『予測』を行います。目の前の近い将来については、他の動物も『予測』することはあるのでしょうが、人間は遠い将来までも『予測』の対象にします。

『推論』は『因果関係』を想定することが前提になります。普遍的に矛盾のない『因果関係』を『物質世界(自然界)』の事象の中に見出そうとするのが『科学』です。その普遍的な『因果関係』は『自然の摂理(ルール)』と呼ばれ、『科学』の世界では、『予測』はこの『摂理』だけを用いて行われます。単純な要因で、『因果関係』を論ずることができるケースでは『科学』は、かなり正確に『予測』できますが、それでも『自然界』の事象は、非常に複雑で多様な要因が絡みますから、『科学』といえども、正確な『予測』ができないことが大半です。『台風の進路』『地震の発生』『火山の爆発時期』などを、現在の『科学』レベルでは正確に言い当てることはできません。

一方、人間の思惑や価値観が絡む、世の中の事象を『予測』するのは、『自然界』の事象の『予測』よりもさらに難しくなります。

私たちは、懸命に『予測』を試みますが、現実には将来を正確に見通すことが『できない』という矛盾を抱えて生きています。言葉を変えると、私たちは『こうあってほしい』と将来について、『夢』『期待』『願望』を沢山抱きますが、『そうなる』という保証のない状況で生きていることになります。

私たちが『夢』『期待』『願望』を抱くのは、『安泰を希求する本能』が根底にあるからです。そしてそれらが実現してほしいと、自由奔放に考え出した『因果関係』を駆使して『予測』をします。多くの場合この『因果関係』には『科学』のルールのような普遍性はありません。自由奔放に考え出した『因果関係』は、自分に都合のよい『屁理屈』に過ぎないことが大半です。『あの娘が、私を流し目でみたから、きっと私に気があるに違いない』などという『予測』をすることになります。

現実には、私たちは将来を正確に『予測』することはできません。したがって、何か問題にぶち当たった時には、『挑戦する』『何もしない(現状に耐える)』『逃げる』の選択肢しかありません。

『当たってくだけろ』は、その選択肢の中の『挑戦する』ことを意味します。

自分の責任で、どの選択肢を選ぶかは、人間の問題で、『男』に限った話ではありません。『男』にそれを強いるのは、社会の価値観が背景にあるだけの話です。

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2019年11月20日 (水)

江戸の諺『犬の手も人の手』

江戸の諺『犬の手も人の手』の話です。

『猫の手も借りたい(ほど忙しい)』という表現がありますから、これをもじった洒落なのでしょう。『猫の手が人の手の代用になるなら、犬の手もつかえるだろう』と茶化しているのでしょう、

『諺』や『洒落』は、『言葉』を用いた『遊び』です。『人間』は特別に『遊び』を好む動物です。これは高度な『精神世界』を保有していることに由来するのでしょう。

『遊び』は『楽しさを味わいたい』という欲求が背後にあり、いつもの梅爺流に表現すれば『安泰を希求する本能』が根底にあるということになります。

謹厳実直な人は、『遊ぶのは時間の無駄、遊ぶ時間があったら勉強しろ』などとお説教を垂れますが、『遊び』は、人間が無意識に利用している『ストレス解消法』でもあり、必ずしも『無駄』ではありません。

『良く学び、良く遊べ』という表現は、人間の本質を見抜いた名言であるように思います。

特に、子供にとっては『遊び』は、『好奇心を満たすもの』『ルールを学習するもの』『応用知識を増やすもの』『人間関係を知るもの』『情感を豊かにするもの』などの意味があり、大人になるプロセスとして『脳神経細胞ネットワーク』を強化していく重要な意味を持ちます。『遊び』に熱中するのは、健全な子供として当然のことです。

大人にとっても『遊び』は、『息抜き』であり、ストレス解消の手段として有効なものです。面白いもので、『遊び』でストレスが解消されれば、今度は、ストレスを求めて人間は有意義な目的に『挑戦』しようとします。弓を緩めたり張ったり繰り返すのが人生の極意なのでしょう。

