2019年9月18日 (水)

『侏儒の言葉』考・・『恋は死よりも強し』(4)

『生誕(受胎)』『生命の維持(生きる)』『死』は、『物質世界』の事象として観れば、『摂理』のみに支配されて繰り広げられる『動的な変容』にしかすぎません。

しかし、人間の『精神世界』は、これらに特別の『意義』『目的』『あるべき姿(理想)』を付与して観ようとします。

単なる偶然の『動的な変容』などと言われては、『不安』『不満』ですから、何としても『意味のあるもの』にしたいと『願う』からです。

中でも『死』は、人間にとって最も厄介な事象です。どんなに『願っても』それを回避できないと観念せざるを得ないものであるからこそ、逆に『特別な意義』を見出そうとします。最も影響力の強い事象であると認めざるを得なくなると、『いやいや、死よりも更に強い影響力を持つものがある』と言いだして、『死』を相対的に軽んじようとしたりします。『恋は死よりも強し』などという表現は、そのように生まれます。

『精神世界』は、『どちらが正しいか』『どちらが強いか』などと、白黒の決着をつけようとします。それで『安泰』が得られるからです。

しかし、残念ながら世の中の事象の大半は、特に人間の『精神世界』の価値観が絡む事象は、『どちらが正しいか』『どちらが強いか』などと判定することはできません。

現実には、白黒の決着はつけられないにも関わらず、白黒の決着をつけないと『精神世界』の安泰が得られないという矛盾を抱えながら生きていることを、冷静に見つめることができる人は『器の大きな人』です。

多くの人は、どのような問題にも必ず『正解』があるはずだと、勘違いしています。学校のテストでは必ず『正解』があったことから、そういう勘違いが助長されてきたのでしょう。自分は『正解』を知らないけれども、『正解』を記述した本があるはずだ、『正解』はネット検索でみつかるはずだ、『正解』を知っている人がいるはずだと、助けを外部に求めようとします。その結果、テレビに登場する『専門家』『解説者』のことばを鵜のみにしたりします。

『賢明な人』は、外部の『助け』は参考にしますが、最終的には、自分の持てる能力を総動員して、自分なりに矛盾が少ないと思える『答』を見出そうとします。その『答』には、自分の個性的な『価値観』が関与していることも承知していますから、その『答』が『正しい』などと主張することには極めて慎重な姿勢をとります。常に他人が提示する『答』にも注意を払い、自分の『答』よりは矛盾が少ないとすれば、自分の考えも柔軟に修正しようとします。

『芥川龍之介』が、人間の根幹は『感傷主義』であるというのも、『理想的な状態にある自分を夢想しながら生きる』ということなら、それも『安泰を希求する本能』から派生したものと言えます。

『感傷主義』が根幹にあるのではなく、『安泰を希求する本能』が根幹にあると考えた方が矛盾が少ないという梅爺の考え方は、依然変わりがありません。

| | コメント (0)

2019年9月17日 (火)

『侏儒の言葉』考・・『恋は死よりも強し』(3)

『精神世界』を根底で支配しているものの一つが『安泰を希求する本能』であろうと、梅爺は何度もブログに書いてきました。これは『仮説』ですが、このように考えるとに矛盾は見いだせませんので、梅爺は気に入っています。

『安泰を希求する本能』は、生物が生き残りの確率を高めるために、周囲の事象が『自分にとって都合がよいものか、悪いものか』を最優先で判断することとも言い換えることができます。これが『好ましい(好き)、好ましくない(嫌い)』という情感を生み出しています。この『好き、嫌い』の判断を最優先する習性は、原始的な生物の時代から、継承されてきていますので、『ヒト』だけが持つ習性ではありません。

このように『ヒト』の『脳』は、根底に『情感』による判断があることを理解する必要があります。

その後『ヒト』の『脳』は、高度に進化し、『理』で判断する習性も、追加されました。『理』の判断とは、『因果関係を特定して納得しようとする』習性のことです。これによって『判断ミス』が減少し、生き残りの確率が高まることになるからです。

