2012年5月22日 (火)

Faith's breach for love and kingdoms is no sin.

英語の諺『Faith's breach for love and kingdoms is no sin.』の話です。直訳すると『恋と王国のためなら、信仰に反する行為も、罪にはならない』ということになります。

キリスト教文化を基盤に持つ西欧社会では、『Faith(信仰)』と『Sin(罪)』は対となる重要な言葉で、日本人が『信念』『罪』と言う言葉に接して思い浮かべる内容とは微妙に異なっていると想像する必要があります。キリスト教文化圏では、最高の美徳は『Faithful(信仰深い)』人間であることで、これも日本流に『信念を貫く』と訳してしまうとニュアンスが異なります。

西欧人にとっては、『信仰に反することは全て罪である』という考え方が『常識』であるはずですが、この諺では、『恋』と『王国』のための行為は『例外』であると言っているわけですから、真面目な人は目を白黒させることになるにちがいありません。

この諺に接して『ニヤリ』とする西欧人は、『人間は、切羽詰まれば自分本位の価値観を優先するものだ』という本性を理解できていて柔軟な思考ができる人ということになります。時と場合によって、『神の教え』も最優先でなくなってしまうという『不真面目(ふまじめ)』な話ですが、梅爺は『真面目』『不真面目』も相対的な価値観であると認識している人が好きです。

文字通りに理解すれば、異教の娘と恋におちたら、自分の宗旨を捨てても構わない、王国のためには、敵国の人間を殺しても構わないというような話になりますから、こんな『例外』を認め始めたら収集がつかなくなるのではと心配になります。しかし、戦争に出向く兵士に王様が、『王国のために敵を殺すことは神を許して下さる』と檄を飛ばすにが都合のよい諺です。

この諺は、『神の教え』を軽視することが目的ではなく、『人間は自分に都合よく価値観を設定するものだ』と言いたいのでないでしょうか。そのために『恋』と『王国』を例に挙げたのも秀逸な選択です。

誰もが『当たり前』と考えている社会常識に、疑念を提示してみたくなる『へそ曲がり』がどの社会にもいるものだと、『へそ曲がり』な梅爺は感じました。平穏無事な環境で『戦争反対』は誰でも叫べますが、自分めがけて敵のミサイルが飛来する時でも、『戦争反対』と叫べますかと問うているような諺なのではないでしょうか。

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2012年5月21日 (月)

『会津』を知れば日本が見える(8)

Dscn9241 昔の姿を復元するために最近『赤瓦』に葺(ふ)きかえられた『鶴ヶ城』

日本の歴史を眺めてみると、『国家体制』を変える『争い』は何度もありました。各地の豪族を平定した『大和朝廷』の成立、天皇、公卿中心の政治から武家政治への移行などが代表的な例です。いずれの場合も『外国』の影響は皆無ではありませんでしたが、基本的には国内の『争いごと』でした。

しかし『明治維新』は、日本が『世界の中で一国家として存続できるか』という問題を突きつけられた改革でしたから、それ以前の『争いごと』とは異なっています。列強による植民地支配は、日本のすぐそばにまで及んでおり、日本は『風前の灯(ともしび)』の状態でした。極東の島国である地形が幸いして、持ちこたえていたとも言えます。

『明治維新』は、日本を独立国家として維持するための、言いかえれば『外国』を意識した『国家体制改革』でした。『日本』と、列強と呼ばれる『外国』の国力の『彼我(ひが)の差』を冷静に比較できる、ごく一部の人たちが『改革』の推進役を担いました。私たちは、これらの先見能力のある先人に感謝すべきでしょう。『明治維新』があのタイミングで成就しなければ、その後の日本の歴史は変わっていたからです。

『彼我の差』を認識できない人たちは、『尊王攘夷』などという自分中心の精神論で日本の独立が保てると考えていたことになります。『会津藩』は、真面目で立派な藩主を擁する藩でしたが、精神論に殉じて悲劇に見舞われました。自分中心の『義』を信奉し、外の世界や情勢を洞察できる殿さまや家臣を欠いたことは不幸なことでした。リーダーは『真面目で高潔』であることが必須の条件ですが、更に周囲との関係、『彼我の差』を冷静に洞察できる能力の持ち主であることが求められます。