『遊び心』をもった大人は、どこか魅力的です。

『スポーツ』は元より『芸術』も、原点は『遊び』ではないかと思います。人間は、これらを高度に様式化して、『スポーツ』『芸術』にまで高めたのでしょう。

『ゲーム』『娯楽』『芸能』に私たちが熱中するのは、『遊び』が人間にとって切っても切り離せないものであることを示しています。

精神状態を『楽しい』状態に保つことは、対応するホルモンが分泌されて、代謝が進み、免疫力が向上するなど、肉体的に良い効果をもたらすことが、医学知識で分かってきました。『笑う』ことは、健康に良いということです。結婚式で、新郎新婦が『笑いの絶えない家を作ります』などと誓いますが、大変重要なことです。人の顔から『笑み』が消えると、何か深刻な問題が起こったりします。

人間は、周囲のものを何でも『遊び』の手段にしてしまいますが、時に『言葉の遊び』は豊富です。

『日本語』の特性を活かして、日本人は沢山の『言葉お遊び』を考え出しました。『しりとり』などは、外国の言語では実現できない『遊び』です。

『アナグラム(文字の位置を変えて異なった意味の言葉に変える)』や『回文(前から読んでも後ろから読んでも同じ文章)』などもありますが、『五七五』『五七五七七』にこだわる『俳句』『川柳』『和歌』『狂歌』なども『言葉の遊び』の典型例でしょう。 

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2019年11月19日 (火)

江戸の諺『背中に腹』

江戸の諺『背中に腹』の話です。

現代でも『背に腹は代えられない』と言う表現は使います。『大事のためなら少々の犠牲は覚悟しなければならない』『他のものでは代用がきかない』というような意味いなります。

もともとは、大切な『腹』を守るためなら、『背』を犠牲にするのは仕方がないということだったのでしょうか。

江戸の諺は、『諧謔精神』に富んでいます。世の中に『代用が効かない』ものは、いくらでもありますが、比喩に『腹』と『背』という、意表を突いたものを持ち出してくるところが、笑いを誘います。諺を、『まじめなお説教』と言うよりは、『偉そうに振舞ってみても、所詮人間の本性なんてやつはこんなもんでござんしょう』と笑い飛ばしているところが、梅爺の好みです。庶民が、人間の本性を鋭く感じとっているところに感心します。

高僧や儒学者が、『人間はこうでなくてはなりませんぞ』などと、いくら奇麗事の『お説教』をしても、庶民は、いざとなれば『背に腹は代えられぬ』のが人間であると、弁えていたのでしょう。

『大事のためなら少々の犠牲は覚悟しなければならない』と言われると、『ごもっとも』と思いたくなりますが、自分にとって『大事』と思い込んでいることが、客観的な視点で観ると実は『些事(さじ:ささいなこと)』である多々あります。

何故このようなことが起こるかと言うと、人間の『精神世界』の価値観の尺度は、個性的であって、『バイアス』がかかっており普遍的ではないからです。

自分を客観視して、自分にとって『大事』は、他人にとって『些事』であることに気づく人は『器の大きな人』です。

『人間』は、『自尊心』や『面子(めんつ)』を、『大事』にする習性があります。

『精神世界』の根底に『安泰を希求する本能』があり、周囲から自分が『ひとかどの人物である』と認められることを『願い』ます。それが自分にとって『安泰』であるからです。

したがって、他人から『蔑まされた』『無視された』『子供扱いされた』と『感じた』ときに、立腹のあまり『キレてしまう』人が沢山います。

他人が意図的に『蔑む』行為にでることはないとは言えませんが、多くの場合、それほど深く考えていない行為であったにもかかわらず、『蔑まされた』と『感じて』立腹することが大半です。

『夫婦喧嘩は犬も喰わない』などと言われますが、『夫婦喧嘩』の元の大半は、『自分がないがしろにされた(相手の言動が思いやりに欠けている)』と『感じて』、立腹することから始まります。『そんなつもりはない』と弁明すれば、更に『無神経だ』と火に油を注ぐことになりかねません。他人から見ると、『些事』で『犬も喰わない』ということに他なりません。

人間の『立腹』は、脳内に対応するホルモンが分泌される現象ですが、幸いなことに7秒くらい経つと、沈静化しますので、7秒我慢をすることが、知恵の一つになります。

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2019年11月18日 (月)

江戸の諺『首を長くして待つ』

江戸の諺『首を長くして待つ』の話です。

これは現代でも通用する表現で、朗報が届くのや、待ちわびた人が遠方から訪ねてくるのを、今か今かと心待ちにしている様子が目に浮かびます。

他の生物に優る能力として、『人間』の『推論能力』『予測能力』があります。

『人間』が考え出した『推論』の方法は、基本的に『演繹(Deduction)』と『帰納(Induction)』に区分されます。

『演繹』は、一つ一つの『正しい命題(理論)』を組み合わせて、新しい『正しい命題』を導き出す方法です。ここでの『命題(Proposition)』は、論理を表現した文章のことで、私たちが日常会話で多用する『命題(解決しなければならない問題)』の意味ではありません。