『生物進化』の過程で、『理』による判断能力は、後から追加されたものであることは、その機能が『脳』の表面に近い『大脳皮質』で行われていることで分かります。

一方、『情』による判断能力は、より原始的であるために、最初に形成された『脳幹』の部分が関与しています。

私たちは、日常周囲の事象を判断するときに、上記の『情』による判断と、『理』による判断を、意識的に、また無意識に巧みに組み合わせて使っています。しかし、『生物進化』の名残が強いために、最初の判断は『情』による判断であることが大半です。

先ず『好き、嫌い』『都合の良し悪し』で判断し、その後『なぜ好きなのか』を『理』による『後付け論理』で補強しようとします。『情』による判断は『理屈抜き』ですから、それ自体は『何故か』と問われても答に窮します。

『精神世界』にとって、『分からないこと』『不思議なこと』は、放置すると『不安』を助長しますので、何とか『因果関係』を考え出して納得しようと(安泰を得ようと)します。このような人間の習性が、『科学』『哲学』『文学』『宗教(教義)』を生み出し、それが文明を進展させてきました。

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』も、梅爺の『梅爺閑話』も、『安泰を希求する本能』から派生した著述であるといえます。しかし、その内容は『精神世界』の『個性』を色濃く反映したものですから、『同じような考え方』『同じような感じ方』になるとは限りません。ですから、『どちらが正しいか』などという議論は、意味がありません。

| | コメント (0)

2019年9月16日 (月)

『侏儒の言葉』考・・『恋は死よりも強し』(2)

人間の『精神世界(心)』は、私たちがそれを所有していると自分では実感はできますが、目で観たり、触ったりして確かめることができないものです。自分が『精神世界』を所有している以上、他人も所有しているに違いないと推測はできますが、その内容を知ることは非常に困難です。

唯一、他人が自らの『精神世界』を、何らかの方法で『表現』してくれた時に、それを手がかりにして『なるほど、そういう風に考えているのか、感じているのか』と他人の『精神世界』の一面を知ることができます。

『芸術』は、『創作者(芸術家)』の『精神世界』の『表現』で、『鑑賞者』は自分の『精神世界』でそれを『評価』し、『共鳴』したり『感動』したりします。『精神世界』を利用した『絆の確認』が『芸術』の本質です。

『絆の確認』は、生物として『群をなして生きていく』方式を採用した『ヒト』にとって、『安泰を確認』するために重要な意味を持ちます。『群の一員であると存在が認められる』ことが、生き残りに関係するからです。『芸術』を何故人間は必要とするのかの答がここにあります。『芸術』は空腹を満たす手段にはなりませんが、『精神世界』の『安泰(満足)』を満たす手段になるからです。

『精神世界』は、直接目で観たり、触ったりできないものなので、『仮想世界』のような存在ですが、実は『物質世界』に属する実態である『肉体』や『脳』が土台に無ければ存在できないものであることを理解しておく必要があります。

端的にいってしまえば、『脳』が存在しなければ『精神世界』は存在しないということで、『死』で『脳』が機能停止した時点で『精神世界』も消滅します。

『芥川龍之介』の『死』と同時に、『芥川龍之介』の『精神世界』は消滅しましたが、彼が残した文学作品(『侏儒の言葉』のような)を介して、私たちは、『芥川龍之介』が生きていた時に所有していた『精神世界』の一面を垣間見ることができます。このように過去に存在した『精神世界』は、まさしく『仮想世界』ですが、それも私たちは『精神世界』と呼びますので、ややこしい話になります。

そういう意味で、私たちは『ダ・ヴィンチ』『バッハ』『モーツァルト』『ゲーテ』の『精神世界』の一端を垣間見ることができます。

現在生きている人の『脳』が創出している『精神世界』と、死者が生前に『脳』で創出していた『精神世界』を同じ『精神世界』という言葉で呼ぶことの違いは、『活火山』と『死火山』を、同じく『火山』と呼ぶのと似ていますから、『活精神世界』と『死精神世界』と区別したほうが分かりやすい時もあります。