『明治維新』以降、日本は『彼我の差』を冷静に洞察できる国家になったのかと言えばそうではありません。『第二次世界大戦の敗戦』『現在の政治経済の低迷』など、すべて『彼我の差』を洞察、分析できない結果でもたらされたものではないでしょうか。すこしばかり幸運なことがあると、それが内々(うちうち)だけで長続きすると言う思い込みに支配される悪い癖から脱皮できていません。外の世界を理解せずに、自分中心の『義』を信奉しようとするところは、『会津藩』と変わりがありません。

『日本人としての誇りを持つ』『皆で力を合わせて頑張る』ということは大切なことですが、そのような精神論だけで、日本は国家体制を維持できません。昔以上に『世界の中の日本』という視点はは重要な要因になりつつあります。『周囲との関係』『彼我の差』を冷静に洞察できる人材を欠くと、不幸が待ち受けていることは『会津藩』の先例が教えてくれます。

『会津』を訪れて、『会津藩』を現在の『日本』と重ね合わせて考えてしまいました。

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2012年5月20日 (日)

『会津』を知れば日本が見える(7)

Dscn9235 『阿弥陀寺』には、昔『鶴ヶ城』本丸敷地内にあった『御三階(ごさんかい)』と呼ばれる密談用に使われた建物が移築されて残っている

新しくできた明治政府は、『賊軍』であった『会津』に冷たくあたりました。戦死した『会津藩士』の遺骸は、埋葬するどころか手を触れることさえ最初は許されず、嘆願の末にようやく1年後に埋葬許可が出ました。この時1300人をまとめて埋葬した『阿弥陀寺』や、自決した『白虎隊』隊員の遺骸を不憫に思った土地の人がこっそり埋葬した『妙国寺』などを今回訪れました。『妙国寺』は、降伏した『松平容保』が約1ケ月間蟄居(ちっきょ)させられた寺としても有名です。

明治政府は、『統一標準日本語』を作り出す時に、各地の『言葉(ものの呼び名など)』を参照しましたが、『会津』の言葉は除外されました。

これほど虐(しいた)げられた『会津』から、東京帝大の総長になった『山川健次郎』を始め、明治以降の日本を背負って立つ人材が沢山排出されました。『日新館』の教育は、目に見えない社会の人材資産を継承する土台になったのでしょう。第二次世界大戦の敗戦で、全てを失った日本が復興できたのは、高度な教育システムが残した『人材』は残っていたからで、『会津』の例と似ています。『教育』を重視しない社会は脆弱であるとも言えます。

梅爺が更に興味を感じたのは、『会津藩』出身の秀れた女性が明治に出現していることです。『山川健次郎』の妹の『山川捨松』や、来年のNHK大河ドラマの主人公に予定されている『山本八重』等です。『山川捨松』は、日本最初の女性留学生として『津田梅子』などとともにアメリカで学び帰国後元老『大山巌』と結婚して、『鹿鳴館の華』と呼ばれた才色兼備の女性です。薩摩藩出身の『大山巌』と、会津藩出身の『山川捨松』の結婚も、新しい時代の到来を示唆しています。

『山本八重』は、鶴ヶ城に籠城して、鉄砲を撃ったと言われているほど、活発、エネルギッシュな女性で、明治時代には京都に移り、『同志社大学』創始者の『新島譲』とクリスチャン同士の結婚をしました。日本風の美徳と、西欧風の合理性が共存する新しいタイプの女性であったために、周囲からは『悪女、烈婦』などとみなされることもありました。現代の日本ならば、特に珍しい女性とは言えないのかもしれません。

『儒教思想』の男社会であった『会津藩』から、優秀な女性が出てきたのは、偶然なのか、理由があることなのか梅爺には分かりませんが、男性であろうが女性であろうが優秀な人は優秀であると認める風潮が『会津藩』にはあったのではないかと推測しています。『儒教』は『男尊女卑』などと表面的に理解してはいけないのではないでしょうか。

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2012年5月19日 (土)

『会津』を知れば日本が見える(6)

Dscn9232 自決した白虎隊を讃えてイタリアから贈られた記念碑(飯盛山)

幕末と明治の初期の『内戦』以降、日本人同士の『戦争』は起きていません。いまだに『内戦』が続いている他の国を思えば、幸せなことですが、明治以降の『富国強兵』の国策は、日本及び日本人をもっとひどい戦火に巻き込むことになりました。