言葉はこのように、本来の使い方ではないにも関わらず、誰かが使い始めて流布してしまうと、一般に通用するようになってしまいます、基本的に言葉は、社会の約束事ですから、そのようなことが起こります。教養のある人は『命題にはそのような意味はない』などと指摘しますが、社会に定着してしまった約束事は、元には戻りません。

『演繹』を手っ取り早く理解するには、『三段論法』を典型例として考えればよいでしょう。

『動物は目を持つ』『人間は動物である』したがって『人間は目を持つ』といった論理展開が『三段論法』です。『動物は目を持つ』と言った表現が『命題』です。

『演繹』の落とし穴は、前提とする『命題』の中に『真』ではないものがあった場合です。上記の例でもし動物の中には目を持たないものが存在するとすれば、結論は『偽』に代わってしまいます。

他人を説得するときに、前提に『偽』の命題をそれとなく挿入して、自分に都合が良い結論を導き出し、それを利用しようとする人がいます。『神仏は人間を愛してくださる』『悪人も人間である』したがって『神仏は悪人も愛してくださる』という『三段論法』は、もし『神仏は人間を愛してくださる』という『命題』が必ずしも『真』でないならば、成立しません。『命題』の『真偽』を自分で判断することがいかに重要であるかが分かります。

『帰納』は、観察事項(事実)に例外がないことを確認して、個別の事例から『一般法則』を導き出す方法です。『Aさんが亡くなった』『Bさんも亡くなった』『過去に亡くならなかった人は存在しない』したがって『人は必ず亡くなる』という結論をえます。

『帰納』の場合、観察事項の『命題』が、一つ一つ納得できるものでなければなりません。一つでも納得できないもの(矛盾を含むもの)があれば結論は『真』とは言えなくなります。

『科学』は『演繹』『帰納』を駆使して、普遍的な『法則』を見出そうとする学問領域です。期待や願いと言った、非論理的要素は、『科学』の世界では通用しません。

しかし、人間の『精神世界』は、『安泰を希求する本能』に支配されていますので、『推論』『予測』に期待や願いが込められることになります。

『こうあってほしい』と願う故に、『首を長くして待つ』ことになります。

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2019年11月17日 (日)

『芸術』の政治的統制(6)

『独裁者の支配する国家』『独裁的政党が支配する国家』では、『信条の自由』『表現の自由』は優先されません。『独裁者』『独裁的政党』の権威が脅かされるものは、全て排除しようとするからです。

『全体』の秩序を守ることが最優先になり、『個』は自分を抑制しなければならなくなります。もし『全体』の秩序に異を唱えれば、『反社会的』と糾弾され、強制労働が科せられたり、処刑されたりします。『個』の言動は『秘密警察』に監視され、『恐怖政治』が支配することになります。

『梅爺閑話』の様な能天気で言いたい放題のブログを書いていたら、真っ先に糾弾対象になるでしょう。

このような環境下で、大きな『精神的苦痛』をこうむるのは、『宗教』『芸術』『思想』の関係者と言うことになります。

人類の歴史の中で、自分の考え方に従わない人たちを徹底粛清した『政治権力者』は沢山存在します。日本の歴史でもそのような『権力者』は皆無ではありません。近世以降では『ドイツナチスのヒットラー』『ソ連のスターリン』が最悪の例としてあげられます。

『独裁者』は、『恐怖』で他人を制御できると本当に思いこんでいるのか、それとも権力を維持する手段として『恐怖』を利用する以外の方法がないのか、分かりませんが『独裁』は陰湿な『恐怖政治』と結び付くことになります。そして『独裁者』の顔からも、支配される人々の顔からも、『本当の笑み』は消え失せます。『金正恩』『習近平』『プーチン』に梅爺は『能面』のような冷たさしか感じません。『本当の笑み』を感じません。