生きている人の『活精神世界』の観察は『動画』を観るようなもので、絶えずダイナミックに変動していて観察が難しいものですが、死者が残した『死精神世界』は『静止画』を観るようなもので、ある意味じっくり観察が可能です。

いずれにしても、『精神世界』は、『脳』が基盤にありますので、『脳の生物進化』と『精神世界』は深くかかわっています。

| | コメント (0)

2019年9月15日 (日)

『侏儒の言葉』考・・『恋は死よりも強し』(1)

『芥川龍之介』の『侏儒の言葉』にある、『恋は死よりも強し』というエッセイに関する感想です。

『恋は死よりも強し』という表現は、モーパッサンの小説に出てくるものと紹介されています。

『死』より強いのは、別に『恋』ばかりではなく、『食欲』『愛国心』『宗教的感激』『人道的精神』『利慾』『名誉心』『犯罪的本能』など数え上げればきりがないと書いています。

つまり、『死に対する情熱』だけを例外として、その他のあらゆる『情熱』は、『死』より強いものだと述べています。

そして我々を支配しているものは、フランスの小説『ボヴァリー夫人(フローベル著)』の主人公のように、自身を伝奇の中の恋人のように空想する『感傷主義』であると書いています。

『ボヴァリー夫人』は、田舎の退屈な生活に飽き飽きして、華やかな生活を求めて都会へでますが、不倫や借金の問題を抱えて、最後は服毒自殺するというストーリーです。

『死』より最も強いものが『恋』と言えるかどうかは別として、『死』より強いものが存在することは認めたうえで、我々を支配している大元は『感傷主義』であると断じています。

『恋は死より強し』ということは、『恋が成就するならば死んでもよい』『愛する人のためならば自分の命は捧げてもよい』というような、『死』より『恋』の価値観を優先することを言うのでしょう。

本来、『死』と『恋』は直接比較することができない概念です。比較する為の普遍的な尺度が無いからです。

しかし、私たちの『精神世界』は、これを『価値観』という尺度で、比較の対象にします。この『価値観』という尺度は、普遍的ではなく『個性的』なものですから、『ある人の価値観ではそのように言える』ということにすぎません。

言い方を変えると、私たちの『精神世界』は、『個性的な価値観』で、どんなものも比較の対象にすることができます。典型的な例をあげれば『命は地球より重い』などという表現がそれに当たります。

『侏儒の言葉』で述べられていることの大半は、『芥川龍之介』の個性的な『精神世界』が下した『判断』『評価』であるということになります。『芥川龍之介』がどのような人物であるかを私たちが『判断』『評価』するうえで、これらは有益なものですが、『芥川龍之介』のような偉大な作家が言っていることなので、この『判断』『評価』は『正しい』と短絡的に『受け入れる(信ずる)』必要はありません。

もちろん『芥川龍之介』の『判断』『評価』に『共鳴』する方がおられるのも当然ですが、自分の『価値観』とは『違う』と梅爺は感じています。しかし、梅爺は『芥川龍之介』の存在を否定するつもりはありません。偉大な才能に敬意を表した上で、『価値観が違う』と感じているだけです。『精神世界』が個性的である以上、これは当然の話です。

| | コメント (0)

2019年9月14日 (土)

精神の病と遺伝子の関係(2)

『一卵性双生児』で、二人とも『自閉症』が発症する確率は30~90%、『統合失調症』では40~60%とエッセイには書いてあります。

更に沢山の家族を対象に行った『自閉症』や『統合失調症』の発症に関する研究でも、特定の遺伝子の『突然変異』『挿入』『欠落』『複製回数』などが、直接の原因であるという証拠は得られませんでした。

これらのことは『精神の病』を、『遺伝子』の特定で見つけることや、治すことが難しいことを示しています。しかし、『遺伝子』は無関係であるとも断定できませんので、この問題がいかに難しいかが分かります。