 『維新(革命)』『国体護持』などという『大義』のために『戦う』人間の習性を冷静に抑制することは、それほど簡単なことではありません。誰かがもっともらしい『大義』を唱えた時には、用心しなくてはなりません。

 『明治維新』の成就のためには、勝者と敗者を明確にする必要があり、『会津藩』を見せしめに徹底殲滅されたと観る歴史学者もいます。もしそうだとすれば、『家訓』にこだわる『会津藩』は、格好の『餌食』であったのでしょう。

『戊辰戦争』で『会津』の城下は、灰塵に帰しましたが、『会津若松城(鶴ヶ城)』は、1ケ月の籠城抗戦でも、燃え落ちたりせず辛うじて姿をとどめました。『白虎隊』が、飯盛山から城が燃えているのをみて、『もはやこれまで』と自決したというのは史実ではないようです。城下が火の海になっているのをみて、勘違いしたのかもしれません。

 『官軍』は、近くの小田山に最新のアームストロング砲の砲台を築き、8000発の砲弾を『鶴ヶ城』へ撃ちこんだと言われていますから、それでも崩壊、炎上しなかった『鶴ヶ城』は、名城と言えます。しかし、『会津藩』は戦国時代のような装備で、近代兵器に立ち向かったわけですから、負けを承知で戦ったとしか思えません。明治になって城は取り壊され、現在の城は1965年に復元再建されたものです。

 飯盛山で自決した『白虎隊』隊員は19名で、命を取り留めた人が一人いること、『白虎隊』は総勢300人以上で、飯盛山に居合わせなかった他の隊員は自決していないことなどを知りました。自決をしようとして生き残った一人や、飯盛山に居合わせなかった他の隊員は、その後の人生を『後ろめたさ』を抱きながら送ったという話を聴いて、日本的な『死生観』をあらためて感じました。

 飯盛山には、昭和の初期にイタリアから寄贈された『白虎隊を讃える碑』がありました。何が西欧人の心を動かしたのか、『生き恥をさらさない』などという武士道の精神はどこまで理解されるのかと梅爺は興味を覚えました。

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2012年5月18日 (金)

『会津』を知れば日本が見える(5)

Dscn9231 『飯盛山』の白虎隊自決の地

『会津』の観光地の説明員やお寺の住職さんの話を聴いていると、『戊辰戦争』で会津に攻め込んできた軍隊を決して『官軍』とは呼ばずに『西軍』と呼びます。『官軍』を認めてしまうと『会津藩』は『賊軍』ということになってしまい、甚だ不本意であるという反骨精神が垣間見えて微笑ましく感じました。

最後の藩主『松平容保』も、『京都守護職』の時に孝明天皇から下賜された『お前には感謝し、期待しているぞ』というような内容の『ご宸翰』(ごしんかん:天皇直筆の手紙)と『御製』(ぎょせい:天皇の和歌)を生涯肌身離さず所持し続けたと言われていますので、『自分は賊軍ではない』という強い自負心があったのでしょう。『真面目』『純真』な人柄が伝わってきます。もっとも、この『ご宸翰』のお陰で、『戊辰戦争』で降伏した後も、切腹を免れ命を取り留めたのかもしれません。『松平容保』は明治の世も生き延び、日光東照宮の宮司となっていますから、『家訓』通りに『徳川家』に忠誠を護り続けたことになります。

因みに秩父宮勢津子妃殿下は、『松平容保』の孫にあたりますから、結婚後『お国入り』した折には、『会津』の人たちは、『汚名が晴れた』と大喜びしたと言われています。

『戊辰戦争』で、まともに『官軍』と戦ったのは、『会津藩』と梅爺のふるさとである『越後長岡藩』だけです。他の藩は『形勢不利』とみるや全て『官軍』に恭順の意を表してしまいました。『長岡藩』には傑物の家老『河井継之助』がいて、江戸城同様に無血開城を申し出ましたが、攻め込んできた『官軍』の軍監『岩村精一郎』は『西郷隆盛』のような大人物ではなく、聴く耳を持たなかったために、城を取ったり取られたりの戦争となって、『会津』同様『長岡』も焼け野原になりました。ただ『河井継之助』は、会津藩と異なり、時代が見えていましたから、最新のガットリング銃(機関銃)を装備して『官軍』を迎え撃ち、藩主『牧野忠恭』をフランスへ亡命させようとまでしました。『河井継之助』は『戊辰戦争』で戦死しています。