『精神世界』の自由な表現が、『資本主義にくみする退廃』『愛国心の欠如』とされ、多くのソ連の『芸術家』は、精神的苦痛に耐えかね『亡命』の道を選びました。梅爺の好きな『音楽』の世界では、『ストラヴィンスキー』『プロコイエフ』などがアメリカへ亡命しました。彼等は20世紀を代表する『大作曲家』の評価を現在得ています。エストニアの大指揮者『ネーメ・ヤルヴィー』一家も、アメリカへ亡命しました。その息子が、現在NHK交響楽団の首席指揮者『パーヴォ・ヤルヴィー』です。

亡命しなかった作曲家では『ショスターコヴィッチ』が有名です。『スターリン』に作曲のし直しを命じられたり、作品の演奏が禁止されたりしましたが、それでも演奏されることがないと分かっていても、作曲を続けました。当然、心の闇、絶望感などが表現されていて、現代の私たちの心に響きます。『スターリン』の死後、彼の作品の一部は『ソ連』でも演奏されるようになり、同胞の人たちにも感銘を与えました。

『芸術家』にとって、『政治的統制』は、存在が全否定されるような苦しみであったに違いありません。

しかし、『民主主義』体制でも、『芸術』は野放しの『自由』が許されるわけではありません。『公序良俗』という、社会の『主観の共有』があり、この一戦を越えると、社会から糾弾されることになります。『個』と『全体』の間の齟齬は、いつの時代、どのような体制下でも、程度の差はあれ存在するのです。

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2019年11月16日 (土)

『芸術』の政治的統制(5)

『民主主義国家』では、『基本的人権』として『信条の自由』『表現の自由』が法により保護されていて、それは好ましいことであると私たちは考えています。また『人は生まれながらにして平等である』という価値観も、好ましいとして受け入れています。

『天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず』などという『福沢諭吉』の言葉にも感銘を受けます。

しかし、『自由』『平等』『正義』などと言う概念は、それほど単純なものではありません。

たとえば『平等』のことを考えてみれば、現実に私たちは『生まれながらに平等』には創られていません。

『容貌』『体格』『知的能力』『運動能力』『情感能力』など、一人一人異なって生まれてきます。『生物進化』の過程で、そのように『個性的』につくられるように宿命づけられています。生き残りに適した資質の持ち主が、『種の継承』をけん引するという冷厳なルールがそこには働いています。自然界の生態系でも、冷厳な『弱肉強食』が支配しています。

『人間社会』は『格差』を是認することで成り立っています。『経済』行為などはその典型です。先進国は後進国の『低賃金』な労働力格差を利用します。

『民主主義国家』でも、『試験』『オーディション』『トライアウト』は日常的に行われ、『合格者』は『不合格者』より、有利な扱いを受けます。

『基本的人権』としての『平等』の概念を理解するには、人間社会が抱える『個』と『全体』の問題を認識しなければなりません。

本来個性的な『個』が集まって『コミュニティ(群れ、全体)』を形成した時に、『個』は個性的であるからと言って勝手気ままにはふるまえなくなりました。

『コミュニティ(全体)』の秩序を維持する為には、『個』が自分を抑制してまでも、従う必要がある『約束事』が出現しました。『法』『憲法』『倫理』『道徳』がそれに当たります。

無人島で一人暮らす『ロビンソン・クルーソー』には、『法』『憲法』『倫理』『道徳』などは不要です。

『個』の価値観と、『全体』の価値観が必ずしも一致しない『矛盾』を、普遍的に解決する『知恵』を人類は見出していません。多分これからも見いだせないでしょう。『法』『憲法』『倫理』『道徳』は、次善の策に過ぎません。その証拠に、『コミュニティ』によってこれらの内容は同じではありません。

それならば、『個』はいつでも『全体』のために自分を犠牲にして『泣き寝入り』しなければならないのかと言うと、そういうわけにもいきません。『個』の『安泰を希求する本能』は強固なものであり、『全体』のために自分の安泰が脅かされていると『感じた』ときには、大きな『精神的苦痛』を抱え込むことになるからです。

『格差』は認めざるを得ないものですが、『格差』がもたらす一部の人への『苦痛』を看過できないという『禅問答』のような論理が、『人間は生まれながらに平等』という思想の背景にあります。現実は『平等』ではないから、『平等』という考え方が必要であるという難しい考え方を、私たちは受け入れなければなりません。

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2019年11月15日 (金)

『芸術』の政治的統制(4)