『躁鬱病』も、厄介な『精神の病』の一つで、アメリカでは1500万人の患者がいますが、20%の人たちには、『抗鬱剤』が効かないとエッセイは書いてあります。『前頭葉』に電気的刺激を与える治療法が、一部の『躁鬱病』の患者に、劇的な効果を表すことが最近分かってきました。『脳』への電気的な刺激が、『躁鬱病』の根底にある、『不安の感情』を『安泰の感情』へ変えるためと推測できますが、『どうしてそのようになるのか』の因果関係は分かっていません。電気的刺激ではなく、『脳』の特定の部位に、レーザー光を照射すると、症状が良くなる場合もあることも分かってきました。『パーキンソン病』のような難病にも効果が認められています。しかし、これも今のところ経験則による対症療法で、何故効果があるのかの理由は分かっていませんし、当然誰にも効くわけではありません。これらのことも『個性』が関与している証拠で、一律の対応方法で問題が解決できないことを示しています。

『精神の病』は、『脳の基本機能』が損なわれて起きる場合と、損なわれてはいない場合に分けて考える必要があるのではないでしょうか。

損なわれていない場合は、基本的には機能しているにも関わらず、何らかの理由で『不安』の情感を促すホルモンが分泌され続けていて、『安泰』の情感へ復帰できないことが起きていると推測できます。『躁鬱病』の多くはこれに相当するのではないでしょうか。

誰でも一時的に『不安』の情感を持つことはありますが、多くの人の場合、それを促すホルモンの分泌は、逆に『安泰』を促すホルモンで緩和され、『不安』は時間とともに薄らいでいくことになります。

つまり、『躁鬱病』の軽い症状は、程度の差はあれ誰もが体験しているにもかかわらず、幸いそれを『病気』と感じないで過ごしているだけのことではないでしょうか。

逆にいえば、不幸にしてそれが重い症状になって出てしまう『個性』のひとが、『躁鬱病』と診断されてしまうのでしょう。

『遺伝子』との関連も含め、『精神の病』の研究は、その歩みが遅いとはいえ、着実に進んでいくことでしょう。

『脳』の全貌が明らかになることは、人類にとって幸せなことかどうかは、また別の問題です。『宗教』や『芸術』で『神聖』と言われていたものの実態が明るみに出てしまうかもしれないからです。

 

 

| | コメント (0)

2019年9月13日 (金)

精神の病と遺伝子の関係(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の95番目のタイトルは『The failure of Genomics for mental disorders(精神疾患の原因となる遺伝子欠陥)』で、著者は精神科医の『Terrence J.Sejnowski』です。

『脳』の機能が関与する、『自閉症』『統合失調症』『躁鬱病』などの精神的な病については、多くの究明努力がなされていますが、現時点では単純な『因果関係』で、病因を特定したり治療したりすることに成功していません。

遺伝子が関与しているらしいことは分かっていますが、特定の遺伝子の『欠陥』が、病因であるとは単純に言えないということです。

『脳』の特定部位だけを観察しても、病因は特定できず、複数の部位を同時に観察して、機能の相関関係を見極めないと、病因は見えてこないであろうと推測できますが、そのような観察、分析技術は、残念ながらまだ確立できていません。

もちろん、生後の外部成育環境も、無関係ではありませんし、何よりも、『脳神経細胞ネットワーク』や生育環境は、一人一人異なりますから、精神的な病の背景も個性的であり、単純、一律な診察や治療が存在しないことになります。

エッセイの著者は、問題の難しさをや、解決に程遠い現状を説明し、楽観的な期待にくぎを刺しています。

私たちは、身内に『自閉症』『統合失調症』『躁鬱病』の人を抱える人を知人や友人に持っており、その悩みや生活上の負担も知っていますので、解決はまだほど遠いといわれると、心が暗くなります。

『自閉症』は、8歳以下の子供の1%に発症し、一人あたりの社会負担額は、年額320万円(アメリカの場合)で、これはその人の一生続くことになるとエッセイには書いてあります。アメリカの『自閉症』に関係する国費負担は、毎年350億円になります。

『統合失調症』は、人口の1%の割合で成人初期で発症し、一人あたりの社会負担額は年額320万年で、アメリカの国費負担は毎年330億円になります。

アメリカが、アフガニスタンに費やしていた戦費は、年額1000億円でしたから、『自閉症』『統合失調症』は、観方を変えれば、国家は他の『戦争』を同時に闘っているとも言えます。