『会津藩』は立派な藩でしたが、武士道にこだわり刀や旧式の鉄砲で『官軍』と戦ったわけですから、初めから勝ち目のない戦であったと言えます。『河井継之助』のような、傑物の家臣がいなかったのは不幸とも言えますが、逆に『河井継之助』は、『会津』の風土では評価されなかったかもしれません。

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2012年5月17日 (木)

『会津』を知れば日本が見える(4)

Dscn9230 『会津武家屋敷』内に復元された会津藩家老『西郷頼母(たのも)』の邸宅。実物は戊辰戦争で焼失。妻と三人の娘が自決すると言う悲劇がここであった。

歴史上の大変革は、多くの場合少数の人間の野望や信念で始まり、遂行されます。周囲の人間や庶民は、事態が理解できないままにその大きなうねりに巻き込まれていきます。

面白いことに、大変革の時代には、『そのために生まれてきた』としか考えられないような『特異な人物』が登場します。明治維新前後の日本には、『坂本竜馬』『西郷隆盛』『河井継之助』『大村益次郎』等が登場しました。これらの人たちは『人間研究』の格好な材料ですから、司馬遼太郎が歴史小説の主人公に取り上げたくなった気持ちがよく分かります。

『西郷隆盛』は維新の後に、『命もいらず名もいらず、地位も金もいらぬと言う人は始末に負えない。しかし、この始末に負えぬ人でなければ国家の大業はなしとげられぬ』と語ったと伝えられています。まさしく、『自分は始末に負えない人間である』と言っていることになります。『西郷隆盛』は、負け戦を承知で不満を抱く元武士達の御神輿(おみこし)に担がれ『西南戦争』で亡くなっていますから、『義を貫く人』にも見えますが、『武士の世は終わった』ということを分からせるためには、自分が死んでみせるしかないと覚悟の上の行動であったとも考えられます。『仇敵長州との連合』『江戸の無血開城』などの決断は、したたかな権謀術数ですから、単純な『至誠の人』などという言葉では表されない、不思議な魅力を秘めた人物です。

これに比べると、『会津』の最後の藩主『松平容保』は、『清純無垢』で真面目一辺倒であり、権謀術数などとは縁のない人物に見えます。残されている写真を見ても、梅爺には『ボクちゃんのお殿様』に見えます。幕末に他の大名が嫌がる『京都守護職』を引き受け、長州の恨みの対象になり、挙句の果てに、忠誠を誓う幕府の将軍がさっさと恭順の意を表明してしまっているにもかかわらず、官軍の見せしめ征伐の対象になって、『会津』は徹底破壊の対象になりました。薩長からすれば、『江戸』を徹底破壊することが本来筋ですが、そうすれば戦後の復興経費は膨大になりますので、代りに『会津』で『革命の終焉』を演出したとも言えます。

もし『松平容保』が、したたかな人物であったとしたら、『会津』の歴史は違ったものになっていたでしょう。真面目一辺倒な人物は、平穏な時代には『立派な方』で通りますが、乱世では『悲劇』を作り出してしまう原因にもなると言う話ですから、人の生き方を論ずるのは難しいことが分かります。

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2012年5月16日 (水)

『会津』を知れば日本が見える(3)

Dscn9222 藩校『日新館』の中にある孔子を祀る立派な廟

有能なコミュニティのリーダーなら、コミュニティを永続させるのに最も有効な手段は、少々回り道に見えても結局『人材の育成』であることに気づくはずです。
『教育』は、『型にはまった人間』を目指すのか『型にはまらない人間』を目指すのかでは大きく異なります。本質的な目的は、『問題対応能力』を養うことですが、ここでいう『問題』は数学の問題のように、誰もが認める『正しい答』があるものではなく、人間が生きていく上で次々に遭遇する『初めて体験する状況』のことです。現在の日本でいえば『今後原子力発電に頼るか頼らないか』というような問題ですから、誰もが認める『正しい答』などはありません。基礎知識や基本技量の習得は、それ自体が目的ではなく、いざという時の対応策の選択幅を広げるための手段です。