『芸術』に類似したのので『芸能』があります。両者ともに『創造者(作者、演者など)』と『鑑賞者(読者、聴衆など)』の関係で成り立っているのは同じです。

違いは、『創造者』の制作動機にあります。『芸術』の『創造者』は、自らの気持ちや情感を表現したいという動機が優先しますが、『芸能』の『創造者』は、『鑑賞者』に『うける』ことを優先します。

『芸術』で『鑑賞者』が感動のあまり涙を流すことはありますが、『芸能』の場合は、『創造者』がしかけた『お涙ちょうだい』のしかけに、『鑑賞者』が狙い通りにはまって落涙することになります。

『芸能』は『娯楽』提供が目的になり、その分『大衆』が受け入れやすいものになります。

一方、『芸術』は、特定の能力を保有する限定された『創造者』と『鑑賞者』の関係で成立することになり、社会の中では『少数派』になりがちです。

ただし『芸術』と『芸能』の境界は、それほど明確ではなく、『芸術』の中にも『芸能』の要素が、『芸能』の中にも『芸術』の要素がないわけではありません。

一般論として『芸術』は『高尚』であり、『芸能』は『低俗』ということになるのかもしれませんが、それほど単純な区分けにはなりません。

『芥川賞』と『直木賞』のことを考えていただくと分かりやすいかも知れません。

『文楽』や『歌舞伎』は、もともと庶民の『大衆芸能』でしたが、洗練された高みを目指す努力もあり、現在では『伝統芸能』として、『芸術』に近いレベルの評価を受けるに至っています。一部の『ジャズ』は、『クラシック音楽』の領域と似たものになっています。

『低俗』のままでは飽き足らず、高みを目指そうとするところが、『人間』の素晴らしいところです。『伝統工芸』『茶道』『華道』『俳句』『和歌』『和食』など、精神性の高みを目指す努力が、日本文化の得に素晴らしいところで、世界に誇りうるものです。

『芸能』は『ビジネス』として『金儲け』が目的になりますが、『芸術』は『金儲け』が直接の目的にはなりません。しかし『芸術家』も生きていくためには『金』は必要であり、芸術行為が『金』になるなら、それに越したことはありません。

結果的に『金儲け』ができる『芸術家』は幸運な人であり、『金儲け』ができない『芸能人』は不幸な人と言うことになります。

人類の歴史に中で『芸術』と良好な関係を築いてきたと言えるのが『宗教』ではないでしょうか。『神仏を讃える』『霊を弔う』などという『精神世界』の情感を、『芸術家』の『信仰心』が表現し、『信者』はそれに『共感』して、結果的に『宗教』の基盤が強固なものになりました。『宗教』が本当に『芸術』の本質を理解していたかどうかは分かりませんが、結果的に『宗教』と『芸術』は、相互依存の関係を築いてきたことになります。

『芸術』の本質を理解しない『政治権力者』が出現すると、『政治』と『芸術』の間に深刻な問題が生じます。『政治権力者』は、自分の価値観で不都合と判断する『芸術』は弾圧の対象にし、都合が良いと判断する『芸術』は庇護の対象にしようとします。言葉を換えれば、『芸術』は『政治』の手段となり、『芸術の政治的統制』が始まります。

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2019年11月14日 (木)

『芸術』の政治的統制(3)

『群をなして生きる』ことを選択した『人間』にとって、『絆』が群のなかにおける『安泰』を確認する重要な要因になりました。『同窓会』『趣味の仲間の集い』『信仰の仲間の集い』『親しい老人の集い』などに、私たちが惹きつけられるのは、このためです。その場に身を置けば、『自分は一人ではない』という実感が得られるからです。

自分が帰属する『コミュニティ』に愛着を持つのも、『絆』の確認に起因する習性です。

『国のために身を捧げる』ことを『愛国心』と定義すれば、『道徳教育を強化して愛国心を高める』などの発想になるのでしょうが、『愛国心』は自分が帰属する『コミュニティ』への愛着であると定義すれば、ほとんどの日本人は本能的に『愛国心』を保有していることになりますから、『道徳』などを持ち出す必要はありません。

『オリンピック』や『ワールド・カップ』で『日本』が勝ち進めば、多くの日本人は熱狂します。

梅爺が現在でも『男声合唱』を続けているのは、『歌うことが好き』『より高いレベルの表現を実現できた時の満足感』もありますが、単純に『絆』の確認が大きな要因になっています。