身内の方の精神的な負担は、金額には換算できませんし、その生活にも深刻な影響を及ぼしていますから、そのことも重視しなければなりません。

『循環器系疾患』や『ガン』も、人類にとっては大きな問題ですが、病因や対応方法は、『精神的な病』よりは、まだ進んでいます。

『脳』やそれが創りだす『精神世界』の科学的な解明は、少しづつは進んでいますが、人類にとってまだまだ未知の領域です。

『宇宙』よりも、『脳』や『精神世界』の究明は、更に難しいであろうと、多くの科学者が観ています。一つの大きな原因は、『脳』や『精神世界』が個性的であることです。常に『一般論』と『各論』を併用しながら進めなければならないことになるからです。

| | コメント (0)

2019年9月12日 (木)

江戸の諺『頭を丸める』

江戸の諺『頭を丸める』の話です。『坊主頭になる』ことで、『出家して仏門に帰依する』ことを本来意味します。

しかし、江戸の人たちは、この諺を『猛省する』『罪滅ぼし(謝罪)の意を示す』といった意味の比喩で使っていたのではないでしょうか。本当に『坊主頭になる』わけではありません。

不始末を仕出かした部下に、上司が『頭を丸めて出直せ』などと叱ることは、現代でもある話です。

俗世の苦しみ、悲しみを嫌というほど味わった人が、仏門に帰依して仏の慈悲の下(もと)に、心穏やかな新たな生活を開始するというような、人物は沢山歴史上登場します。

罪を逃れるための手段として『出家する』ということもあったと思いますが、俗世の人も出家した人の科(とが)はそれ以上問わないという不文律があったのでしょう。

梅爺が現役時代に働いていた会社の部署で、一部の事業内容を他社と設立する新合弁会社へ移管するという計画が進められたことがありました。もちろん経営内容がおもわしくない状況に追い込まれていたこともありますが、日本のコンピュータ産業の国際競争力を高めるために、会社の数を減らすといった通産省の思惑も背後にありました。

この合弁会社設立、一部事業移管の計画は、関連する両社の経営トップと限られた実務者だけで、秘密裏に行われ、その内容が公に発表されるまでは、梅爺たちには知らされませんでした。発表は文字通り『寝耳に水』でした。

梅爺が属していた部署の、約半分の人たちは、『新合弁会社』へ出向することになり、残りの半分は、そのまま元の会社に残ることになり、梅児は残留組になりました。

サラリーマンにとっては、生活環境が一変する一大事で、『これからどうなるのだろう』と不安に駆られることになりました。

その時、梅爺の会社で、合弁会社設立の秘密計画を進めていた実務責任者が、発表の当日、文字通り『頭を丸めて(坊主頭になって)』出社してきたことに梅爺たちは驚きました。そして『会社の経営方針とは言え、仲間を欺いてきたこと』に『無言の謝罪の意』を示したかったのであろうとその心中を察しました。『土下座をする』『頭を丸める』などという行為は、観方によっては『スタンドプレイ』で、白々しいということにもなりますが、日本の文化の中では、一般に『誠意のある謝罪』の表現と受け止められます。

『頭を丸める』『駆け込み寺へ逃げ込む』などということは、俗世の手が及ばない『別世界』が宗教にはあるということを示しています。

人間社会のこの『価値観』は『主観の共有』に由来します。『精神世界』で『主観の共有』が意味を持つのは、生物の中で人間だけのように見受けられます。

『神』『国家』『貨幣価値』などという、抽象概念が『主観の共有』の対象になると、あたかもそれは実態のあるもののように変貌し『文明』の基盤になります。犬や猫の世界では、このようなことは起きません。

| | コメント (0)

2019年9月11日 (水)