『型にはまった人間』を育成したり、基礎知識や基礎技量をたたきこむことが教育の目的であると多くの人が勘違いしているように梅爺は感じます。ずる賢いリーダーは、これに乗じて『コミュニティにとって都合のよい人間』を育成しようとしたり、最悪な場合『洗脳』を行ったりします。

明治維新以降、日本は『富国強兵』のために都合のよい『金太郎飴教育』を展開しました。その結果、日本は繁栄もしましたが、大きな悲劇も体験することになりました。自分自身やコミュニティを批判的に観る柔軟な思考ができないと、大きな落とし穴が待ち受けていることになります。『自分で考える』ことを放棄した人たちの集まりは危険です。『秩序』の意味も、自分で考えて従う必要があります。

今回の観光では、会津藩校『日新館』を見学しました。5代藩主『松平容頌』に仕えた家老『田中玄宰』が進言して1803年に設立された、藩士子弟(男児)の学校ですが、1000人以上の生徒を収容できるその規模の大きさに驚かされました。江戸時代は、日本のいたるところに、優れた文化が散在していたことが分かります。『日新館』は、城下にありましたが、戊辰戦争で焼失したために、現在の見ることができる施設は、別の場所に忠実に復元されたものです。

文武両道を修めるための学校ですから、剣術、弓術、柔術、砲術などのほか泳法取得のための人工のプールまで施設として具備しています。基本的な読み書きは勿論のこと、算術、天文学も教えていました。しかし、何と言っても教えの中心は『儒教』で、『年長者を敬い、弱い人を労わる』ことを、子供でも分かるようにやさしく説いた『什(じゅう)の掟』が、今でも『会津』には継承されています。

戊辰戦争の悲劇の象徴のような『白虎隊集団自決』も、『日新館』で学んだ少年たちの行動ですから、教育は優れた人材を創ると同時に、一つの価値観に縛られる人間を生みだす危険性も秘めていることをあらためて感じました。日本の教育の将来を考える上で、『日新館』は多くの示唆を提供してくれます。

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2012年5月15日 (火)

『会津』を知れば日本が見える(2)

Dscn9224 復元された会津藩藩校『日新館』。藩士の子弟1000人以上を収容できる大規模教育施設。白虎隊の隊員もここで学んだ。

人間の作り出すコミュニティには、そのコミュニティ独自の『文化、風土』が芽生えます。気候や地理の影響も受けますが、出現した指導者、支配者の『考え方』が色濃く影響することがあります。『文化、風土』は、そのコミュニティに繁栄ももたらしますが、時には悲劇の要因にもなります。

ものごとには長所、短所があり、『文化、風土』も例外ではないということになります。長所の恩恵だけが永続きしないのは、日本の場合、『バブル経済の崩壊』『原子力政策の破綻』の事例をみても分かります。

『会津』の場合は、江戸時代に藩主となった『保科正之』の考え方が『文化』形成に大きな影響を与えています。

『保科正之』が残した『会津藩家訓(かきん)』の第一条が以下です。

『大君の義、一心大切に忠勤に存ずべし。列国の例をもって自ら拠るべからず。若し二心を懐かば即ち我が子孫にあらず。面を決して従うべからず』

『徳川幕府には無条件に忠誠を誓いなさい。他藩の言動に惑わされることがあってはいけません。これができないような藩主は会津藩主ではありません。家臣もその様な藩主には決然として従ってはいけません』ということですから、北朝鮮の指導者が読めば、すぐにでも採用したくなるような内容です。

これだけを読むと、『保科正之』は、こちこちの石頭のような人物に見えますが、実態はそうではなく、四代将軍徳川家綱を補佐して、国政では見事な手腕を発揮し、会津藩主としても、他の藩では類をみない善政を実施した『名君』です。庶民あっての武士という立場も心得ていましたし、有能な人材を見抜いて登用する能力、形式にとらわれずに優先度を決める能力なども優れていました。何よりも私利私欲を表に出さないのも立派です。現代に産まれていたら、大政治家、大実業家になっていたことでしょう。