『人間社会』で『芸術』が成立するには、基本的に『創造者』と『鑑賞者』の存在が必要になります。

もともと、『群のなか』で、『自分が考えていること、感じていること』を何としても表現したいという本能が、『創造者』の動機になっています。一般論でいえば『人間』は誰もが『創造者』の資質を保有していると言えます。

やがて特別に仲間の注目を集める『表現』をする人が現れ、それが『芸術』の『創造者』の原点となったのでしょう。

仲間が『注目』したのは、『創造者』の『表現』に触発されて、仲間の『精神世界』が『感動』や『共感』を覚えたからです。この仲間の体験が『鑑賞者』の原点になりました。

『芸術』は、『創造者』の能動的な『表現』が、『鑑賞者』の中に受動的ながら、今まで体験したことがない新しい『感動』『共感』を誘発し、両者の間で深い『絆』が確認されるといった行為を意味します。

『芸術』は、肉体的な空腹を満たしたり、寒さから身を守る手段にはなりませんが、『心』の渇きをいやすという高度な『絆』の確認を実現します。

『肉体的な安泰』『精神的な安泰』を、車の両輪のように必要とする『人間』にとって、『芸術』は何故必要とされるのかがお分かりいただけたでしょうか。

ただし『芸術』は、高いレベルの『絆』の確認を追い求めますから、そのようなことに興味を示さない、『名作』『名曲』『名画』などに無関心な人たちが存在するのも、当然のことです。その人たちは、低俗な娯楽で『絆』を確認していることになります。人間の『精神世界』は『個性的』であるからです。

高いレベルの『絆』を求める人が、どのくらいの割合で社会に存在するかが、その社会の成熟度の目安になります。文化の進化は、高いレベルへ移行することであるからです。

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2019年11月13日 (水)

『芸術』の政治的統制(2)

『芸術』が何故『人間』にとって重要な意味をもつかは、『安泰を希求する本能』が『人間』を支配していると考えないと見えてきません。

勿論、『人間』だけでなく、あらゆる『生物』は、『安泰を希求する本能』に支配されています。『生物進化』の過程で、『個』や『種』の生存確率を高めるために、最も重要な要因であったからです。『安泰を希求する本能』の資質を強く保有する遺伝子をもつものが、生き残ってきたと考えられます。『人間』は、その資質を継承しているに過ぎません。

『脳』の進化で、高度な『精神世界』を保有するようになった『人間』は、『心身ともに健やか』が『安泰』の要件になりました。つまり、『肉体の安泰』『精神の安泰』を両輪のように必要とする存在になりました。

もっとも、『イヌ』や『ネコ』も、急激な環境の変化がストレスになって、『病気』になるところをみると、『人間』と同じレベルではないにせよ、何らかの『精神(心)』』を保有していると推測できます。

『生物進化』を考えれば、『人間』だけが『精神』を保有していると考える方が不自然です。ただそのレベルが大きく異なるということなのでしょう。

もう一つ、『芸術』を考える時に重要な要因は、『人間』が生物として『群をなして生きる』という方法を選択したことです。

『群をなして生きる』ことを選択したのは、生物として『人間』だけではありませんが、高度な『精神世界』を保有するようになった『人間』にとって、『群をなして生きる』は『個だけで生きる』のとは異なった『資質』を求められることになりました。

一般論としては、これは『人間』だけの問題ではなく、『群をなして生きる』生物にとっても共通の同様です。

『人間』の高度な『精神世界』は、『群をなして生きる』上で、『人間』独特の『資質』を獲得、継承していくことになりました。

ここでも『安泰を希求する本能』が強く働きました。『群』の中で『安泰』が脅かされるのは『仲間はずれ』にされてしまうことで、何としても『自分の存在を仲間に認めてもらう』ことが必要になりました。

そのために『他人がどう考えているか、どう感じているか』を『知る』ことと、『自分がどう考えているか、どう感じているか』を他人に『知ってもらう』ことが重要なカギを握ることになります。

『コミュニケーション』能力は、このようにして養われて行きました。『言葉』『言葉以外の表現(音、絵、造形)』『顔の表現』『身体のジェスチャー』などあらゆる手段が『コミュニケーション』のために駆使されました。

私たちが現在でも『絆』にこだわるのは、この基本的な『資質』を継承しているからです。『絆』を確認することは、『群のなかのでの安泰』を確認することです。

『孤独』や『仲間はずれ』が、『人間』にとって大きなストレスになるのはこのためです。

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