江戸の諺『阿弥陀も銭ほどの光』

江戸の諺『阿弥陀も銭ほどの光』の話です。

『阿弥陀様』の有難い御威光も、お布施の額で変わってくるということですから、『地獄の沙汰も金次第』と同じような意味になります。

あの世で極楽へ導いてくださる、尊い『阿弥陀様』をこのような一見不謹慎な表現の対象にしてしまう、江戸の庶民感覚は、梅爺の好むところです。

江戸の庶民は、『あの世』『極楽』『地獄』『阿弥陀様』を、『信じながら、疑っている』様子がうかがえるからです。

人間の『精神世界』にとって、『信じながら疑う』『疑いながら信ずる』は『生きる』上で避けられないことで、『ただ信ずる』『ただ疑う』よりは健全であると梅爺は感じています。

つまり、江戸の庶民は健全な『感覚』の持ち主であるということになります。

人間の能力では、何事も『普遍的に正しい』ことを見極めて行動することなどできません。『一寸先は闇』かどうかは別にしても、『先を正確に見通すこと』もできません。

しかし、『前へ進む』には、ある判断を下す必要があります。『先を正確に見通せない』などと言っていたら、進学も就職も結婚もできません。

この『見通せない状況』で『判断』するには、『信ずる』という行為が必須になります。つまり『信じる』ことは、『生きる』ために必要な行為になります。

しかし『理』だけで構成される『科学』や『数学』の世界では、『信ずる』などという行為は意味を持ちません。『信ずる』は『精神世界』にとってのみ必要な行為ということになります。

『信ずる』という行為は、反面『予想とは違う結果になる』というリスクをはらんでいますから、そのリスクを承知の上で、つまり『疑い』を抱きながら行う行為であるということを理解すべきです。

『信じながら疑う』ことは、矛盾した行為に見えますが、人間にとってはそれが健全であるというのはそのこと意味しています。

人間の『精神世界』は、自由奔放に『抽象概念』『虚構の物語』を創出できることが特徴です。『精神世界』の根底に『生物進化』で継承してきた『安泰を希求する本能』があり、人間は『自己弁護』『自分に都合のよい話』を生み出します。

更に厄介なことに、人間の『精神世界』は『個性的』ですから、その下す『価値判断』は一人一人微妙に違います。

したがって、人間社会で人間の『精神世界』の『価値判断』が絡む事象には、科学や数学の世界のように『普遍的な真』はありません。『政治』『経済』『宗教』『芸術』の世界で『正しい』という言葉が使われたら、それは主張者が『正しいと信ずる』と言っていることに外なりません。科学や就学の『正しい』とは異なります。

『私は自分の価値判断でこれを選択する(受け入れる)』という主張は、人間関係で意味があり許されることですが、『私は正しいと信ずる』『したがってこれは正しい』『あなたが信じないのは間違いである』という論理の飛躍は、差し控えるべきです。

| | コメント (0)

2019年9月10日 (火)

江戸の諺『狂言師』

江戸の諺『狂言師』の話です。これも諺ではなく、江戸の時代に使われていた比喩の用語です。

『狂言師』は、本来は、『狂言』を演ずる人のことで、江戸時代は、大名お抱えの『エンターテイナー(芸人)』のような立場にありました。

しかし、庶民の間で『狂言師』は、色々な細工をこらして人をだます、現代でいえば『詐欺師』の意味で使われました。『からくり師』ともいわれました。

現代の感覚でいえば、『能』『狂言』は、格式高い日本の伝統芸能であり、関係者は『人間国宝』に叙せられる方もおられるくらいですから、『狂言師』を『詐欺師』に例えるのは失礼な話です。

『狂言』のストーリーには、確かに『人をだます』内容のものおありますが、それよりも『狂言』という文字表現があたえる印象で、『詐欺師』の意味に転じたのではないでしょうか。江戸の庶民の娯楽は『歌舞伎』『人形浄瑠璃』が中心で、『能』『狂言』は、室町時代から伝統的に武士社会中心に継承されてきました。

『能』『狂言』は、日本の『精神文化』を理解する上で、重要なものと梅爺は感じています。『能』は『ワビ』『サビ』、『狂言』は『諧謔』という『精神世界』の価値観を様式化した日本独特の芸能様式で、日本人の『死生観』『美意識』が色濃く反映しています。