そのような『保科正之』が何故、『会津藩家訓』を残したのかを知るには、彼の生い立ちを知る必要があります。『保科正之』は、二代将軍徳川秀忠の庶子(4男)として生まれました。将軍が庶民の娘(名は静)に産ませた『ご落胤(らくいん)』ですが、正室の『お江(ごう)』には、疎まれて命まで狙われました。幸い、庇護者がいて、信州高遠藩の養子になり、やがて藩主となってメキメキと実力を発揮し始めます。三代将軍徳川家光もこの腹違いの弟の才能を評価し、死に際に四代将軍徳川家綱の補佐役になって欲しいと嘆願します。この家光に対する恩義の念が、『会津藩家訓』になりました。仁義にも厚い人物であったことが分かります。

しかし、会津藩最後の藩主『松平容保』は、くそまじめにこの『家訓』を守り、幕末で最も悲劇的な藩に『会津』をしてしまいました。

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2012年5月14日 (月)

『会津』を知れば日本が見える(1)

Dscn9226 江戸の風情を残す『会津西街道』の『大内宿』

毎年恒例の『大学同級会(昭和39年東京大学工学部精密機械工学科卒業)』が、今年は福島県の『東山温泉』で開催されました。5月10日から11日にかけて、同級会(宴会)と観光が行われました。今回の参加者は19名で、総勢22名(存命者)ですから、年齢を考えると驚異的な出席率です。

今年の幹事は、梅爺とKさんで、半年前位から、計画を練り始めました。何しろ梅爺でさえも舌を巻く『好奇心旺盛』『議論好き』の爺さんたちの集団ですから、これを統率し、あるレベルのご満足いただくようにするのは容易な話ではありません。『東山温泉』を選んだのは、福島復興支援の一助となればと考えた結果です。大半は『年金爺さん』ですので、自慢できるほどの『支援』とはいきませんが、身分相応に『散財』をしようと呼びかけました。

幹事とはいえ、梅爺もKさんも、現地に精通しているわけではありませんので、地元の『福島交通観光』に、希望条件を提示し、1泊2日の貸切バスツアーを立案していただきました。念のために3月末に、梅爺とKさんで『現地視察』にも出かけました。結論的に言えばこの手法が『大正解』で、東北新幹線の『郡山』駅に集合し、貸切バス(同じ車両、同じ運転手さん、ガイドさん)で、宿や観光地を全てめぐり、翌日再び『郡山』駅で解散するという全工程がスムーズに実行できました。まさしく『餅は餅屋』です。

関越自動車道で、悲惨なバス事故があった直後ということで、『福島交通観光』は、更に添乗員(女性)を一人を同行させるという気の使いようでした。

基本的には、『東山温泉』での宴会、宿泊を中心に、『会津西街道』の『大内宿(おおうちじゅく)』や『会津若松』の歴史にかかわる観光地を巡りましたが、『会津の歴史』は、どうしても幕末の『戊辰(ぼしん)戦争』が中心となることから、『戊辰戦争』を通じて、『会津』をあらためて知ることになり、梅爺にとっては、意外なことにそれは、日本人や日本を見つめなおすことになりました。

日本の歴史上、類まれな『名君』と言われる『保科正之』によって、江戸時代に素晴らしい『体制』『文化』を築き上げていった『会津藩』が、何故幕末には日本で最も悲惨な運命に向かって突き進むことになったのかを知れば知るほど、現在や将来の日本や日本人にとって、多くの教訓を歴史は含んでいると感じました。

『ならぬことはなりませぬ』という言葉が、今でも会津の人たちに継承されています。一見素晴らしい言葉ですが、これは世の中には『真』や『義』が存在するということを前提としていますので、もし、仮に絶対的な尺度では『真』や『義』を論ずることは難しいということになると、『融通のきかない、独り善がりな考え方』になってしまうという危険性を包含しています。

『軸がぶれない』ということは大切ですが、一方『周囲の状況に合わせる』ことも、生きていくためには必要になります。両者のバランスを取ることは、人生最大の難事です。『会津藩』の悲劇は、あまりにも『軸がぶれない』ことだけにこだわり過ぎたためのように、梅爺には見えます。バランス感覚抜群の『西郷隆盛』に比べて、会津の当時の藩主『松平容保(かたもり)』はあまりにも、『真面目』でその結果『ひ弱』に見えます。梅爺は『真面目』な人は好きですが、それ故に真面目な人が不幸になっていく『会津の歴史』には胸が痛みました。