無駄なものを、徹底的に排除して、本質を『型』に凝縮しながら、逆にその『型』の制約の中で、自由奔放な精神の解放を表現しようとする、世界にあまり類を見ない芸能の域に達しています。厳選された『所作』や『言葉』が、非日常の世界を創り上げていながら、実は人間の本質を洞察したものになっています。『茶道』『華道』『和歌、俳句』なども共通した『精神文化』が根底にあります。

この日本の『精神文化』を、感じとれる外国人は多くはいないと思いますが、最近では日本人の多くもこの『精神文化』が疎遠になりつつあります。

しかし、この『精神文化』の一端は、今でも日本人の中に無意識に継承されているように思います。

日本の『精神文化』が、他国より『優れている』と思いあがることは控えるべきですが、私たちの『アイデンテティ(特徴的な個性)』であることを誇りに思い、自らの価値観として堂々と主張すべきです。

『四季が鮮明な豊かな自然環境』『武士の台頭』などが、この『精神文化』を育む土壌になっているように感じます。そしてもっと深くこの事について考えてみたくなります。

もうひとつ梅爺の興味の対象は、『芸能』『娯楽』が昇華して『芸術』の領域に達するプロセスです。『能』『狂言』などが典型です。

人間はなぜ、『世俗的なもの』を『高尚なもの』に変えようとするのかという疑問です。

『高尚なもの』は、庶民の多くにとって疎遠になってしまいますが、人間社会の一部にこれを高く評価する人たちがいて、『芸術』は認められ、継承されていきます。

| | コメント (0)

2019年9月 9日 (月)

江戸の諺『節季のからくり』

江戸の諺『節季のからくり』の話です。

江戸時代は、盆や暮れといった『節季』に、商売人が、決算をする習わしになっていました。『掛け売り』で対応していた客に、『掛け売り金』の一括支払いを求めることが行われました。

『掛け売り』という形式が、日常的に行われていたことは、日本の文化の一面を表しているような気がします。

その都度、現金で決算する方が、商売人にとっても好都合なことであるはずですが、客の懐具合を斟酌(しんしゃく)し、相手を信用するというリスクを冒して『掛け売り』を容認する風習は、日本人の『人間関係』に対する価値観が反映していると思うからです。この世はお互いの信頼で成り立っている、『お互い様』という考え方が強いということです。

英語で『お互い様』を表現するのは難しいような気がします。『in the same boat(同じ船に乗る:運命共同体)』『face the situation with the same problem(同じ問題を抱えて事に当たる)』などがありますが、少々理屈っぽくてニュアンスも違うように感じます。

『借金が払えない人』にとっては、節季は魔の季節で、トンズラしたり居留守を使ったり病気を装ったりとあの手この手で、取り立てを逃れようとし、一方取り立て側は、心を鬼にして、支払いを迫ることになります。

この様子を『節季のからくり』と表現しているのでしょう。盆暮れを無事に迎えられるかどうかは庶民にとって大変なことであったということです。

『からくり』は、機械じかけの仕組みのことで、江戸時代には『からくり人形』『覗きからくり』などの、見世物がありました。手品の『タネ』も、『からくり』と表現されました。

『節季のからくり』の『からくり』は、借金とりたての裏側で展開する、知恵をこらしたあの手この手の攻防を比喩的に表現したものなのでしょう。

日本語には『節目を付ける』などという表現もあり、過去を清算して、新しい気持ちで、生活を始めるような時に使います。

『心機一転』などという言葉もよく使われます。

人間が生きていく上で、このような『リセット』『再スタート』は、重要な意味を持つように感じます。『新年』『改元』『祭り』などという行事が特別な意味を持つのはそのためでしょう。

何度もブログに書いてきたように、このような『主観的な価値観を他人同士でも共有できる能力』が、人間という生物の大きな特徴です。

この特徴ゆえに、人類は、『宗教』『芸術』をはじめ、『文明』を創りだしてきました。

犬や猫が、節季に『からくり』を弄して、大騒ぎするようなことはありません。

| | コメント (0)

«江戸の諺『山出し娘』