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2012年5月13日 (日)

『理』の対象(5)

多くの方が『神』を論ずる時に、以下の二つの異なった定義を区別せずに話されるので、混乱が生じているのではないかと梅爺は考えています。

(A) 宇宙空間(天)のどこかに存在する実態としての神
(B) 人間の脳(心)の中にある抽象概念としての神

梅爺は、ブログで何回も書いてきたように、(A)の神の存在に疑念を持っていますが、(B)の神には疑念を感じていません。

(A)の神に疑念を持っているとは言え、梅爺は『存在しない』と断ずる能力を持ちませんので、『分からない』という表現が適切かと思います。梅爺が自分を『不可知論者』と呼ぶのはその意味です。

勿論、何となく疑っているわけですが、梅爺なりの疑う理由は、色々な事象を見ると、『存在する』と考えるより、『存在しない』と考えた方が矛盾が少ないと『感じている』からです。しかし、梅爺の事象を見る範囲は限定されていますから、『感じている』以外のなにものでもありません。

そのような梅爺でも、宇宙や自然が、『何かの摂理(ルール)』に支配されているという主張には、疑いを感じません。色々な事象がそう考えた方が矛盾が少ないと逆に『感じている』からです。この『摂理』は、人間の『情感』や『期待』などとは無関係な冷徹なものではないかと考えています。前にこの『摂理』の一つとして、『自律分散処理のルール』を、『仮説』としてブログに書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-5cb4.html

宗教が提示する(A)の神の定義ではなく、この『摂理』を仮に『神と呼ぶ』ということであれば、梅爺は、疑いなく受け容れることができます。しかし、この『神(摂理)』は、人間の情感とは無関係な冷徹なものですので、『愛』や『慈悲』に満ちているわけではありませし、祈れば『願いを適えてくれる』というようなものでもありません。アインシュタインが、『神は信じないが、自然の摂理の存在は信ずる』と語った真意は、梅爺の考え方と似ているのではないかと想像しています。

一方、(B)の神は、『愛』という抽象概念と同じようなもので、人間が『本能的に感ずるなにか』に対して、脳の中で作り上げ、名づけたものです。しかし、抽象概念であって、実態がないから意味が無いとは言えません。人間が生きる上で『必要』または『重要』なものとして、考え出されたに違いないからです。宇宙空間の中をいくら探しても『愛』という独立した実態は見付からないから、『愛』は妄想に過ぎないと言うのと同じことで、宇宙空間に『神』の実態は見付からないから、人間の脳に存在する概念としての『神』は意味が無いとは言えません。

『愛』や『(B)の神』を信ずる人たちが、柔和で善良である事例は、誰もが周囲に見出すことができるのではないでしょうか。

ユダヤ教を原点とする、キリスト教、イスラム教は、教義として、(A)の神と(B)の神を同一のものとして、信者に説いているように思います。そのために、理性で考えると説明がつきにくいことを包含してしまい、結局、『疑わずただ信ずることが正しい信仰の道』という説明になるのではないでしょうか。仏教も現状は(A)と(B)が一緒になっていますが、大元の釈迦の教えは、(B)であったのではないかと思います。つまり、『自分の中にある邪悪な心を排して、善良な心に従え』といったのではないでしょうか。『邪悪な心』も『善良な心』も抽象概念です。ただし、こういう考えは、宗教の歴史(特に仏教の歴史)に詳しくない梅爺のとんでもない誤解かもしれません。

『神(善良な心)と悪魔(邪悪な心)を併せ持つのが人間で、人間らしくあるために神の方を尊(とうと)びなさい』という表現(教え)なら、梅爺は何も異存がありません。この二つの概念を識別できるのは、人間だけのように感じます。他の動物は、識別せずに、そして悩まずに、ただ本能に従って行動しているように見えます。ただし、くどくなって恐縮ですが、Bの神は人間が抽象概念として考え出し、名前をつけたものに過ぎませんから、人間と共に『存在し』、人間が、この世からいなくなれば神も『存在しなくなる』という道理になります。『愛』も同じく、人間がこの世からいなくなれば、なくなるものと考えています。『永遠で絶対的な愛』は、残念ながら存在しそうにありません。

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